史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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松田毅一・川崎桃太訳「フロイス日本史」(中公文庫)から、河内のキリシタンに関する記録を抜き出し、長文は簡潔に、年代が相前後しているものは順序を揃えて分りやすく編集してみた。

永禄六年(1563)、ロレンソが奈良で結城山城守等をキリシタンにする
(注参照)


二回目の布教のため、都を出て堺に滞在していたヴィレラ司祭のもとへ、三好家の重臣・松永久秀に仕えていた結城山城守(ゆうき・やましろのかみ)から突然、「デウスの話を聞きたいので、来てもらいたい」との連絡があった。 早速、ロレンソが大和へ赴き、山城守と清原枝賢の二人に談義し、議論を闘わせたあと、遂に二人はキリシタンになった。山城守は久秀から、キリスト教が有害である証拠を探り出すよう指示されてロレンソを呼んだのだが、逆に二人の高名な学者が改宗し洗礼を受ける結果となった。 これは五畿内で、そのことを聞いたすべての人々、殊に僧侶達には、比叡の山の僧侶たちにもその他の人達にも、極度の驚異を呼び起した出来事であった。 (注)この有名な出来事は、第三集「尾張のキリシタン」でも紹介した。

登場人物紹介:

ヴィレラ(1525~71):ポルトガル人イエズス会司祭。豊後府内に上陸、平戸と博多で伝道後京都開教に尽力。将軍義輝より布教許可を得、五畿内布教の基礎を固めた。法華宗徒の迫害を受け堺に避難、その後豊後に帰還、ゴアで死去。

ロレンソ(1526~92):イエズス会日本人修道士。肥前出身の目の不自由な琵琶法師であったが、ザビエルに出会い洗礼を受ける。京都布教のためヴィレラと入京、多くの人々に教えを説き入信させた。一時、豊後に下り大村・五島などで布教、再び都に戻り信長の知遇を得る。秀吉の伴天連追放令により平戸に赴く。長崎で死去。

清原枝賢(きよはら・しげかた、1520~90):キリシタン公家。唯一神道の確立者である吉田兼倶の曾孫。彼の娘マリアは細川忠興夫人に侍女として仕え、セスペデス司祭の指導の下にガラシャの霊名で洗礼を授けた。

松永久秀(まつなが・ひさひで、1510~77):室町後期の武将。三好長慶に仕え、大和の筒井順慶らを抑えて奈良に多聞城を築き、長慶の子義興を毒殺、長慶死後、権勢の座についた。三好三人衆とともに将軍足利義輝を自殺させ、さらには三人衆の根拠・東大寺の大仏殿を焼いた。信長が入京するとすぐに従ったが、のち足利側に組して攻められ信貴山で自殺。


同年、ロレンソが河内・飯盛城に赴き、三箇伯耆守(さんが・ほうきのかみ)等多数をキリシタンにする

結城山城守の長男・結城左衛門尉(ゆうき・さえもんのじょう)は当時天下のもっとも著名な支配者の一人であった三好長慶に仕えていたが、奈良で父と共に洗礼を受けた。彼は奈良から三好殿が居住していた河内国の飯盛城に帰ると、同僚であり友人である他の武士達に絶えずデウスのことを話したので、遂にロレンソを呼んで説教を聴くことになった。

ロレンソとほとんど昼夜の別なく討論した三好幕下の武士達はまったく納得して、すぐにもキリシタンになる決心をした。ヴィレラは早速飯盛城に赴き、三箇伯耆守頼照・池田丹後守・三木判太夫という主だった人たちに洗礼を授けた。

三好長慶(みよし・ながよし、1523~64):戦国末期の武将。管領細川晴元の執事となり、和泉・河内の代官であったが、一族の政長を倒し摂津を合わせ、次いで一三代将軍義輝を京都から追い出し京都を支配。晴元を退け細川氏綱を奉じ管領にかわる権勢をふるい、畿内・四国を支配した。晩年、家臣松永久秀に実権を奪われた。下剋上社会の典型的な人物である一方、連歌にすぐれていた。

