史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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東北自動車道を一路南下し仙台宮城インターチェンジから仙台市に入る。ここで支倉六右衛門の墓があるという臨済宗光明寺を探したが見当たらず、あきらめて青葉城址に向う。

迷いに迷って広瀬通から広瀬川を大橋で渡り、丘の上の城址から仙台市を一望する。

エアーニッポン機内誌2001年7月号に次のように記されている:
四百年目の仙台、過去未来旅行
慶長十六年(1611)に仙台を訪れたイスパニア特派大使セバスチャン・ビスカイノは驚嘆をこめて記している:
城は彼の国の最も優れ、また最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ、断崖百身長を超えたる厳山に築かれ、入り口は唯一にして、大きさは江戸と同じうして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下ろし、また二レグア(一レグアは三・九四二キロ)を距てて、数レグアの海岸を望むべし。
この城こそ、慶長五年(1600)に伊達政宗が徳川家康から築城の許可を得た仙台城である。政宗は、関ヶ原の戦い、大阪の陣と家康について功をたて、仙台六十五万石の基礎を築いた。 仙台は広瀬川、名取川、七北田川の河岸台地と段丘に広がり、奥州街道が通る交通の要所。とはいえ、開府以前は宮城・名取両郡の境に当たるところで、湿地や荒れ地が多く、人家もまばらだったという。
仙台城の着工は慶長六年(1601)。本丸の規模は東西二六七メートル、南北二八〇メートルと諸大名の城郭の中で最大級である。築城と共に城下町づくりが始まった。

距離の単位・レグワについては以前「河内のキリシタン」で触れたことがありそのときは、ラテイス編「単位の辞典」(昭和四十九年新編)によると、「レグワ(legua)はスペインが起源で、同国では一レグワは三・四六マイル、または五・五七キロ」としている、と書いた。 上述の文中でいう、一レグワは三・九四二キロの根拠を知りたいものである。今日の一里は三・九二七キロであるから、上述の一レグワは偶然にも一里と殆ど同等ということになる。

やっと念願の仙台市博物館に入館できた。この博物館は昭和二十六年に仙台伊達家から寄贈された資料群(伊達家寄贈文化財)の保管・展示・研究のために、仙台城三の丸跡に昭和三十六年に開館された。

日本人の着物姿の武士が描かれた縦約二メートルもの肖像画がローマのボルゲーゼ家に伝えられており、六右衛門と推定されている。
仙台市博物館にその模写があった。館内の特別展示室に納められたその肖像画は、多少繊細に見える武士の細部を写し出していた。

博物館の庭に下りると支倉常長の碑が建っていた(写真)。大石にはめ込まれたレリーフに、次の文字が浮き出ている:
1615年9月12日サン・ピエトロ宮ニ於イテローマ法王パオロ五世ニ伊達政宗卿書状ヲ奉呈スル支倉常長

先にイエズス会のヴァリニヤーノ師の計らいでローマを訪れた少年遣欧使節団が、秀吉のキリスト教禁止令のために三年間も海外で足止めを食ったうえ、せっかく持ち帰った印刷機などの西欧文明の花を咲かせることが出来なかった。

これと同様に、六右衛門も家康のキリスト教禁止令に遭い、帰国した後の消息すら不明で、歴史の裏に埋もれてしまうのである。

六右衛門のほか、サン・フアン・バウチスタ号に乗ってヨーロッパに船出した百八十人もの日本人のその後はどうであったか。

1990年7月9日・10日付朝日新聞夕刊に「グアダルキビルの白日夢」と題した二回続きの「ハポンさん訪問記」が掲載されている。その内容は
コリア・デル・リオの町に、ハポン(スペイン語で日本)姓を名乗る人たちが千七百人も住んでおり、支倉使節団の末裔ではないかと考えられる
ということである。

コリア・デル・リオはグアダルキビル川を遡り、セビリャ市のすぐ手前にあり、日本人ニ十人を含む使節団はここでセビリャ市に入る準備をした。
使節はこのあとスペイン国王、ローマ法王に謁見して帰りに再びスペインに寄り、セビリャ郊外の僧院などに一年以上も滞在する。

だが、コリアとどのような関係にあったかは明らかでない。
ハポンさん達は口々に自分達は日本人の子孫であるとの言い伝えがあると主張するが客観的な裏付けはなく、末裔探索は未だ五里霧中といったところである。

博物館を出てもと来た道を仙台駅の方に向う。大橋を渡った左手の河原に降りかけた辺りに「仙台キリシタン殉教碑」が建っている。
元和十年(1624)2月の厳寒の中、ここでイエズス会のカルヴァリヨ神父ら九名が殉教した。刻まれた碑文は次の如くである:
ここは元和十年(1624年)2月18日と2月22日(太陽暦)ポルトガル人宣教師カルバリオ神父日本名長崎五郎右衛門外八名のキリシタン教徒が、大橋の下の水牢で厳寒のさなかに水責めにあって殉教した遺跡である。
この記念像は深沢守三神父作三体の記念像のうちの中央はカルヴァリヨ神父、その左右はここでの殉教者たちの象徴としての武士と農民像である。
1971年9月12日


ポルトガル出身のデイオゴ・カルヴァリヨは1600年、インドに向けて出発しマカオの神学校で学び、司祭に叙された。
1609年(慶長十四)日本に渡り、天草志岐や京都で布教に従事していたが1614年(慶長十九)、全国的なキリシタン禁令が出たため、カルヴァリヨも他の宣教師達と共にマカオに去った。

1616年(元和ニ)彼は日本に密入国し、アンジェリスの許でみちのく地方の布教に携わることとなった。
1620年(元和六)支倉六右衛門が日本に帰ってきた時、政宗は一時的に領内にキリシタン禁令を出した。しかし、1623年(元和九年)家光がキリシタン五十一名を江戸札の辻で火刑に処してから、仙台付近も様相が一変した。カルヴァリヨは他のキリシタンと共に出羽に向け逃れる途中、役人に捕えられた。

河原に立つと広瀬川が右から左に流れ、せせらぎの音がする。見上げると大橋を支えるアーチが空間をよぎっている。神父らはこのあたりで深さ四十センチ、大きさ一メートル四方くらいの穴の中に柱を立てて水を入れ、水中に座らねばならないようにして柱に縛り付けられた。翌日も同様の拷問を受けた末、息を引きとった。

私達は仙台から国道4号線を下ってその日の午後、無事仙台空港に到着し、二泊三日のみちのくキリシタン探訪の旅を終えた。