史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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仙台市から南約十二キロにある仙台空港はプレハブ造りの簡易な建屋があるだけ。そのすぐ隣のレンタカー会社に立ち寄り、車を借り仙台市付近の道路地図を貰い出発した。国道4号線を北上し仙台市の東側を抜けるバイパスを通り、多賀城市に入る。

加瀬沼の南側丘陵地帯に多賀城の城域が拡がっていたと考えられ、その中央に政庁跡、南方の南門跡付近に多賀城碑、そしてそこから東南東に約一キロ離れて東北本線を挟んで多賀城廃寺跡がある。

多賀城の外郭南門から中枢部の政庁へまっすぐに通る大路は最も重要な道路で、八世紀頃は幅十二メートルであったが、九~十世紀中頃には約二十三メートルに拡幅され、政庁南方の斜面には自然石を並べた階段が設けられていた。

階段上り口右手に政庁全体の模型が置いてある。
多賀城跡政庁推定復元模型
政庁は、多賀城のほぼ中央に位置し、陸奥国府の重要な儀式などを行っていたところで、周囲を築地塀で囲まれその中心に正殿、東西前方に脇殿が配されている。これは、発掘調査結果に基づき、第二期(八世紀後半)の建物について推定復元したものである。


多賀城碑(壺の碑:写真中央の建屋に納められている)
日本三古碑の一つ。石面には、京をはじめ諸方から多賀城までの距離、神亀元年(724)多賀城の創建や天平宝字六年(762)藤原恵美朝(ふじわらのえみのあさかり)が修造したことなどを刻んでいるが、正史に符合しない点や書体をめぐって異説もある。頼朝、西行の歌にも詠まれ、芭蕉も元禄二年(1689)五月に訪れており、正岡子規も句にしている。(旅行ガイド誌より)

壺の碑(つぼのいしぶみ)には、次の文が刻まれている:
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷国界一百廿里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国三千里


靺鞨(まっかつ)国は今の沿海州を指す。また里数は、奈良時代は江戸時代の六分の一といわれる。

次に多賀城廃寺跡を訪れると、立札に多賀城に関する比較的詳しい史実が記してあった。かなりの長文であるが、その後半に廃寺跡に関する記事もあったのでそのまま記しておく:
特別史跡・多賀城跡附寺跡
多賀城は、奈良時代に陸奥国の国府として造営され、それ以後中世まで国府が置かれた遺跡である。
多賀城の名が文献にはじめて登場するのは続日本記の宝亀十一年(780)の記事であるが天平九年(737)の記事には「多賀城」の名が見える。
また、奈良時代のはじめのころ、「鎮所」「陸奥鎮所」の名がたびたび史料に登場していることなどから、多賀城は奈良時代には国府とともに鎮守府も置かれ、政治的、軍事的中心地になっていたものと思われる。
多賀城は延暦二一年(802)鎮守府が胆沢城(岩手県水沢市)の造営によって移されてから後も陸奥国府として、また十一世紀の前九年、後三年の奥州の乱においては源頼義、義家の治所、文治五年(1189)の源頼朝が奥州藤原氏を討伐した際の滞在所、さらには南北朝の際の義良親王、北畠顕家の治所として、史上にその名をとどめている。
多賀城廃寺跡は、多賀城跡の東南約一キロ大字高崎の低い丘陵上にある。
この寺院については、古代の文献には何ら記録されていないが、大正十一年の史跡指定にあたってこれを多賀城の付属寺院であるとみなし、多賀城跡に附指定されたものである。
発掘調査は昭和三十七、三十八年に実施され、主要が明らかになった。
伽藍は東に塔、西に東向きの金堂があり、両者の前方中央には門があり、中央後方には講堂がある。門(中門)の左右から築地が伸び、塔、金堂を囲んで講堂の左右に取り付いている。 講堂の後方には大房と小子房からなる僧房があり、大房の東西には倉も見つかっている。 また講堂近くの東西には鐘楼、経蔵が推定されている。
さらに西側築地西にも仏堂と思われる建物や築地南西隅の南西方向にも方形の建物が発見されている。講堂や僧坊の調査調査では礎石を持つ建物の下から掘建柱建物が発見され、小子房は創建以来掘建柱の建物であることから、これらは掘建柱建物から礎石を使用する建物に改修されたものと思われる。
この廃寺跡からは多賀城跡と同じ創建瓦や九世紀後半の瓦と同笵(どうはん)のものも出土し、十世紀中頃の土器も見つかっていることから、この寺院は、多賀城とほぼ同時に建立され、多賀城と同じような変遷をたどったものと思われる。
昭和四十一~四十三年に遺構を保護し、また広く一般の人々に、利用してもらうために、総計三千三百万円で環境整備事業を行った。
昭和四十四年三月
文化庁
宮城県
多賀城市


多賀城市の東、塩釜市に入り、正面鳥居から二百二段の階段を登って陸奥国一宮・塩窯神社(写真)に参る。
いにしえより東北鎮護、陸奥国一の宮として、朝野の崇敬を集めてきた古社。
その創建は多賀城と同じ奈良時代と推定され、陸奥国府の精神的支えとして信仰の対象になっていた。
平安時代には後一条天皇が奉幣使をつかわし、江戸時代の桜町天皇は正一位を奉られ、伊達藩主代々の信仰も厚かった。 祭神は左宮に武甕槌神(たけみかづちのかみ)、右宮に経津主神(ふつぬしのかみ)、別宮に塩の製造法を伝えたという塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)の三神をまつり、海上安全、大漁満足、延命長寿、安産守護、家内安全などの神として、いまも庶民の厚い信仰を得ている。(旅行ガイド誌より)

武甕槌神は鹿島神宮(常陸国鹿嶋郡)の、経津主神は香取神宮(下総国香取郡)の祭神でともに天孫降臨に先立ち、葦原中つ国を平定するために高天原から遣わされたという。

松島海岸に出たところで松島湾に突出した双観山に立ち寄り、頂上の展望台から無数の島々を散りばめた松島の全景を楽しんだ後、古刹・瑞巌寺を訪れる。 禅寺らしい落着いた清らかさの中で、寺内の一隅に咲く山百合の新鮮な姿に魅せられた。

瑞巌寺は臨済宗妙心寺派の禅寺で、遠く平安時代の初め天長五年(828)、慈覚大師円仁により開創された古い歴史を有する。
江戸時代の始め、仙台六十二万石の祖となった伊達政宗公が現在の大伽藍を完成させた。(瑞巌寺由緒書より抜粋)