河内に教会が建ち始める

結城アンタン左衛門尉は飯盛城から四分の一里離れた砂の寺内というところに屋敷を持っていた。彼はその地方で最初に教会を建てた。

この飯盛城の麓には、長さ四、五里の大きい淡水湖があり、三箇頼照はキリシタンになるとさっそくその湖の傍にあった小さな寺院を教会に変えた。しかしその後、三千人を越える家臣がキリシタンとなった時に、サンチョ(三箇頼照に与えられた教名)はそこに司祭たちが寝泊りできる建物が付属した美しい教会を建てた。そしてサンチョは日本の教会が五畿内地方で有するもっとも堅固な柱の一つとなった。
(注)写真は三箇城址(大東市)に立つ碑である。

永禄八年(1565)、アルメイダが河内へ行く

平戸から伴ってきたフロイスをヴィレラの後継として堺から都に送り出した後、アルメイダは堺から六里隔たった河内国の飯盛城に居るヴイレラを訪問することとした。堺を出発してある川に達し、そこで三箇サンチョの息子で十二歳くらいと思われるマンショという教名の少年の出迎えを受けて船に乗り、川をさかのぼって飯盛山の麓に達した。そこから六人の駕籠舁に担がれて夜もふけて山頂の飯盛城に到着し、ヴィレラやサンチョなどから歓迎された。翌日、三好義継を訪問し、義継は酒を飲むための盃を彼等に与えて大いに敬意を表した。

ヴィレラは次の日曜日には城山の麓にある教会でミサを捧げようと決心した。その教会は長さ二里以上、幅約半里の大きい湖の中にある一つの島に建っていた。この教会と島とは、かの三箇サンチョ殿なる貴人のもので、彼は私達を同家に泊めてくれた。彼はアルメイダがかって日本で会ったことのないほど生ける信仰心を抱いたキリシタンである。

土曜の夜、アルメイダたちは上述の教会へ赴いたが、彼らの貧しい財産が許す限り、たいへん美しく飾られていた。日曜日の朝には飯盛城から来たキリシタンたちが急ぎ集い、ヴィレラがミサ聖祭を捧げ、教会の習慣によって結婚しようとする幾人かがいたので、司祭は婚姻の秘蹟について説教した。

フロイス(1532~97):ポルトガル人イエズス会司祭。肥前横瀬浦に上陸、都に上ってすぐ内裏の伴天連追放令により河内から堺に避難。のち入京した信長に厚遇される。豊後に赴任して大友宗麟父子と親交、晩年までに編述した「日本史」は「日欧文化比較」と並んで戦国末期から安土桃山時代の社会・文化・地方史研究において高く評価されている。長崎の修道院で死去。

アルメイダ(1525~83):ポルトガル人イエズス会司祭。平戸に上陸後、山口で布教を助け、豊後府内に日本初の病院を開設。博多より平戸、鹿児島、島原各地を巡回し畿内にも布教した。天草地区の院長となり河内浦で死去。


結城左衛門尉、毒殺さる

かの高貴な結城左衛門尉なる武人は天下における最良のキリシタンの一人であった。ところで彼は、ある他人が彼の財産を相続しようとしたことでその人によって毒殺されるに至った。彼は死んだ時、まだようやく三十二歳前後の若さであった。

永禄八年(1565)七月、フロイスが都・河内から堺へ避難

伴天連を都から追放せよ、との内裏の詔勅によりフロイスは心ならずも都を離れ淀川を下り、河内のある礼拝堂に到着し、そこでヴイレラに都の出来事について報告した。この聖堂は都で毒殺された若い結城左衛門尉によって飯盛城の麓に建てられたものである。 フロイスが身を寄せた三箇の教会は非常に小さい聖堂であったのでとても狭く、ほとんど自由に身動きも出来なかった。また、伴天連等を都から追放すると四日前に宣言した義継が飯盛城に帰ってきた。三箇の教会は、城の前方にある湖の中にあった。主君の意向に反して伴天連等をここに住まわせておくことは殿を侮辱することになると案じたキリシタンたちはフロイスを堺に移した。

サンチョ、主君から邸を破壊される

サンチョは飯盛城で受洗したすべての貴人たちの頭(かしら)であった。三好義継は自分の偶像に対して誓うようにサンチョに命じた。サンチョは良い封禄を得ていたにもかかわらず密かに妻子を城から去らせ、自らは堺に赴いた。翌日彼が居なくなったことを知ると、非常に大きく立派だった彼の城は早速破壊された。
飯盛城の他の貴人やキリシタンたちは義継の親戚である三好三人衆に頼んで、サンチョを呼び戻してもらった。彼はさっそく封禄および以前の財産を戻されたが、義継は六ヶ月間彼を引見することを許さなかった。

