史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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翌朝、宿の女将さんの前に進み出て、北上川への道筋を尋ねる。お勝手の長火鉢の前に悠然と座った女将は親切に教えてくれた。その姿は煙管(きせる)を咥えていたらなお、お似合いだったろう。その助言に従って昨日来た道を一旦、石巻まで引き返し、旧北上川沿いに北上することにした。現在、北上川の本流は河北町で流路を九十度以上左に曲がり、太平洋に注いでいる。

伊達政宗の時代と明治時代に大規模な治水事業が行われ、仙台平野の西部を幾筋にも分かれ氾濫を繰返してきた川の流れを逐次統合して今のかたちにした。

大河というと東海や関西では通常、川幅の割に水量が少なく、両堤防の間の河床はほとんど石ころばかりという風景が多いが、北上川は夏の渇水期というのに満々と水をたたえている。堤防もコンクリートでなく自然を色濃く残した親しみの湧く川である。

この川の紹介文を以下に掲げる:
北上川ガイド:http://www.michinoku.ne.jp/~kappa/index.html
北上川は岩手県岩手郡御堂にある「弓弭(ゆはず)の泉」を源流として、岩手県を南流して岩手・宮城の県境付近で狭窄部を通過して宮城県の平野部に入る。宮城県津山町でその流れは二つに分流して北上川本流は追波湾へ、旧北上川は石巻湾に注ぐ。その延長は二百五十キロ、流域面積は一万百五十平方キロの東北第一の川である。
やわらかの柳あおめる北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
石川啄木のあまりにも有名な歌であるが、宮沢賢治の作品もこの川をモチーフにした作品が多い。

その左岸を国道342号(一ノ関街道)に乗ってひたすら北上する。北上川がS字型に大きく蛇行するところを越したあたりで、気仙沼に通ずる国道346号線に乗り東北方面に向う。 伊達政宗は岩手県から流れ下る北上川の急流を中田町あたりで今日のように大きく屈曲させ緩やかな流れにして、氾濫を防いだという。

この346号線沿いの宮城県東和町と岩手県藤沢町にそれぞれキリシタン遺跡が散在する。右に掲げた東和町付近の地図は、只野淳著「みちのくきりしたん」から転載させて頂いた。

慶長三年(1598)フランシスコ会のジェロニモ・デ・ジェスースが家康から浦川(浦賀)への貿易船の来航等を条件に一般庶民への布教を許され、翌四年京都のキリシタン八名と江戸へ下り、ロザリオの聖母聖堂を建てて布教を開始した。

同八年ソテロがフイリッピン総督使節として来日し、家康・秀忠に謁見して布教を開始した。同十七年江戸での迫害が始まり、ソテロが浅草に建てた癩施療院のキリシタン二十七名が鳥越で処刑された。ソテロは伊達政宗に救出され、仙台に赴いた。

東北地方で本格的な布教を行ったのは伊達政宗の許可を得たソテロが同十七年、仙台領に遣わした五人の同宿で、彼らは仙台市内をはじめ見分、舞草、仙北、久保田、南部までも足を延ばした。同宿とは宣教師や説教師と生活を共にし、伝道を助ける信者たちのことである。

慶長十七年八月、幕府はキリスト教禁令を発した。これを逃れたキリシタン達は東北地方の金銀山に潜伏するようになる。宣教師達はこうしたキリシタンの巡回をするようになった。フランシスコ会では、ガルベス神父などが仙台、会津、山形、米沢、庄内などを、イエズス会では、アンジェリス神父などが会津、仙台、弘前、久保田(秋田)、南部、米沢、二本松、白川などを巡回した。

アンジェリスは宣教師としては初めて蝦夷に渡り、松前で迫害を逃れてきたキリシタンの告解を聴いた。また、その二年後イエズス会のカルヴァリヨ神父も蝦夷に渡り、松前より内陸に進んで千軒岳の金山に赴きそこで働くキリシタン達を見舞った。しかし、アンジェリスは元和九年(1622)江戸・札の辻で五十人のキリシタンとともに、カルヴァリヨも寛永元年(1624)仙台・広瀬川で殉教した。元和・寛永期(1615~44)のキリシタン弾圧により宣教師は日本から姿を消して行った。

十八世紀に入るとロシアが南下する動きを見せ、ロシア正教会によってアイヌにキリスト教が伝えられることになり、函館に聖ハリストス教会が建立された。のちに同志社を設立した新島襄は幕府の目の届きにくい函館に渡り、この教会で通訳の仕事をしつつ国外脱出の機会を待った。衝動的な行動で脱出に失敗して幕府に捕らえられ、遂に小伝馬町の牢で処刑された吉田松陰とは対照的な思慮深い行動であった。

