史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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野崎参りは屋形船でまいろ
の歌で名高い野崎観音に参詣してから飯盛山に登ることとし、ある朝、野崎駅を降り、鞄や書類を駅のロッカーに預け、カメラとミネラルウオーターだけを携帯して東に向かう。朝早いからか、参詣者の姿はない。近くの喫茶店で軽く朝食を摂る。両側を商店が立ち並ぶ参道を抜けて高台にある曹洞宗・慈眼寺に参詣し、観音さまにお目にかかった。

このお寺は一条天皇(在位:986~1011)の頃、摂津の江口の君という遊女が信心し病気がなおったということで参拝者が増えた。彼女は報恩感謝のため低地の嶋頭から現在地に寺坊を再建したので、中興の祖と呼ばれるようになった。しかし、戦乱の世兵火で焼失し、江戸初期に青嵓(せいがん)という僧により再建されたという。

以上の背景説明から、寺内の一隅に立てられた次の立札の意味がわかる:
当寺中興開基江口之君堂縁起
江口の君光相比丘尼は、淀川の対岸・江口の里の長者で藤原時代の終り頃重い病気にかかられ、当山の観音さまにおまいりして病気をなおしていただかれました。
同じ病気になやむ人たちをたすけて下さいますので婦人病の方やこどものほしい人たちが沢山おまいりになります。
このお堂を左から年の数だけおまわりになると、ご利益がいただけます。


江口の君とは、西行(1118~90)と歌問答したかの遊女のことであろうか。そのお話は、第一集「淀川の水」で解説した。

修理のため道が不通、との掲示があるので、もしかすると四条畷側の登山口に回らないと登れないのではないか心配になった。開店準備に忙しい売店のおばさんに聞くと、飯盛山方面の道とは関係ないとのことで安心する。教えてもらったとおり、鐘つき堂の右脇を通り、裏山から飯盛山を目指す。

いったんは山を下り、滝修行場と数軒の民家がある谷間を通り深い山に分け入る。滝修行場の脇を通り過ぎる時、そこから見上げる色白の中年女性と偶然視線が合い一瞬、どきりとする。しっかり者といわれる河内女とはこのような人か、と想像する。

滝行については、今東光著「河内女」(講談社、昭和三十八年発行)に次の一節がある:
信貴山麓から山道へ分け入って少し登ると、やがて淙々と水音がして直ぐ傍が渓谷になっている。生駒山系にはこの山襞の谷に水流が多く、昔は水車を仕掛けて米を搗いたり、綿の実を搾って油を採ったりしたものだが、今日はおおむね廃屋となっていた。 善妙は人の世話でその廃屋を買い受け、自分で手を入れてどうやら人の住めるように拵え、且つ信者の脱衣場まで整備した。それから谷の流れを調節して人が打たれても怪我しない細流にした。滝行というのはやっぱり予備体操をし、適時、滝を受けるわけで無法に頭から打たれたりすると軽い脳震盪を起こしたりする。またあまりに冷たい水を一気に浴びると心臓に故障を生じたりするが、漸次に滝行を履修する時には文覚上人ではないが鋼鉄のような意志と肉体を獲得することが出来るのだ。
お加也は陰湿な谷間の住み所に移った時、泣きだしてしまった。

上りと尾根縦走を重ねてNHK電波塔のあたりに出ると西に視界が広がり、眼下に薄いもやがかかり、視程ニキロ程の市街地が一面に広がる(冒頭のパノラマ写真)。少し行った楠木正行(くすのきまさつら)の銅像のある辺りが山頂のようだ。

河内飯盛城跡
銅像地点が飯盛山頂である。
飯盛山と称する山は全国で二十三ヵ所。当地は戦国時代の山城として著名である。東はV字型の滝谷を挟んで九十九谷と総称される生駒連山となり、西部は急峻となって河内平野に連なる。
1348年の四条畷合戦時は、一時的に足利軍の戦術拠点となる。次いで戦国時代の武将達は、当地を畿内制覇の格好場所と定めるに至った。1530年代の木沢長政、次いで安見直政、1560年代には三好長慶が入城し、畿内に君臨し、政冶・文化の中心地となる。 桜池より北方千メートルが飯盛城の城域になる。当地点と銅像地が高櫓、南のNHK放送電波塔の立つ所が千畳敷、楠公寺の地所が馬場、北方へ谷をへだてた尾根が御体塚と呼ばれ、往時の城郭地名を現在に残す。織田信長が入京し飯盛城は廃される。

大東市教育委員会


山頂付近の休息所は十五人ばかりの高齢の登山者の間で会話が弾んでいた。その傍で私は下界を眺めながら無言で汗を拭き、水を飲んで一休みした。

帰途は四条畷神社の方向に下る。旧道と新道とがあるが、迷わず旧道を選んだ。道は思ったより狭く急勾配で曲りくねっている。木々の間からまじかに下界が見下ろせるが、なかなか山が深く、すぐには里に降りられない(写真)。

永禄八年(1565)アルメイダはヴイレラの後任・フロイス神父を伴い堺にやって来た。フロイスを都に送り出したあと、三箇サンチョが差しまわした船に乗り飯盛城に滞在しているヴ ィレラを尋ねた。
アルメイダは麓から六人の駕籠舁に担がれ、この道を通って夜もふけて飯盛城に到着した。途中の山道はかなりの難路であったという。登りと下りの違いはあるが、同じ険しい山道を歩いてそれを実感でき、心から満ち足りた思いをした。 ヴィレラ神父は弘治二年(1556)来日し、平戸に駐在して布教にあたったが平戸領主・松浦隆信により追放された。山口にいたトルレス神父の指示で、ロレンソ修道士と共に都に上り、畿内布教に尽力する。アルメイダ修道士は天文二十一年(1552)来日し、豊後に西洋医学の総合病院を設立し、九州各地を伝道した。特に、肥前国・横瀬浦開港と大村純忠入信には重要な役割を演じた。ヴ ィレラは頼もしげなアルメイダに会って勇気百倍したであろう。

  麓には四条畷神社があり、御祭神は楠木正行公(小楠公)はじめ二十五柱である。由緒書きに次のように記されている:
当社は鎌倉末期、皇位の継承が、公卿・幕府の思惑がからんでもつれたとき、不利を覚悟で一身をなげうって飽くまで正統の天皇を守り、明治維新の原動力ともなった楠木正成公(大楠公)の嫡男で、父にも劣らぬ忠孝両全、情厚く、智勇にすぐれた正行公(小楠公)を主神に弟、正時以下二十四柱を配祀する。明治天皇はことに楠公がお気に入りで、正成公には正一位を追贈し、別格官幣社第一号として神戸湊川神社にお祭りになり、正行公には明治三十年に従二位を追贈された。

神戸の湊川で討死した正成の首級は、足利尊氏の命により観心寺(新四国客番霊場:大阪府河内長野市)に埋葬された。同寺の由緒書に次のように記されている:
大楠公・楠木正成
後醍醐天皇は当寺を深く信任され、建武新政後(1334頃)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を出され、現在の金堂(国宝)が出来た。正成自身も当寺に報恩のため三重塔建立を誓願された。延元元年(1336)神戸の湊川で討死後、正成の首級が当寺に送り届けられ、首塚として祀られている。

四条畷神社の参道から東高野街道に折れ、左手に飯盛山を見ながら南に下る。古道だから沿線に何か見るべきものがあるだろうと期待したが、左手まじかに飯盛山を仰ぎ見るだけで特に何もない。車の往来が激しいのに歩道もなく危険な思いをしながら、やっとの思いで出発点の野崎観音参道へ戻った。