永禄十年(1567)、堺のフロイスが飯盛城を訪問

司祭が都及び飯盛城のキリシタンを親しく訪問しないでいることがもはや二年ほどにもなった。飯盛城には当時五十歳になったサンチョがいた。彼は堺を訪れフロイスに三箇に来ていただきたいと願い出た。その時が来ると、彼は司祭を迎えるために家臣を派遣し、十三歳の少年であるその息子マンショは二隻の船で二里のところまで司祭を迎えに来た。司祭が同所に滞在した八日間を通じ、一同がいかに喜んでデウスのことを聞いたかは注目すべきことであった。

フロイス、都のキリシタンのため再び三箇に行く

すでに都のキリシタンが告白しないでいることが約三年にもなったので、フロイスは再び三箇に行った。サンチョはキリシタンたちを運ぶため、非常に苦労して、各地へ船や馬を派遣した。教会が小さかったので、一同を収容できるように拡張した。
聖週の火曜日に都から約五十名のキリシタンが来て、義継が謀反のために排斥されたという大事件が発生したにもかかわらず、サンチョの計らいで復活祭が盛大に催された。

永禄十一年(1568)、信長が入京

この頃、高山飛騨守は信長の臣・和田惟政に属していた。飛騨守は、再び宣教活動を復活させるため、五島から帰っていたロレンソを伴って、惟政のところへ行った。惟政はロレンソの話に非常に感銘を受け、キリシタンを庇護する決心をした。そのお陰で、フロイスとロレンソは二条城の工事現場にいた信長に引見してもらう機会を得た。そして、彼らが京に居住する自由を与えるという、永禄十二年四月付の朱印状をもらった。これにより、先に内裏が出した宣教師追放令は事実上、無効になった。

結城ジョルジュ弥平次のこと

美濃国の生まれの結城ジョルジ弥平次は結城アンリケの甥にあたり、当地方で改宗した最初のキリシタンの一人であった。彼は国衆の一人であり、また彼の勧告によってキリシタン信徒になった甥の家の世話を引き受けねばならなくなった。その生活、品行、熱意、信心はキリシタンにも異教徒にも生きた鏡であったばかりでなく、イエズス会の司祭や修道士たち、ならびに教会のあらゆることに対する心からの真実の愛情がつねに言葉数は少なくとも多くの不断の行いによって認められる、そういう人の一人であった。

彼は五畿内にあるもっとも立派な教会の一つを建てたが、それは瓦葺で内部には百枚の畳が敷かれ、司祭や修道士達がそこに来た時に彼等のために用立てられる非常に清潔でよく設備された幾つかの居間がついていた。

彼は河内の古橋というところで、大量の米を徴収する仕事に従事していた。その場所はやや高いところにあり弥平次の家臣、およびそこにいた人たちは総じて四百名以上であった。敵は突如として二千五百名ばかりでその現場を襲撃した。味方の大部分がすでに殺されてしまったが、弥平次がかぶっていた兜に"JESUS"という大きい文字がついているのを見た敵の中でもっとも身分の高い三木判太夫というキリシタンが弥平次を助け、三箇に送り返した。

河内の三つのキリシタン宗団

フロイスの後継者・オルガンテイーノは河内の国をしばしば訪れた。その国の特に三つの地方には堅固でよく整ったキリシタン宗団が存在していた。

オルガンテイーノ(1533~1609):イタリア人イエズス会司祭。京畿布教を担当し、京南蛮寺の建立や安土セミナリオの開設等、西洋学芸の導入を推進した。「宇留岸(うるがん)伴天連」として信長の厚遇を得た。秀吉の追放令により小豆島に潜伏しながら畿内との間を往復。長崎に引退し、同地で死去。

その第一は岡山で、結城ジョアンがその城の主君であった。そこには結城ジョルジ弥平次、その他の信望の厚い古参のキリシタンがいたので、キリシタンだけからなる村落が形成されていたのみならず、同地の周辺四、五里の地に散在していた結城ジョアンの家臣たちも皆その村の住民となった。

先に信長は岡山城を取り毀すことを命じ、その地所は誰にも占有されないままになっていた。そこにオルガンテイーノの働きによって美しい教会が建てられることになり、司祭たちが宿泊し得るに足りる設備がある司祭館も併設された。

