史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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近代的で高層建築の八尾市役所を訪れて、東の高安山の麓にある歴史民族資料館の所在を教えてもらった。 八尾市は大阪のベッドタウンであるが、八尾空港という独自の空の玄関口を擁する近代都市である。八尾空港は日本で一番早く、戦後初の民間飛行場としてオープンし、現在も民間飛行場としては日本最大の規模を誇る。

いったんは近鉄八尾駅に戻り、一駅東の河内山本駅まで行き、近鉄信貴線に乗り換えて更に一駅の服部川駅で降りる。この路線は日本で一番最初に出来たといわれる信貴山ケーブルカーに連絡している。

服部川駅から、教えてもらった道順を忠実に辿り、かなり長い道のりを歩きやっと目的の館にたどり着いた(写真)。 二百円払って入場し、よくある考古学の陳列物には目もくれず、キリスト教関連の展示の前に立って書き写したメモを以下に記す:

河内国守護畠山氏に代わって登場した三好長慶はキリスト教に対しては寛大であり、有力家臣の一人池田丹後守教正(シメアン)も熱心なキリスト教信者であった。天正年中八尾城主となったため、城下には数多くのキリシタンが集まり繁栄をみた。また西郷にはバテレン屋敷跡と伝えるところがあり、また教会をこわしたところに鐘を埋めたという伝承がある。
西郷共同墓地で、天正十年五月二十六日の日付があるキリシタン墓碑が発見され、今日まで保存されている。八尾のキリシタンの全盛を物語るものである。
しかし、天正十五年(1587)豊臣秀吉はキリスト教を禁止、その後もたびたび禁止令が出され、遂に徳川家光が鎖国をとるに至って、多くの信者が隠れキリシタンとなった。
最近、八尾市内でキリシタン燈篭や骨壷が出土したので、八尾にも隠れキリシタンがいたことがわかる。

キリシタン墓碑
八尾市西郷共同墓地から、天正十年五月二十六日の日付が刻まれたキリシタン墓碑が発見された。中央にイエズス会のマークであるIHSと十字架が組み合わされ、その下に満所と縦書きされ、さらにその下にMONTIOとあり、その左右に年月日が刻まれている。

イエズス会のマーク入りの墓碑はたいへん珍しいのだが、これがキリシタン関係誌に紹介されたことはない。河内はキリシタン研究の真空地帯といっても言い過ぎではなかろう。

太古の昔、奈良盆地を西に流れ下った大和川が北に向きを変え、幾筋にも分かれて天満砂州東方の広大な潟(難波潟・草香江)に注いでいた。北からは淀川が流入し、両川の堆積作用で潟は次第に縮小して深野池などが残った。そしてこの池も下記のように大和川の付替えにより干上がってしまった:
大和川の付替え
大和川はたびたび氾濫し、とくに下流域では被害が多かったので、今米村の庄屋・川中九兵衛らは川の付替えを幕府に願った。父の意思をついだ甚兵衛は、新川筋二十七ヵ村の反対を受けながらも幕府を説得し(明暦ニ年)、ついに四十八年ぶりの宝永元年(1704)新川の開削に成功した。
旧大和川の跡地は、まず新川によって失った土地の代替地として、それぞれ配分し、ついで大阪の商人や由緒ある寺などの出資で新田開発が行われた。八尾では天王寺屋新田や顕証寺新田など九つの新田が開発され、畑作農業が盛んとなった。
なかでも、新田の砂まじりの土質が綿作りに適していることもあって、河内は全国一の綿作り地帯になった。古くから久宝木綿として知られていた綿作りから一挙に大量の綿作りの時代へと飛躍した。

河内の綿を織って作った河内木綿も、明治に入ってインドから印度綿が輸入されるようになると、あえなく絶滅してしまった。河内に代わり、和泉大津でタオルなどの織物生産が盛んになったので、河内の織工も農村から引き抜かれて和泉に行ってしまった。 八尾では、シナから輸入した豚毛を使った刷子(ブラシ)屋が盛んになったが、戦後の変動期には中国、東南アジアの広大な市場を失い、生産過剰にあえぐこととなる。今日でも、歯ブラシや洋服ブラシなどブラシの生産量は日本一といわれる。

