史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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菅原神社の参詣を終え、再び寝屋川にかかる橋の上に立って、行くか戻るか迷った。水面に降った桜の花びらが殆ど動かない。どす黒い川の水は一体どこに流れていくのだろう。

さっきから心の隅でいぶかしく思っていたことが、やっとはっきりした。それは、両岸が切り立ったコンクリートで仕切られ、ただ汚水を含め河水を流すだけの機能を持った、この川の異様な、非人間的な姿が気になっていたのだ。もし犬や猫、そして子供がこの川に落ちたら、自力で助かる見込はあるだろうか?左右に設けられた人道を往来する人たちは、この川に何の関心もなく、ただ先を急ぐだけのようだ。

前に大阪市東淀川区南江口にある江口の里を訪れた時の淀川を思い出した。淀川はスーパー堤防と呼ばれる頑丈なコンクリートでよろわれていた。どんな洪水が襲っても、断固としてこれをはね返すという人間の強烈な意志が感じられた。寝屋川も淀川と同じ考え方で造られたのだろう。

そのうち、やっと決心がついて、四条畷の市役所だけは尋ねてみることにした。東に向かい、国道170号(大阪外環状線)を横切る。前方に生駒山系が横たわっており、その中に飯盛山がある筈だが、それがどれか探そうと目をやる余裕もない。左折して、先の国道に平行して走る真直ぐで両側に商店などが立ち並ぶ道をひたすら北に向け歩く。遥か向こうの交差点の信号を見つめながら、歩数を数えながら歩く。四条畷駅近くに来ると、右側は巨大な府営住宅と網の目のように小路が交差した商店街があり、昼間というのに主婦達の姿で活気に満ちている。

道の左手に、国民学校の歴史の教科書でなじみの深い小楠公正行(まさつら)の墓地があり、立ち寄ったら次の立札があった:
この墓地は、南北朝の南朝忠臣楠正成の長子正行公が、足利尊氏の武将高師直の大軍と戦い、戦死し葬られた所である。正平三年一月、今から六三三年前で、その後、ここに小さな石碑が建てられた。その後百年余りして何人かが碑の近くに二本の楠を植えたが、これがその二本合し、石碑をはさみこみ、このような大木へ(樹齢約五五〇年)となった。今も正行たちの忠誠を永遠に称えている。 わが会は、この意義ある楠を保存する。 昭和四十六年三月三十一日、大阪府天然記念樹に指定されている。 昭和五十六年十一月 畷古文化研究保存会

道路に面して立てられた案内板から、私が歩いてきたこの道は古道・河内街道だ、ということを知って感慨を催した。三箇や砂の教会を訪れた宣教師達は、おそらくここを頻繁に往来したであろう。

ここで十二時近くになったので昼食をとる。店の女主人に聞くと、市役所まで歩いて十五分くらいだそうで、昼休み時間に着いては先方に悪いだろうとそこで少し時間を過ごす。

市役所の教育委員会に着いて始業時間までまだ少し時間があったが早速、生涯学習室の室長さんが応対を買って出てくれた。事の次第を話すと直ちに、市の歴史民族資料館でつい最近までキリシタン展を開催していたので、そこに行かれるのが良かろうとのこと、急に明るさが増してきた。懇切に道順を手に取るように教えてもらい、旧い面影を残す東高野街道をくねくねと辿って程なく歴史民族資料館に着いた。

京都からの東高野街道は、守口あたりから南下する中高野街道と、堺からの西高野街道と合流した街道と河内長野で一本となり、紀見峠・橋本を経て高野山に至る。

歴史民族資料館で男性と女性の館員の方と親しく会話を交わし、昔この地に確かにキリスト教の花が咲いたことを承り、訪ね歩いてここまでやって来たのが決して無駄でなかったことを心から喜んだ。

お話によると、この三月一日から三十一日まで一ヶ月間、
  Special Spring Exhibition 悲しみのクルス
として、偶然発見されたクルス(十字架:写真)の展示を中心にして、戦国時代から始まるこの地方のキリシタンの歴史を回顧する催しを行ったそうである。