第二の場所は三箇である。岡山から半里足らずのところにあって、初期に当国で改宗が行われた時の代表的な一地域であり、それはその地の領主である三箇頼照の努力に負うところ大なるものがあった。オルガンテイーノ師は一つの湖の中にあるこの地に壮大で華麗な教会を建設するため協議した上で広大な埋め立て作業を行った。サンチョはその後、その埋立地に別の非常に美しく清潔な教会を建てた。彼の熱意とオルガンテイーノ師の説得によって、同地では二千ないし三千名の者が勇敢なキリシタンとなり、その数はますます増えて行った。

第三の場所は三箇から二里半ないし三里距たった若江(わかい)と称せられるところである。そこには飯盛城で最初にキリシタンになった人々のうちの多くの貴人たちが住んでいた。信長が彼らの国王三好殿を殺害せしめたので、池田丹後守シメアンがこれらの家臣たちの頭になった。彼はこの若江にも、立派な司祭館を付した教会を建設した。

司祭たちは河内のキリシタン宗団が分れ分れに住んでいるこれら三地方をしばしば訪問しつづけた。

マンショ、信長の疑いを解く

サンチョとその息子マンショに問題が起り、生命の最後の絆を断たれそうになった。信長はサンチョ父子が密かに毛利と通じているという讒言を信じて大いに怒り、佐久間盛政に両名を斬り寸断するように命じた。盛政は刑を執行するに忍びず、マンショを連れて都に赴き信長の部下から訊問を受けさせるように仕組んだ。訊問した二人の武士はマンショの勇気とデウスへの信頼に驚嘆し、信長にすべてを明確に報告したので彼も万事その若者が陳べたとおりであることを確信し、マンショの努力と偉大な勇気をほめ彼に自由を与え帰宅することを許し、そのうえさらに封禄を加えた。

しかし信長は将来の危険を防ぐためか、あるいは彼が事件を軽々しく見過ごしてはいないことを示すためか、老サンチョを盛政の近江国永原に追放した。

天正十年(1582)六月、明智光秀に組した三箇氏の没落

主要なキリシタンを有する河内と津の国を治めるすべての武将達は明智の敵であることを宣言したが、三箇マンショ頼連だけは明智が彼に河内国の半領と兵士達に分配する黄金を積んだ馬を約束していたので、彼の側に味方した。

明智が敗北し、二、三の殿がその軍勢を率い坂本の城を占領した後、ただちに河内国の三箇の地に出動した。彼らのうちの一人はマンショの最大の敵であった。彼はサンチョとマンショ父子の首級を持参した者に対して多大の褒章をとらせると約束した。三箇父子は夜分に妻子を伴って避難したが、キリシタンの婦女子が無保護の状態におかれているのに接するのは、我々宣教師が非常に慨嘆せずに居れぬことであった。異教徒たちは直ちに三箇に放火した。多くのキリシタンは彼らに対して教会には放火しないようにと嘆願したが、彼らは聞き入れようとはせず、それも焼却した。その教会は都の教会を除き、我々がその地方(五畿内)に有する最も美しいものであった。

秀吉、河内と摂津を自分の領国に召し上げる

秀吉が剥奪した二カ国では、さしあたっては領国と収入を召し上げるのが目的で、キリシタン宗団に対しては直接害を及ぼすことは意図していなかった。しかしその目的を意のままに遂行するためには、その地に当初からいた有力者たちを追放する必要があった。彼らのうち首領格の幾人かはキリシタンであり、それら諸国のキリシタン宗団は、三箇頼照、結城ジョアン、池田丹後教正、伊地智文太夫なる四名の有力者の保護下に置かれていた。これらの領主たちが他の者とともに居城を失い収入を奪われて追放されると、その保護を受けていたすべてのキリシタンたちは各地に四散し、異教徒たちの間で生活の手だてを求める外はなくなった。教会は破壊され、十字架は取り除かれ、司祭たちは従来のように彼等に対して豊かな司牧をすることが出来なくなった。

天正十一年(1583)、岡山の教会を大阪に移す

オルガンテイーノは大阪に秀吉を訪れて地所の下付を願い、河内岡山の教会を同所に再建する許可を求めた。秀吉は快諾し自ら城外に出て与えることに決めた地所に赴き、それを測量させたところ、長さ約六十プラザ、幅五十プラザ近くあった。彼は自らその地所の所有権を同行したロレンソ修道士に与えた。