東和町役場を過ぎ、米川の集落に入ると米川カトリック教会がある。その前で車を停め、教会を訪れると神父さんが丁寧に対応して下さり、この地で発見されたキリシタン遺物を紹介していただいた(写真)。

米川カトリック教会から国道を北にそれて少し行くと、三経塚の説明板が立ち次のように記されている。
三経塚
この塚は享保年間(1716~36)のキリシタン弾圧の時召し捕られ処刑された信者を葬った塚です。その遺体が四十人ずつ経文と共に海無沢、朴の沢、老の沢の三ヶ所に埋められました。この三つの塚が三経塚と呼ばれています。


この説明板に画かれた地図を頼りに更に北に道を辿り、海無沢の三経塚を訪れた。山中に分け入ると松の木の根元に石の十字架が立ち、周囲にいわくありげな石が散在して何かしら言い知れぬ物悲しさが漂っている。もとの道に戻り朴の沢と老の沢の三経塚を探したが、見当たらないので切捨場を訪れる。
切捨場霊場
キリシタンの大量の血潮を吸ったところと伝えられる。桐木場屋敷の人達が代々申し伝えにより密かに供養していたが同家が昭和五十七年に北海道に移住する際、隣家の近親者の初めて明かされ世に知られるようになった。三段の石段を形造る川石の並べ方は往時のままである。十字架・昭和六十年管理者個人で隣人工人に依頼して作成建立。


国道に戻り、大籠方面に向う。

途中左手に後藤寿庵の碑が立っているのが目に止まり立ち寄ってみた(写真)。これは万延元年(1860)に建てられた寿庵の供養碑で近くにある無銘の丸石が墓印だという。寿庵はこの地で捕えられ処刑されたが、墓は建てられないので無銘の丸石を置いた、という口伝が伝わっているという。

後藤寿庵は、政宗の家臣で見分(岩手県水沢市福原)に千二百石を領した。彼は東磐井郡藤沢城の岩淵近江守秀信の子といわれるが定かでない。自分の家臣や領民をキリシタンに帰依させ、居館の傍に天主堂やクルス場(墓地)をおき、この地を聖書の福音にちなんで福原に改めたという。ここに各地から信者が移り住み、福原はキリシタン布教の拠点となった。

また、寿庵は1618年(元和四)胆沢扇状地の高所に肝沢川から揚水し、灌漑水田を切り開くという大事業を行った。これ以前すでに平野の北端部に茂井羅堰が開かれていたが、この寿庵堰の開削は、それまで北上川流域以外は水が得られず開発が遅れていた平野を現在のような穀倉地帯に変えることとなった。

1623年(元和九)幕府のキリシタン弾圧により、寿庵はいずこへともなく去って行ったといわれる。現在はその居館跡に寿庵記念廟堂が建っている。

元和三年(1617)にイエズス会日本管区長コーロスが日本各地のキリシタンから集めた証文の中で、みちのくからの証文の筆頭に署名しているし、また元和七年(1621)にローマ教皇に送った奉答文でも筆頭に署名していることから、寿庵はみちのくキリシタンの中心人物であったと考えられる。

国道を東に辿るとやがて岩手県は藤沢町大籠の村落に入る。右の地図は只野淳著「みちのくきりしたん」から転載した。

山川出版社「岩手県の歴史散歩」は国内各地のうち、岩手県の歴史を丹念に紹介してくれる良心的な著書である。これに従ってこの辺りにいたキリシタン遺跡を紹介しよう。

大籠は1639年(寛永十六)から三か年にわたって、磔、打ち首、鉄砲での狙い撃ちなどで、三百余人が殉教したと伝えられ、その主要な史跡が大籠キリスト教会周辺に散在し、資料館など大籠キリシタン殉教公園がある。

大籠農協バス停のそばに地蔵の辻(一名無情の辻)がある。ここで二百余人が打ち首、磔などにされ、その鮮血は刑場下の二又川を染めたと伝えられる。菩提を弔う首のない地蔵や、供養碑、庚申塚など大小数基の碑が立っている。地蔵の辻から道路をへだてた所に首実験台がある。仙台藩の検視役人がこの石に腰を下ろし、首実検したと伝えられる所である。