  頂いた資料「悲しみのクルス」(注参照)の後半に次のように記してある:
クルスの発見
クルスが隠されて年月が経ちました。そして大正十二年頃、四条畷の南野字向之町(むこんちょう)の農家の壁からクルスが発見されました。壁に塗り込められていたため保存状態は最高に良好です。
当時、農業補修学校教諭であった片山長造氏が、クルスを持っている生徒を見られ「大切なものだから、子供がおもちゃにするものではないよ」と自身が保管されることになりました。氏は美術教師でしたが、北河内の歴史解明につくされ、キリシタン遺跡も調査されています。しかし、このクルスが見つかった土蔵の持ち主などは誰も聞いてはおらず、不明なのが残念です。
その後の昭和四十年ごろ片山先生は、考古資料を大阪市立博物館に寄贈され、銅製クルスは先生の知人に保管が移りました。知人は専用の木箱にクルスを入れ、その木箱はさらに赤い箱に収められています。それは常に金庫に保管され大切にされています。 クルスの大きさは、縦十四・八センチ、横九・六センチです。

(注)詳しくは下記を参照してください
  ちょっとよりみち考古学:http://www.interq.or.jp/red/yoshimi

結城左衛門尉が最初に教会を建てた「砂の寺内」の砂という地名は四条畷市西北部に残っており、教会の位置はそこの妙法寺あたりと考えられている。また、そのあたりはキリシタンが処刑された場所とされており、土地所有者により無縁霊が手厚く供養されている。

法華宗・妙法寺の門前に立つ案内板の主要部分を抜き出して以下に掲げる:
河内街道の今昔
当市の市街地域には南北に通ずる古道が二筋現存する。生駒山麓沿いには東高野街道があり京都と高野山を結ぶ。これと平行するように枚方を起点とし、寝屋川市高宮集落を南下し、小路から当市の砂・岡山境界部より西部底地中央部を縦走し、大東市住道から八尾へ通ずるのがこの河内街道である。 砂地区に高さ一メートルの角柱碑があって「左、右河内街道」と記されている。当地域は砂岡山キリシタン遺跡であり、ヤソ会通信使史料にも記されている。 また妙法寺前にも道標があり、メートル七〇センチ)の畦道が水田間に残っており、これを辿ると高宮集落に達する。これが河内街道の古道である。

フロイスは、岡山から半里(約ニキロ)足らずのところに三箇がある、と述べている。私が歩いた三箇・岡山間を地図上で測定してみると三・四キロあった。
フロイスが用いた距離の単位はレグワで、訳者の松田毅一先生は単純に一レグワ=一里とされているが、測定結果を換算すると一レグワ=一・七里となり、差は大きい。
これが正しいとすると、長さ四、五里(あるいは長さ二里以上、幅約半里)とされる大きな淡水湖(深野池)も更に七割方大きいと見なければならないことになる。
ラテイス編「単位の辞典」(昭和四十九年新編)によると、レグワ(legua)はスペインが起源で、同国では一レグワは三・四六マイル、または五・五七キロとしている。これから、一レグワ=一・四里となる。
第三集「尾張のキリシタン」2.沢城とその周辺、ではこの換算値を用いた。 しかし、十六世紀当時の換算値が現在と同じであったか、なお疑問が残るところである。

「悲しみのクルス」によると:
天正五年(1577)結城弥平次によって、砂の寺内教会を破壊し新しく岡山教会が建てられた。岡山教会は広大で、美麗な十字架一基を立て、同所より教会に至る道路を真直ぐなものにするため、数軒の家や田を取り払った。

当時の岡砂山は、現在のように砂と岡山の区別は明確ではなく、岡山教会の場所は、はっきりとはわかっていない。砂教会の跡に岡山教会を建てなおし、忍ヶ丘丘陵に十字架をたてた、また忍ヶ丘丘陵に教会と十字架を立てたという説がある。

秀吉の命により他国に左遷されられた結城左衛門尉の領地は三名の異教徒の家臣に与えられ、そこに建っていた教会を明石移封が決まった高山右近の努力により大阪に移転した。残されたキリシタンたちは新しい領主の迫害に耐え忍ばなければならなかった。