授けられた地所は、大阪では最良の場所の一つであり、秀吉が述べたとおり、多くの諸侯が求めたが彼が誰にも与えなかったところであった。その地所の一方は川に沿い、非常な高台となっていて背後の三方は切り立ち、堅固であたかも城塞のような地形をなしており、どの場所からも大阪の美しい優雅な眺望がきいた。

岡山の教会をここへ移す作業は短期間で終り、降誕祭の聖儀を同所で催すことができる運びになった。
(注)プラザは往時のポルトガルにおける長さの単位で、ニ・二メートルにあたる。

天正十二年(1584)三月、結城ジョアンが小牧・長久手の戦いで戦死

家康は秀吉の甥・秀次の陣を奇襲し敗走させたあと、すかさず離れて布陣していた他の敵兵を襲撃し、双方の陣営では夥しい戦死者を出した。その中に河内のキリシタン武将・結城ジョアンがいた。

いま一人の池田シメアンは美濃国に住み同国の国主に奉仕していた。敗北した軍勢の中にあって彼は約三百名の兵を率いてある嶮山に登り、三千名を越える敵兵に四囲を包囲されたが、彼は勇敢に戦い多数を殺傷しつつ敵陣中を突進し、これによって彼は一躍有名になった。

天正十三年(1585)、根来(ねごろ)攻め

根来衆の屋敷、寺院、神社、偶像などが焼討ちされていた頃、離れた場所にあったために、二つの寺院とすべて瓦でおおわれ良材で造られた美しい一つの城門が焼却から免れてそのまま残存した。高山右近は秀吉に対し、「あのニ寺の一つと城門を伴天連たちに下付されるわけには参りませぬか」と伺いを立て、許された。高山右近はそれを自費でもって解体させ、海岸まで運搬させ、小西行長は自らの船舶をもって大阪に運び、先に秀吉がイエズス会に与えた地所にそれを資材として、教会を建てさせることにした。

高山右近(1552頃~1615):ロレンソから受洗したキリシタン大名(霊名ジュスト)。高槻城主から明石六万石に加増転封されるが、秀吉の伴天連追放令により改易され、流浪後前田利家に仕えた。家康の命でマニラに追放され、同地で病没。

小西行長(1558頃~1600):キリシタン大名(霊名アゴスチノ)。前半生ははっきりしないが、宇喜田家に仕え、ついで秀吉に従った。伴天連追放令の際、オルガンテイーノを自領の小豆島に匿う。肥後十二万石を領し、朝鮮の役には第一軍を率い、京城・平城を陥れる。関ヶ原の戦いで敗れ捕虜となり、キリスト信仰を最後まで守って切腹など自害を拒否した。石田三成・安国寺恵瓊(えけい)と共に堺、大阪、京と引き回されて六条河原で斬首され、三条大橋に梟された。


副管区長・コエリュ師が五畿内に到着する前に、突然関白は信長の息子および他の諸侯を伴って大阪の教会に来訪したが、われらの側では関白を迎えるためのなんの配慮も準備もしていなかった。主任司祭が彼を出迎えた。関白は祭壇近くの畳の上に座し、司祭を近くへ呼び、祭壇に置かれていた救世主の像について何かと質問した。彼はかなりの時間をそこで過ごして辞去した。

コエリュ(1530頃~90):イエズス会初代日本準管区長でポルトガル人。下地区の上長として大村領で布教。天正十四年(1586)準管区長として畿内巡察の折、大阪城に秀吉を訪問し布教許可状を得た。島原の加津佐で死去。

天正十四年(1586)、堺の商人・日比屋了珪の娘婿・ルカス宗札の処刑

ルカスは無実の罪で捕らえられ、秀吉は彼を水責めにして自白を強要した。 この頃の大阪の教会は、あわただしく出入りし往来する大群衆で、まるでローマの巡礼地、あるいは聖木曜日のようであった。同所は公共の場所であったから、友人や親戚は疑いをかけられることも少なく、より安全に集合して、事件につき語り合い、種々の方策が講ぜられた。十一月、ついにルカスは磔刑に処せられた。

天正十五年(1587)、六月秀吉はキリスト教を禁止

関白秀吉は博多で明石城主・高山右近に対し、もし今後とも武将としての身分に留まりたければ、ただちにキリシタンであることを断念せよと命じた。右近は、キリシタンをやめることに関しては、たとえ全世界を与えられようとも致さぬし、自分の霊魂の救済と引きかえることはしない、と答えて潔く秀吉の前から姿を消した。