付替え前の大和川水系については「大阪府の歴史散歩(下)」(山川出版社)に次のわかりやすい解説がある:
奈良盆地の水を集め、生駒山地の南端、亀の瀬の峡谷を通って河内平野に流れ出た大和川は、柏原市安堂(あんどう)付近で河内長野市付近から流れてきた石川と合流し、そこから現在は西方にむかって堺市の北を流れ、大阪湾に注いでいる。
しかし、1704(宝永元)年までは、大和川は合流点から旧柏原村(柏原市)の東を北へ流れ、二股(八尾市)でわかれて東は玉串川、西は長瀬川となり、玉串川は旧英田(あかだ)村(東大阪市)で吉田川と菱江川に分流した。 吉田川は深野(ふこうの)池・新開池に流れ込み、再び菱江川に合流し、森河内(東大阪市)に至って長瀬川と合流して大阪城の東付近で淀川に注いでいた。
このように、大和川の流れは古来、河内平野では屈曲して網の目のように幾筋にもわかれて複雑をきわめ、水勢はゆるやかだが、ひとたび大雨が続けば堤は決壊し、大きな洪水をもたらした。古くから流域住民の苦悩と困惑のもとであった。江戸時代に入っても水害は繰り返され、その被害ははなはだしく、住民の苦難ははかりしれないものがあった。

河内は、悪名高い河内弁で全国に名を馳せている。私も、天王寺高校出身の学友の話し言葉があまりにも汚いので最初、たいへん驚いた。

今東光氏の著書からその一部を紹介すると:
われこそ約束してスカくわしてるやないか。
じゃかましッ。誰や泣きさらすのは。表へ放り出すぞ。
「おんどれ」(おのれ=おまえ)、「かだら」(からだ=身体)など。
夕闇の中に白い人影がチラと動いたかと思うと、真直ぐにお類の家の庭先に面した濡れ縁の際に、ぬっと髪を振り乱した真やんの女房が突っ立った。
「やい。帰れ。知らんと思うとるのか。好い加減にさらせ。三人も子倅があるのに、このざまは何や。村の笑い者になってんのわからんか。お前はな。二号さんを抱えるほどの甲斐性あるんやったら、もうちいっと家の方あんじょうしてからさらせ。こら。腰あげんか。踏み込んで連れて去(い)なれたいか」
(「河内の顔」:講談社、昭和35年刊)

東光和尚はその著書の中で、自分が住職をしていた新四国第四番霊場龍谷山水間寺(天台宗)の村を、次のように口汚く罵っている。河内人が水間村の村人を自分達より下に見ているところが、目くそ鼻くそを笑う、のたぐいで面白い。
水間観音てあろうな。有名な水間寺のある村でな。めっさとないほど柄の悪い村や。貝塚あたりでは、水間村の人間はやっと二人よって一人前やと言われるほどド頭(たま)の薄いところでな。まあ、こちの喜三太の嫁にはその水間村あたりのド女郎(めろ)でも貰らわなあかんやろと諦めてたんや。
(「家」:講談社、昭和35年刊)

今東光(1897~1977)は、横浜生まれで関西学院中等部中退、テンプラ学生として東大の講義を受講、川端康成と文芸活動をした。昭和五年東京浅草伝法院で出家、昭和八年まで比叡山延暦寺で修行後、茨城県安楽寺に入る。昭和二十一年(五十三歳)八尾市中野の天台院の住職になり、「お吟さま」で第三十六回直木賞を受ける。昭和三十六年貝塚市の天台宗水間寺の住職になる。昭和四十三年参議院選挙に全国区より立候補して当選、昭和四十九年まで勤める。昭和五十二年(七十九歳)示寂。源氏物語の現代訳をした瀬戸内寂聴さんはその弟子。