砂の寺内教会も、長崎のトードス・オス・サントス教会と同様、その跡地に仏教寺院が建つという皮肉な巡り合わせとなった。

トードス・オス・サントス教会は1569年、ヴィレラが創建した長崎最初の教会で、1597年コレジヨが、翌年セミナリヨがここに移り、活版印刷所もあって教育と出版に重要な役割を果たすようになった。慶長十九年(1616)家康の禁教令によって破壊され、寛永十七年(1640)その跡に春徳寺が建てられて現在に至っている。

大阪城公園の南にあるカトリック玉造教会(第一集「淀川の水」参照)にお邪魔して司祭様にお目にかかり、この場所は河内から移転してきた教会のあったところでしょうかとお伺いしたところ、それとは関係なく明治時代にここに建てられたものであり、もとの教会の位置は自分も知りませんとのこと。

司祭様はのちに、河内在住でキリシタン史に造詣の深い信徒・松本 巧氏を紹介してくださり、この方からご親切に河内巡礼者のための著述書を送って頂いた。その中で、天正十一年(1583)に岡山から移された教会の位置を、 現在の京阪天満橋上の台地、北大江公園の付近か
と考証されている。
秀吉から下賜されたこの土地は四千四百坪で、河内から移築した教会のほか、根来攻めの際、右近が秀吉に願って得た寺の建物と城門があったはずである。

玉造教会に隣接して越中井があり、細川屋敷跡といわれる。細川忠興の妻ガラシャは極秘のうちに大阪の教会を訪れ、修道士ヴインセンテの話を聞き、ついに清原枝賢の娘で侍女 ・マリア清原の手で洗礼を授けてもらった。
慶長五年(1600)彼女が屋敷に火を放って死去した時、オルガンテイーノは焼け跡からガラシャの遺骨を拾っている。 天正十五年(1587)伴天連追放令を発した秀吉が没収したはずの大阪の教会は、この頃まで機能していたのであろうか。一説によれば、教会の建物は天正十七年(1589)秀吉が自ら縄張りして普請した淀城に移築されたという。

砂地区の巡礼を終え、東へ忍ケ丘駅に向け足を運んでいると、小高いところに忍陵神社があった。
式内忍陵神社(しのぶがおか)
当神社は今から千ニ百年前より当地域(岡山・岡山東・砂地区)の守護神・熊野皇天神(諸願成就)、藤原鎌足公、大将軍神(日本最古の方除の神)・馬守大神(交通安全・家業繁栄)をおまつりしています。旧くは津桙社(つばこしゃ)・大将軍社・馬守社と別々におまつりしていましたが明治・大正時代に三社が合祀され現在の社名に改称されました。又醍醐天皇の延長五年に定められた延喜式神明帳に記載された全国三千百三十二社ある延喜式内社(津桙神社)の一社でもある立派な鎮守様です。 この歴史ある伝統文化に支えられてきた鎮守の森には、古墳時代前期(四世紀)の前方後円墳の石積石室が現存され、府下でも貴重な文化財であり、戦国時代には当地が軍事上たいへん重要な地に選ばれ、歴史上何度となく登場する処でありますが特に大阪夏の陣では徳川方の本陣が設営され徳川幕府成立に大きい役割を成した場所でもあり縁起の良い処として、御勝山と称された由緒ある鎮守の森でもあります。

岡山城は信長の命により取り毀され、その地所にオルガンテイーノの働きによって美しい教会が建てられた、と伝えられる。岡山周辺の小高い要害の地といえばこの忍陵神社あたりであるから、岡山城はここにあったものと思われる。

離散した河内のキリシタン武将の行方を、松本 巧氏の著書から抜書きする:
池田丹後守は、豊臣秀次に信仰を捨てるのなら仕えないといった。キリシタンで構わぬとの条件で、美濃の清洲奉行になった。
結城弥平次はその後、熊本の大名になった小西行長の武将として、肥後熊本の矢部で一万五千石の大名になった。
三箇伯耆守は禁教令の時に、高山右近と共に小豆島で働き、その後滋賀の野洲に信仰の集団をつくり老齢で亡くなった。
三箇マンショの最後の消息は、天草上島の有明町上津浦である。

池田丹後は秀次の家臣に取り立てられ、三人の清洲町奉行の一人になった。文禄四年(1595)秀次は高野山で自殺し、清洲の支配は福島正則の手に、慶長五年(1600)関ヶ原合戦後は松平忠義、その後継者で初代尾張藩主の徳川義直の手にと次々と移って行った。彼等はキリシタンを保護したから池田丹後も没落は免れたことだろう。慶長十五年(1610)の清洲越しにより、城も人も名古屋城に移転したため現在の清洲には当時の記録が一切失われてしまった。

