史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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河内のキリシタンが盛衰した時代の背景につき、述べておく。キリスト教の畿内進出前後には、上洛して天下に号令することを夢見る武家たちや、真言宗 ・法華宗・真宗など宗教各派が血で血を洗う衝突を繰り返していた。その次第を、簡単に振り返ってみる。この記事は、第一集「淀川の水」12.蓮如上人と河内国・出口坊舎、から要約した。
写真:京都・東本願寺

真宗の開祖・親鸞(しんらん:1173~1262)から数えて第三世の覚如(かくにょ)は、都の東山大谷にあった親鸞の廟堂を本願寺に改め、真宗の正統派寺院を名乗った。しかし、教勢振るわず、比叡山延暦寺の三門跡の一つである青蓮院の末寺として細々と露命をつなぐ。第八世蓮如(れんにょ:1415~99)の時代に、真宗は自我に目覚め始めた農民達の帰依を得て、大発展した。それが延暦寺の山徒の嫉妬を買い、寛正六年(1465)本願寺は襲撃され徹底的に破却された。

それ以後の京の町は、細川勝元と山名宗全が対立する応仁の乱(応仁元年~文明九年)により、戦乱の巷と化して行く。蓮如は縁故をたどって、加賀と越前の境付近にある興福寺大乗院領吉崎に落ち着いた。ここを本拠とした本願寺は門徒を増やし、北陸の天台宗や真言宗、そして禅宗の寺々のほか、白山宮末社のほとんどを吸収し、加賀の高田派を追払い、加賀国守護の富樫氏と対立するまでになった。蓮如はこの争いを嫌い、夜半ひそかに船に乗り吉崎を退去し、越前海岸沖を通り、若狭国小浜(おばま)に落ち着いた。

蓮如が次の本拠として淀川の南岸で、伏見と大阪の中間にある摂津国・出口(枚方市)を選んだのは、近畿地方経廻の中心地として適していたからであろう。蓮如は自分の隠居所を、河内国石山(大阪城公園の辺り)に定めた。その後、京の郊外・山科(やましな)に本拠を移し、明応八年(1499)ここで八十五歳の生涯を閉じた。

十六世紀に入り、京の町なかでは、法華宗(日蓮宗)が町衆の尊崇を集めていた。東山の向う側の山科では、農民達が群集する本願寺が繁盛した。必然的に両派は激突し、天文元年(1532)山科本願寺は焼き打ちされ、第十世証如(しょうにょ)上人は石山に退く。

勝った法華宗も天文五年(1536)延暦寺の山徒により京の法華寺院を焼かれ、信徒は追放される。

天文十九年(1550)ザビエルが京に上ったとき目にしたのは、この宗教戦争で荒れ果てた京の町であった。彼は天皇への拝謁もかなわず、京に十一日間滞在しただけで、空しく山口に引き上げた。

永禄二年(1559)ロレンソはヴィレラ師に従い、比叡山に上り布教の許可を願った。延暦寺側の態度が煮えきらず、ヴィレラは允許なしで京に定住して教えを弘める決心をした。ヴィレラ達は住居を転々とした後、室町幕府第十三代将軍義輝の認許状を入手し、下京四条坊門の姥柳に定住した。

キリスト教に反対する法華宗の僧達は、当時将軍に代って天下を支配していた松永久秀にヴィレラ達を都から追出してくれるよう口説いた。ヴィレラは教化の仕事は、差当たりは京でははかどらないと見て、堺の町に行って布教することとした。

永禄六年(1563)ロレンソが奈良で結城山城守等をキリシタンにする、という画期的な出来事が起る。これを契機に河内の武士達の間にキリスト教が急速にひろまって行った。永禄八年(1565)ヴィレラに代って五畿担当の司祭に任ぜられたフロイスが上京後すぐ、伴天連を追放せよとの内裏の詔勅が出たため堺に避難した。

永禄十二年(1569)信長と足利義昭から宣教師の都居住を許された。キリスト教は信長の庇護のもと、信者の数を増やし天正五年(1577)都に南蛮寺を建立した。信長は、永禄十二年法華宗の僧・日乗とロレンソとの間で、また天正七年(1579)安土で法華宗と浄土宗の間で宗論をさせ、いずれも法華宗の敗北を宣している。

延暦寺は、元亀二年(1571)信長軍団により一山ごと討滅されてしまう。伊勢長島一揆も、全滅の憂目に遭う。戦いといえば武士同士を想像するが、信徒達も集団となり武器を手にして武士や他宗団と戦う、まさに戦国時代であった。

本願寺は石山でも大いに繁盛し、道俗男女が群集した。永禄十三年(1570)、織田信長は本願寺に難題を申し入れ、ついに石山合戦が始まる。十一年間の攻防の末、天正八年(1580)三月、勅によって和議が成立し、証如上人は石山を退去して紀国・鷺森御坊に移った。

天正十年(1582)信長暗殺後、実権を握った秀吉はキリスト教の弾圧を始めた。天正十五年(1587)九州平定後、博多で伴天連追放令を発布し、慶長元年(1596)秀吉の命で二十六人のキリシタンが長崎で殉教。

慶長五年(1600)関ヶ原合戦を勝利した家康は幕府を開き、慶長十八年(1613)伴天連追放令を発す。京都・長崎・江戸での元和の大殉教を経て、寛永十四年(1637)島原・天草の乱を鎮圧して以降、鎖国を厳にし、仏教寺院を使って全国にキリシタン取締りを一層強化した。

多数のキリシタンが殉教し、棄教しなかったものはかくれキリシタンになり、宣教師の司牧が得られないまま土着の宗教と融合して行った。こうしてキリシタン迫害は、明治新政府がキリスト教禁令の高札を撤廃するまで約二百五十年間続いた。