史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
  • ホーム
  • 紀行文
  • キリシタン史跡
  • 太平洋戦争
  • 核物理
  • お問合せ
  • リンク

河内に隣接して、同じ時代に独自のキリシタン王国を形成した高槻とその周辺をたどる。

天正二年(1573)高山右近は高槻に天主教会堂を建設した。この地方は、右近在城の間、キリシタンの一大中心地となった。
天正九年(1581)にはイタリアの巡察使ヴァリニヤーノを迎えて盛大な復活祭を催している。
天正十三年(1585)右近は秀吉によって明石六万石に加増転封させられた。
天正十四年(1586)七月九州征伐を終えた秀吉は博多で突然、バテレン追放令を出す。右近は秀吉より棄教を迫られたが拒絶し、明石城主の栄禄を抛ち一族諸国に流浪する
。 慶長十七年(1612)家康はキリスト教禁令を発布。同十九年右近はルソン島のマニラへ他の信者と共に追放され、残る者達もその縁者も含め死罪・流罪等の厳刑に処せられた。右近は半年後現地で病死、享年六十三歳。

高槻に残されたキリシタン達は山奥深く隠れて信仰していた模様で、大正八年(1919)二月キリシタン研究家の藤波大超氏(故人)が茨木市千提寺(地名)の山林(通称クルス山)の中腹からキリシタン墓碑を発見した。

同地に茨木市立キリシタン遺物史料館(茨木市千提寺262)がある。ここにある聖フランシスコ・ザビエル画像は複製で、原画は神戸市立博物館に所蔵されて名高いが、ここ地元の東藤嗣家に伝わったものである。

元和八年(1622)ローマ教皇グレゴリオ十五世によってザビエルとイグナチウス・ロヨラとが聖人に列せられた。この知らせは長崎にもたらされ、迫害されている日本の教会に大きな喜び ・慰め・力付けを与えた。新聖人像が長崎で多数模写され新聖人の信心会ができ、会員も増加した。その後、宣教師達が山口などザビエルゆかりの地を訪れ、列聖を祝う行事を行った。 このザビエル画像も京阪地方のキリシタン達がこれを祝って在京のキリシタン画家ペトロ刈野源助とそのグループに制作を依頼したものといわれる。キリシタン遺物資料館の説明では、和紙に泥絵具、にかわ、鶏卵の黄身をまぜあわせて彩色されており、1623年頃狩野派の画家によって描かれたという。

ある日、私はこの遺物史料館を訪れようと阪急茨木駅に降り立った。その近辺の街中にあるだろうとたかをくくって、タクシーに乗り込んで行き先を告げた。ところが、タクシーは意に反し、市内を背にして北北西の山中に向けどこまでも走り続けるではないか。後に地図上で当ってみると、安威川沿いに北上したらしく、史料館まで直線距離で約十キロあった。高額のタクシー代を支払ったが、確かにそこは山中深くキリシタンが隠れ住むのに適した地域と見受けられた。

史料館は山間の小高い地に建つ真新しい白亜の平屋建てで入場無料、年配の管理人と暫時会話を交わした。展示物は僅かだが、その中に「どちりいな・きりしたん」の複写版が置いてあるのが珍しかった。冒頭の写真は、史料館の紹介パンフレット所載のものを転載した。

ここから西にキリシタン大名高山家発祥の地・豊野町高山がある。
帰りは徒歩を覚悟したが、偶然通りかかったタクシーを拾い、難なく茨木駅に到着した。

個人経営の南蛮文化館(大阪市北区中津6-2-18)には原城祉から出土した黄金の十字架など一級のキリシタン関係遺品と南蛮美術品が展示されている。阪急中津駅で下車し、高架道が二股に分かれる付け根を下に降り、徒歩三分とあるが、かなり分かりにくい。また、展示期間は五月と十一月のそれぞれ一ヶ月間しかない。入口に、安土教会堂址に建っていたという安土教会堂址の旧い石碑が置いてある。
高槻は第一集「淀川の水」、高山右近は第三集「尾張のキリシタン」にそれぞれ関連記事があります。