秀吉は、伴天連と伊留満の国外追放を命じた。そればかりでなく、イエズス会の所領であった長崎・浦上の地を己のものとして没収したほか、都の教会と修道院、大阪の教会と修道院、それに堺の修道院を没収するなど、迫害の手を緩めなかった。

小西行長の領地・室津で弥平次がオルガンテイーノ師を歓迎

秀吉の伴天連追放令によりオルガンテイーノ師たち一同は皆とともに堺から四十里の室と称する港に向かって堺を出発した。彼らは室で神学校の少年たちとともに五畿内のもっとも古参で真実のキリシタンの一人である結城弥平次の家に身を寄せた。弥平次についてはすでにその稀有の徳行とか、イエズス会に対して常に示して来た彼の特別な愛情のことを述べたが、彼は今やそれらの人々を自宅に迎え得たことを誇りとした。

秀吉の迫害によるキリシタン大名の没落

かつての信長の時代に有していた教会の主要な柱であり主でもあった人々は、これまでの戦いやこのたびの迫害でその所領を失ってしまった。高山ジュスト右近、池田シメアン丹後、三箇マンショ、結城ジョアンらがそうで、彼等は先にその城や領地に繁栄したキリシタン宗団を擁していたのである。

池田丹後もまた領地を失いはしたものの、まったく見放されたわけではなかった。というのは、彼は勇敢な武将として知られていたので、今や天下の主である関白の甥秀次が彼を部下として受け入れた。そこで彼は六千俵の俸禄を与えられることとなり、身分と名誉を保って生活でき、大勢の家来を擁している。叔父にあたる関白・秀吉が司祭らを追放した時にその甥・秀次に対して「私は多年にわたってキリシタンで、キリシタンとして死ぬつもりであります。その身でお仕えいたすことをお認めいただけるならば、喜んで奉公仕りますが、さもなくば、私を放逐されるようお許しいただきたい」と。だが関白の甥はそれを許可しなかったばかりか、池田丹後の立派な決心を賞賛した。

三箇マンショもまた戦争で城を失ったが、他の大名が彼を家臣として受け入れて六千俵の封禄を与えたので、彼はその屋敷で充分な暮らしを立てており、このたびの戦争では優れた戦果を収めた。

結城ジョアンは戦死し、少年である二人の息子が残った。関白は結城ジョアンの城を他のものに与えたが、池田丹後はこの息子達を養子として引き取った。これらの子供は丹後の娘の子で、孫にあたったので、このように庇護したのである。

結城ジョアンの誰よりも身寄りでジョアンが世話になった親戚のジョルジ弥平次は、小西アゴステイーノ行長から与えられた肥後の一城の主将となった。そのため彼はかってなかったほど裕福で落着いた身分になっている。

キリスト教の弘まり

ジュスト右近の領地であった高槻の貴人やキリシタンたち、および河内の国に居城を有していた岡山、三箇、八尾の諸侯の貴人やキリシタンたちが離散することによって、彼等が赴いた諸国では彼等によってわれ等の聖なる教えが弘まって行った。

文禄元年(1592)、秀吉、朝鮮に出兵

関白の命令を受け、肥後半国の領主小西行長は、ただちにこの遠征の準備に着手した。彼の麾下には、下(九州)地方のすべてのキリシタン武将達が配置された。渡海した行長は朝鮮の城を次々と落とし、後から来た肥後の他の半国を領する加藤虎之助(清正)の助力なしで朝鮮の都に入城した。

文禄元年(1592)、三箇マンショ、天草上島・上津浦に落着

老三箇(頼照)の息子マンショ(頼連)は、初め伊予の国で関白の甥にあたる極めて残忍な性格の男とともにいた。この男はごく些細な理由でマンショを朝鮮で殺そうとした。そのため彼はこの男のもとから身を引き、小西行長に仕え彼とともに日本に帰った。その妻子は伊予国に残っており、かの残忍な男はもとより彼等を皆殺しにするよう命じていたから、マンショは密かに伊予に赴き夜分、気付かれることなく妻子を乗船させ、無事に連れ戻すことができた。暴君の家来たちはただちにマンショの後を追ったが、マンショらは巧みに敵の目をくらまし身を隠したので、発見されずに済んだ。

こうして彼は無事に天草上島の上津浦の港にたどりついた。かねて行長は彼がその港に行くように指示していたので、同地で立派な家屋ならびに食糧をその家族及び家臣らに与えた。彼は同所から行長に招かれて朝鮮に渡った。