小西行長が関ヶ原の戦いに負け、肥後半国の領地を加藤清正に奪われた後、結城弥平次と三箇マンショはどうなったのだろうか。後に寛永十四年(1637)「島原 ・天草の乱」を起こした小西残党に加わったのかどうか定かでない。その後偶然、次の記事を見出したので紹介しておく:
行長の信仰とともに成長した宇土、八代、矢部教会に対する清正の迫害は、突風となって吹き荒れた。宇土で留守を預かっていた行長の弟隼人は死罪、八代の城主ディエゴ小西美作は薩摩に落ち、矢部の城主ジョルジュ結城弥平次は有馬に逃れた。(日本カトリック司教協議会「ペトロ岐部と百八十七殉教者」 2007年9月発行)

結城弥平次

ジョルジュ結城弥平次は天文13年(1544)に生まれ,結城山城守忠正の甥で,河内岡山城城主・結城ジョアンの家老になる。京都の南蛮寺建設にも関わる。1588年小西行長が肥後宇土城入城の時、禄3500石を得て家老となり、益城郡矢部の愛藤寺城城代を務めた。城内の邸宅に伝道所を設け、布教に努め、信者数は最終的に4000人に達し宣教師も招かれたという。 文禄2年(1593年)5月の明使来日の際には世話役を任される。
関ヶ原の戦い後は加藤清正に仕えるが、棄教を拒否したため家中より追放される。その後は有馬晴信に知行3000石で召し抱えられ、金山城(結城城)主となるが、晴信の死後慶長18年(1613年)以後の消息は不明。一説によると,寛永5年(1628)末次平蔵の台湾派遣船に浜田弥兵衛とともに乗船したといわれる。

愛藤寺城の起源は貞応元年(1222年)、阿蘇大宮司阿蘇惟次が天台宗系寺院の愛藤寺を移転させた跡地に城を築いた事によると伝えられる。
文正元年(1466年)、肥後国守護菊池為邦に破れた阿蘇惟忠が同城へ立て篭っている。天正16年(1588年)5月、肥後国南半の大守として小西行長が入国すると、行長は同城を近世城へ改築し、結城弥平次を城代に置いた。行長及び弥平次はキリシタンとして知られており、城内より出土したクルス瓦はこの時期の所産とみられるが、熊本県において出土例が外にない点から、矢部のレジデンシアに伴う遺物の可能性がある。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける行長の没落に伴い、同城は加藤清正の所有するところとなった。清正は城郭を大規模に修築し、三重の天守を建て、加藤万兵衛を城代に置いたが、同17年(1612年)、宇土城・水俣城とともに破却された。破却後の部材の一部は熊本城へ運ばれたという伝承が残されている。
廃城後は荒蕪地となり、その後城下の集落が北へ移動したこともあって長く放置されていたため、元の地形をよく留めている。

慶長7年(1602)弥平次は有馬晴信に招かれて、肥後愛籐寺城から島原半島最北端の神代(こうじろ)にあった金山城へ知行3,000石で入城し、ここでもキリスト教の布教活動を続けた。
慶長14年(1609)弥平次は晴信の命を受け、マカオ船マーレド・デ・デウス号攻撃に参加。
慶長17年(1612)晴信は岡本大八事件に関係したとされ、徳川幕府によって処刑される。晴信の子・直純はキリシタン追放に手を染めたので、慶長18年(1613)2月弥平次は金山城を出て消息を絶った。

金山城址は雲仙市国見町田比良の神代から雲仙に向って左手に見える小高い丘にある。島原半島北辺の守りとして、戦国時代初頭この地に金山城が築城され、永禄年間に土豪古賀越後が有馬氏から金山城と東空閑城を与えられたと伝えられる。
天正12年(1584)佐賀の竜造寺隆信は3万人の兵を率いて、有明海を渡り神代海岸に上陸し島原半島の海岸を迂回して軍を進め、「沖田畷の戦」で薩摩・有馬連合軍に敗れ 討たれた。