史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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石巻市から万石浦のほとりを南に下って牡鹿半島に入る。山間の道を辿ると右手に石巻湾が開け、道は断崖の上を屈曲しながら続く。やがて月ノ浦バス停が目に止まり、その右手に展望台があった。
ここから、正面に石巻湾を、左右にリアス式と呼ばれる複雑な海岸線を望むことが出来る。バス道を外れ細い急な山道を下りきると、小さな漁師村の隣に月ノ浦の入江があった。

徳川家康はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロの話を聞き、彼をイスパニアに派遣して通商の途を開く決心をし、新たな船の建造を命じた。新造船サン・セバスチャン号はソテロを使節として慶長十七年(1612)九月、浦賀を出航したが、にわかの暴風のため港外で座礁してしまい、家康の雄図は挫折に終わった。

仙台藩六十二万石当主・伊達政宗はこの計画を引き継ぐことを家康に提案し、許可を得た。 キリスト教禁令が全国に発布される直前の慶長十八年、伊達政宗の遣欧使節は風光明媚な牡鹿半島・月ノ浦から、そこで建造された日本船(五百トン)に家臣・支倉六右衛門とソテロを始め商人など百八十人が乗り込み、太平洋を横断してノヴァ・イスパニアのアカプルコに着く。 一行は陸海路の長旅を経てローマ教王に拝謁し政宗の書状を奉呈したが、ノヴァ・イスパニアとの交易には明確な回答が得られなかった。

ローマを訪れたあと一行は行きと同じ道を逆に辿り、セビリャに戻る。その頃には日本でのキリシタン迫害の情報が伝わっており、スペイン人の一行に対する接し方はかなり冷たいものがあった。ソテロは六右衛門の意を受け、なんとか具体的な成果を挙げて日本へ帰ろうと、スペイン国王の返書を貰うことや宣教師の派遣を願い出るが徒労に終わる。

六右衛門は落胆して、マニラ経由元和六年(1620)キリシタン禁令が行き渡った日本に秘密裡に帰国した。政宗も幕府への遠慮から六右衛門を取り立てることも出来ず、その後の彼の消息は不明である。

サン・ファン・バウチスタ号と命名されたこの船は使節が帰還する迄に一度、スペイン国王の使節を乗せて浦賀に帰り着き、再びアカプルコに戻っている。そして、帰国する六右衛門等を乗せてマニラに至り、太平洋二往復を達成したところで、マニラを襲撃しようとしていたオランダ艦隊に備えフイリピン総督に懇請されて廉価で売却された。

平成五年(1993)十月、石巻の北上川の中瀬でサン・フアン・バウチスタ号の復元船が竣工し一時期、石巻新漁港西港に係留された。現在は、宮城県慶長使節船ミュージアム(石巻市渡波字大森)で観覧に供されている。サン・ファン・バウチスタとはキリストに洗礼を施した洗礼者聖ヨハネの意である。

月ノ浦(写真)は、今は平凡に静まり返っており、訪れる人とてない。入江の奥まった崖の上に、東郷平八郎書の石碑・支倉六右衛門常長解纜の地が建ち、裏面はなかば苔に埋もれ字が判読しがたい。

新しい常長立像もある。
また、海岸から少し山の手に入ったところに井戸址があり、次の立札が立っている:
南蛮井戸
この井戸は、南蛮井戸と呼ばれています。
支倉六右衛門常長ら慶長遣欧使節一行は慶長十八年(1613)に、ここ月浦湾を出航しました。 常長の乗った五百トン級のガレオン船「サン・フアン・バウチスタ号」の建造には工匠八百人、鍛冶六百人、雑役三千人があたったといわれ、また百八十余人の乗組員の中にはイスパニア人宣教師ソテロ以下四十人ほどの西洋人が含まれていたといわれています。造船の役人、大工、西洋人たちの飲料水、また「サン・フアン・バウチスタ号」船内の飲料水にはこの井戸水が使用されたと伝えられています。
常長が出帆して三百七十余年後のいまも水は湧き続け涸れることはありません。


建造の経緯を
サン・フアン・バウチスタ:http://www.i-port.ne.jp/nojinkai
は次のように語っている:
伊達政宗はスペイン人ビスカイノと幕府船手奉行の指導、協力を得てサン・ファン・バウティスタを建造しました。
造船に必要な材木は、すべて仙台藩領から切り出し、外板や甲板に使用しました。 杉板は気仙、東山(岩手県東磐井地方)方面から、曲木は片浜通り(気仙沼地方)や磐井・江刺からそれぞれ伐採し、北上川を利用して運ばれたといわれています。
伊達治家記録によれば大工八百人、鍛冶六百人、雑役三千人の人手を使い、約四十五日で建造されたとあります。伊達政宗はスペイン人ビスカイノと幕府船手奉行の指導、協力を得てサン・ファン・バウティスタを建造しました。

こうして旅の目的の一つである月ノ浦訪問を終えて、牡鹿半島先端近くの今夜の宿泊地・鮎川に向う。以前は紀伊半島の太地と並ぶ捕鯨基地だった鮎川はまた、出羽三山・恐山とともに陸奥三大霊場の一つ金華山を結ぶ舟の発着地でもある。

恰幅のよい女将さんが取り仕切る旅館に泊めてもらった夏というのにエアコンがなく、夜がふけるまで外で涼をとるしかなかった。 幸い、港では陸揚げされた長さ二十メートルくらいの鯨を建屋の中に引きずり込み、あかあかと照らし出されたコンクリートの床の上で水をかけながら切り刻んでいく残酷な光景を見学する機会に恵まれた。

鯨の解体は今日で二体目だそうだが、いわゆる調査捕鯨とどんな関係にあるのだろうかという疑問が頭をよぎった。福岡県呼子町のかの有名な朝市で鯨肉を売っているのを見たときも、珍しいと同時に沿岸捕鯨は廃れてしまったのではないという何か安心に似た気がした。

金華山の東方海上は、暖流の黒潮と寒流の親潮が交わるところで魚類が豊富だそうだが、その時は不漁と見え宿で出た魚類はありきたりで鮮度も低く、私の同行者は早速宿のサービスの悪さに不満をもらし始めた。