史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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桜が散り初める頃、所用で大阪へ行き、大阪平野を見下ろす生駒山麓のゴルフ場に付属するホテルで一夜を過した。翌朝、平野は春の霞あるいはスモッグに覆われて地形も定かでなく、雄大な眺めを味わうことなくクラブバスに乗り山を下りた。

今日の狙いは、河内のキリシタン史跡の歴訪である。だが、先日来の腰痛のため、無理は避けたかったので、岡山・三箇・若江のうち三箇だけに的を絞ることにした。JR片町線(学研都市線)野崎駅から一駅大阪よりの住道(すみのどう)駅に戻る。最低運賃百二十円と安いのが気に入った。
昨日、別件で頂いた重い書類を駅のロッカーに預けて身軽になり、駅を出ると寝屋川をまたいで、商店街がまっすぐ北に伸びている。下調べしておいた大東市役所は、商店街をTの字に突き当たった右手方向にある。所在 がはっきりしているので、行く手に不安は無く、ゆっくりと歩いて行く。途中、地図を買った本屋のおかみさんに、三箇キリシタンを調べに市役所へ行く旨を話し、更にその北方にある岡山は行って調べるほど価値があるでしょうかと試みに問うてみた。何もありませんという答えを期待していたのだが、四条畷市役所へ行きなさい、とのそっけない答えを聞いて失望した。しかし、後で分かることだが、これこそ正しい回答だったのだ。

大東市役所には玄関の右手に情報コーナーがあり、ご当地の史跡を紹介する書類を閲覧できるようになっていた。もっと知りたい人のため、パートで諸事承りの主婦が待機してくれていた。三箇の遺跡がどこにあるか尋ねたが、土地の出の人ではなさそうで答えられず、少々失望感を味わった。彼女は自分の職責をよく自覚しており、市の総合文化センターに電話で問い合わせ、教育委員会の人から直接教えてもらえるよう取り計らってくれた。総合文化センターは今来た駅の反対側にあり、行くことも出来なかったので電話で色々尋ねているうちに状況がうすうす分かりはじめた。そこで、大東市内文化財地図を大枚四百円で買い求め、これを頼りに三箇に向け歩き出した。

市役所の西側を北から南に流れる寝屋川に沿い、一キロほど北上するとやや西に入ったところに菅原神社(三箇)があった(写真参照)。

立札には次のように書いてある:
祭神は天満大自在天神の称号を授与された菅原道真公である。大祭は十月十九・二十日、社地内には稲荷社が鎮座する。天神さんもお稲荷さんも、稲作を中心とする五穀豊穣の神である。
住道地区の氏神で、延宝七年(1679)三箇村検地帳には氏神天満宮と記され、境内地十八歩の年貢が免除されていた。また江戸中期頃の当社は梁間五尺五寸・桁行一間二尺の社殿を持ち、西の隣接地には曹洞宗宇治興聖寺末、水月院があった。現在も基石が残存し、江戸時代の神仏習合の面影を残している。
社宝として神刀がまつられている。これは神威の高揚を願って、宝永年間の氏子たちが奉献したものである。相州綱廣の銘あり。往時の秋祭には西の口、江の口南、江の口北、大箇、下野、押廻しからの地車(ダンジリ)計六台が引き出され社頭に並んだ。この宮入りの順番は、十八目くじ引きで決められる。
また当地は十六世紀半ば頃飯盛山の支城三箇城のあったところとされる。城主三箇殿は永禄五年キリシタンとなりサンチョと称す。この時以来三箇の名は異国文書に登場する。城の位置については諸説あって断定し難い。なお、水月院跡には「城は灰、埋は土となるものを、何を此代に思い残さん」 の辞世句を記す墓石も見いだされる。
平成五年十二月
大東市教育委員会


三箇の名称の由来は、深野池(ふけのいけ)に三つの島があったから、とするのが通説とされる。

神社の鳥居の脇に三箇城祉と刻した石碑が立っている。三箇城は築城年代、規模などは不明だが、深野池に浮かぶ最大の島(大箇)にあったと推定されている。城屋敷・城堤等の地名が残っている。戦国時代、飯盛城の支城であったが、永禄四年(1561)大雪の十二月二十五日に油断をつかれて畠山方に奪われたという。

フロイスが言う「湖の中にある土地を埋め立てて教会を建てた」その教会の位置はどこであろうか。市の教育委員会では、今の地名・住道(すみのどう)が昔は直堂と書かれていたことから、住道駅の辺りにあったのではないかと推定されている。

「日本史」にあるように、サンチョ父子が毛利に通じている、との讒言を信じた信長は佐久間盛政に父子を斬罪に処すよう命じた。盛政は父子を殺すに忍びず、サンチョの子・マンショを都に送って弁明させ、冤罪を晴らしてやった。戦国武将の心意気を絵に描いたような挿話である。

盛政は信長軍団の武将で、叔父・柴田勝家に従って各地に転戦した。信長亡き後は賎ケ嶽の戦いで緒戦を奇襲で制して高山右近の陣を蹴散らし、その後方に陣していた中川清秀の首級を挙げる。この時、岐阜にいた秀吉は直ちに兵を返し、盛政軍を壊滅させ、余勢を駆って勝家を越前北の庄(福井市)に追い詰め滅亡させる。

捕らえられた盛政はどういう因縁か、宇治・槙島で処刑される。槙島城は第十五代将軍義昭が信長と対立し立てこもった所で、盛政は信長に従ってこの城を一番乗りで攻略した。