史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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大籠のキリシタン遺跡訪問を終り、そのまま北方の藤沢から千厩(せんまや)町に抜け、248号線(気仙沼街道)を西に辿ると途中で再び北上川を渡る。一関市で4号線に乗り 、更に川上に向うと毛越寺と中尊寺がある。

■毛越寺(もうつうじ)
中心となる円隆寺や嘉祥寺を含む一山の総称。藤原二代基衡が鳥羽天皇の勅願で、1105年(長冶二)伽藍を建立、その後三代秀衡が継承し、嘉祥寺などの堂坊舎を造営した。

毛越寺は吾妻鏡(あずまかがみ)に次のように賞賛されている:
堂塔四十余宇、僧坊五百余宇
吾朝無双の精舎


■中尊寺(写真)
天台宗・東北大本山。山号を関山といい 、慈覚大師を開山とします。十二世紀のはじめ、奥州藤原氏の初代清衡公が多宝塔や二階大堂など多くの堂塔を造営しました。その趣旨は前九年・後三年という長い戦乱で亡くなったひとの霊をなぐさめ 、仏国土を建設するものでした。十四世紀に惜しくも堂塔は焼失しましたが、なお金色堂はじめ三千余点の国宝や重要文化財を伝える平安美術の宝庫です。

■みちのくの浄土・金色堂(国宝) 天治元年(1124)の造立で、中尊寺創建当初の唯一の遺構です。皆金色の阿弥陀堂で、まず、内部の装飾に目をうばわれます。
四本の巻柱や仏壇(須弥壇)、長押まで 白く光る夜光貝のくらでん細工・透し彫りの金具・漆の蒔絵と、お堂全体があたかも一つの工芸品の感がします。
仏像は、本尊阿弥陀如来、その前に蓮を持っているのが観音・勢至菩薩。左右に三体ずつ列立する六地蔵、みな円満な相好です。最前列が持国天と増長天です。 そして中央の須弥壇のなかに清衡公、向かって左の壇に二代基衡公、右に三代秀衡公の御遺体と泰衡公の首級が納められているのです。

俳人・芭蕉が、元禄二年(1689)6月に平泉を訪ね、次の句を残している:
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
五月雨(さみだれ)の降りのこしてや光堂


中尊寺内の参道の一隅から北方を眺めると、眼前を西から東に衣川が流れ北上川に合流している。この辺りが庚平五年(1062)九月六日「衣川の柵の戦い 」が行われた古戦場である。
多賀城を本拠にして北上川沿いに安部貞任を追って北上してきた源頼義率いる追討軍は、衣川の柵に拠った安部の軍勢を僅か一日で破った。
敗れて北へ落ち行く貞任と追撃する源義家が
年を経し糸の乱れのくるしさに、衣の館はほころびにけり
と詠み合ったのはこの時のこと。こうして十一年間続いた前九年の役は幕を閉じる。

同夜は静かな花巻温泉郷の内湯のある和風旅館に一泊した。翌日は仙台に帰る途中、高村記念館に立ち寄った。

■高村記念館
1945年(昭和二十)4月、太平洋戦争激化により花巻で疎開生活を始めた高村光太郎は 、戦災にあった宮沢賢治旧宅からここに移り、七年間の独居生活を送っている。 山荘は套屋(おおいや)を二重に建てて保守され、詩人草野心平が無徳殿と命名した。土壁の質素なたたずまいの中に光太郎の旺盛な創作活動を髣髴とさせる。

山荘を出ると、雑木林の中に「雪白く積めり」の詩碑があり、その前で毎年五月十五日に高村祭が盛大に催される。さらに百メートル奥に高村記念館があり 、光太郎・千恵子夫妻の遺品を展示している。中央の大地麗(だいちうるわし)の揮毫や書画、千恵子の切り抜き絵が並ぶ。

記念館の後ろには千恵子抄泉と命名した湧水があり、献茶に供されている。さらに散策コースの山頂には千恵子展望台があり、千恵子をしのんだ所という。

光太郎の父・高村光雲(1852~1934)は江戸っ子で、佛師として修行を積んだが明治初期、神仏分離令により廃仏棄釈の嵐が全国に吹き荒れるとその職を失い、木彫家に転進した。宮城前の馬場先門にある楠公(なんこう)銅像の木彫原型は光雲がすべて檜材を用いて仕上げ、明治天皇の天覧に浴する光栄を得た。この話は 、高村光雲「幕末維新回顧談」(岩波文庫)に載っている。