教会を巡る歩道沿いに上野刑場跡と元禄の碑がある。1640年(寛永十七)に九十四人が処刑されたと伝えられ、八基の地蔵尊が立っている。当時、遺体の処理が厳禁されていたが1703年(元禄十六)になりようやく供養碑が建てられたという。上野刑場跡から西へ数分の所には、処刑中逃げ出した者を捕え銃殺にしたと伝えられる祭畑刑場跡がある。

バスの高金停留所付近にはトキゾー沢刑場跡がある。トキゾー沢というのは徒刑場沢の訛ったものと伝えられる。供養碑が二基あり、長松以下十二人の名が刻まれている。ここから百メートルほどの所に架場(はしば)首塚もある。架場の名は殉教者の首を架掛(はしがけ)にしてさらしたからといわれている。

こうした刑場の場所はほとんど道沿いにあるが、見せしめのため、わざわざ道路沿いを選んだものであろう。

地蔵の辻から分かれる道を北東に行くと、「上袖の首塚」が道路わきにある。地蔵の辻で殉教した者の遺族が、深夜首を袖に包んで盗み出し、ここに埋めたものといわれる。

また千松沢最北の地には大善神がある。通称流神(はやりがみ)と称し、大善神(キリスト)を祀ったものと伝えられる。

道路脇の大きな説明板に次のように記されている:
大籠キリシタン史の概要
天文年間(四百三十余年前)まで大籠等において製鉄が営まれていたが、永禄元年(四百二十余年前)千葉土佐が備中国中山の有木ノ別所に赴いて新しい製鉄技術を学び帰国後製作したが、容易でなかったので、技術者として布留大八郎、小八郎兄弟(のち千松に住し千松を名のる)を招き、家屋敷に居住させて南蛮流という製鉄法を学びやがて鉱山を開発し千葉土佐以下七人が中心になって製鉄を行なった(銅屋八人衆という)。その結果大籠は仙台領きっての製鉄産地になり多いときは日産一千貫もの鉄がつくり出された。この鉄は天正年間においては太閤秀吉、慶長年間には伊達政宗等に御用鉄として差し出された。その他鉄砲や鍬なども生産された。千松兄弟の素性についてはいろいろの説があるが、彼等はキリシタン大名として名高い宇喜多秀家の領地国備中出身で、熱心なキリシタン信者であったことはいうまでもない。
兄弟は銅屋工として生産を興隆し、一方においてはデウス仏を安置すると共に?工に対しキリストの教えを説いた。又慶長末期より元和にかけ(約三七四~三六九年前)藤沢城主岩渕近江守の次男後藤寿庵やフランシスコバラヤス(日本名孫右衛門)等の布教が忽ちのうちに大籠を中心とした近郷に波及し、信者は約三万人に及んだのである。
このようにキリシタンが全盛を極めるに至った理由は、一方においては伊達藩の保護によるものといわれるが、やがて徳川幕府より異端視されるところとなり、伊達政宗の没後は公然と迫害の手が延べられ、伊達家はもちろん大籠において、信者に厳重な宗門改めが行なわれ、転宗に応じなかった者に対しては所成敗と称し、打首、架掛、鉄殺等の大量惨殺を行い三百余人の殉教者を出した。
キリシタンの隆盛が製鉄と相まって大籠の産業文化の発展に一大功績をのこしたがやがて歴史の襞に埋没されていった。


著者注:銅屋工の銅は、あて字です。原文は火偏に同の字が使われており、漢和辞典によれば、読みは「トウ」で熱いさまを意味します。

キリシタン遺跡の真中に建てられたのが大籠キリスト教会である:
大籠(カトリック)キリスト教会
この教会は寛永十六、七年の弾圧により殉教した三百有余名の霊を弔うため、昭和二十七年十二月(1952)建立されたものであり、鐘はスイスから贈られたものである。

以下に私が訪れた遺跡の幾つかを挙げておく:
地蔵の辻
一名無情の辻とも言い、寛永十六年(1639)同十七年(1640)百七十八名、その後の処刑を含め二百余名が打首、十字架ハリツケ等により集団大処刑が行なわれた所である。

トキゾー沢刑場
この刑場は、トは徒、キは刑、ゾーは場の意で、供養碑に寛政庚戌と彫られ、十三名の処刑者の名が連ねてある。

ハシ場(架場)首塚
ここはトキゾー沢刑場で処刑された者の首を架掛け晒首とした後、その傍に穴を掘り斬罪の理由書と共に埋めた所である。