史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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JR長崎本線の終着駅・長崎駅は駅前に広がる二階広場の後方で、つつましやかに控えている。福岡県鳥栖(とす)で鹿児島本線につながるJR長崎本線は途中、有明海西岸の屈曲した海岸線を通過するとき、幹線としてはいまどき珍しい単線となる。

長崎市への交通路はこの鉄道と、山間を走る長崎自動車道の二系統のみで、大きな風水害に見舞われ山崩れが起るとたちまち寸断され、長崎の町は文字通り「陸の孤島」と化してしまうことが過去に何回もあった。公的助成をあてにした長崎新幹線(スーパー特急方式、建設費:約四千百億円)の名で武雄温泉 ・長崎間の新線建設運動が続けられて来たのも、本音をいえばどんな風水害に遭っても途絶しない交通路を確保したいからであろう。四十数万人を袋小路に閉じ込めない施策が大切である。

長崎行きの航空機は福岡市上空で南南西に機首を向け、新設の佐賀空港西方から有明海西岸沿いに南下し、左手に溶岩ドームが盛り上った普賢岳を見つつ島原半島の付け根からいったん橘湾にでる。ここで大きく右旋回し、高度を下げつつ諫早市上空から大村湾に入り、海上の長崎空港に着陸する。

平成二年(1990)十一月十七日普賢岳が噴火し、火砕流が幾度となく島原方面に流れ下り大災害をもたらした。普賢岳はその百九十八年前にも噴火している。その時は火山性地震により東側の眉山(当時:前山)が裂け、土石流が島原の町を抜けて島原湾に流出し、誘起された津波が対岸の肥後国を襲い、両国で多数の人命が失われた。

十年前の噴火では、雲仙ゴルフ場への降灰はほとんどなく、間じかに普賢岳を眺めながらプレイできた。長崎県営のこのゴルフ場は、六甲に次いで我が国二番目に造られたハーフコースである。

山頂から吹き上げられた噴煙は北方に流れ、長崎行きの航空機はこれを避けて、福岡から更に西に進み伊万里あたりで南下する経路をとった。そして、大村湾からいったん五島灘にでて旋回して東に引き返し長崎半島を横切って橘湾に入り、更に左に旋回して大村湾に入るという臨時の回りくどい航路がとられた。この場合は飛行時間が十五分ばかり余分にかかる。以上はいずれも空港に北風が吹いている場合だが、南風に変わると伊万里辺りから高度を下げながら南下し、大村湾に入ってそのまま着陸する。

この空港は、我が国最初の海上空港とされているが、海上を埋め立てて作った飛行場は昭和十八年四月に運用を始めた豊橋海軍航空基地が最初である。
豊橋の飛行場は、第四集「熱田・豊川空襲」5.愛知の飛行場参照

西坂の丘とは、この長崎駅を背にして駅前通を左前方に横切った所にあるNHK長崎放送局の背後の小高い丘をいう。以前にも紹介したように、この丘は慶長元年(1596)に起こったキリシタン迫害の二十六聖人殉教地として、つとに有名である。しかし、その後長い間忘れ去られ、文久三年(1863)長崎にパリ外国宣教会から派遣されてきたプチジャン神父が、殉教の地は西坂より上手の見晴らしの良い女風頭(めざがしら)とし、南山手の日本二十六聖殉教者大浦天主堂(国宝)をその方向に向けて建てたといわれる。

昭和四年、浦川和三郎氏が殉教の地は女風頭ではなく、西坂の丘であることを立証された。昭和三十七年二月、この地に二十六聖人記念館・記念碑及び記念礼拝堂が建立され、二十六聖人列聖百年祭が催されるに至る。
殉教の地が確定する過程は、第三集「尾張のキリシタン」4.二十六聖人参照

西坂の丘(写真)入口の立札に次の説明がある:
県指定史跡「日本二十六聖人殉教地」
指定年月日:昭和三十一年四月六日
所在地:長崎市西坂町
所有地:長崎市
慶長元年十二月十九日(1597年2月5日)六名の外国人と二十人の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁令のため、大阪・京都で捕らえられ、長崎に護送され、長崎の町に面したこの地で処刑されたのである。
この二十六名の殉教のできごとは、ヨーロッパその他に広く伝わり、文久二年(1862)ローマ教皇は、盛大な祭典をローマで行い、二十六名の殉教者を聖人に列し、日本二十六聖人と称せられたのである。
長崎市教育委員会


この丘から双眼鏡で、南のかた大浦天主堂を眺めようとしたが、近くのマンション風の高層建築に遮られて見通せなかった。女風頭からは見えそうだが、そこまで登るのがたいへんだし、先を急ぐ私にそこまで行く時間の余裕はない。

2003年2月、ランタン・フエステイバルで賑わう長崎を二年半ぶりで訪れた。翌朝、大浦天主堂を訪れ、堂内から籐木の寄木造りで簡素なゴシック風の天井を見上げた。この三廊式建築様式は平戸の聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂等に共通して見られる。また、祭壇の右側廊にある聖母像を拝礼した。1865年3月7日、浦上の隠れキリシタン達が落成間もない天主堂を密かに訪れ、プチジャン神父の案内でこの像を見て感激に浸った。
次に、入口にある純白のマリア像の後方からまっすぐ長崎市内を遠望した。そして、天主堂の方向が金毘羅山の山すそが市街に流れ下った辺りを指しており、これと地図と対照してこの天主堂が略真北に向け建てられたと推定した。その方角はプチジャン神父が二十六聖人殉教の地と考えた女風頭より、西坂の丘より更に左に振っている。

西坂の丘を駅前通とは反対側に下ると、左手に日蓮宗・本蓮寺がある。その門前に次の案内板が立っている:

サン・ラザロ病院・サン・ジョアン教会跡
天正十九年(1591)に渡来したローケ・デ・メロベレイラはこの地(のちに本蓮寺)に住民の医療のための病院を開いた。かたわらにフランシスコ会司祭のバウチスタが壮大なサン・ジョアン・バウチスタ教会(司祭は日本人、1614破却)を建てた。岬の被昇天のマリア教会、トードス・オス・サントス教会と共に長崎の三大教会といわれた。


幅広い石組みの階段をあがると、広壮な本堂があり眼下に市街や港を一望に眺められる。サン・ラザロ病院と、のちのサン・ジョアン・バウチスタ教会はおそらくここに建っていたものと思われる。
ここから西坂の丘はほど近く、同じ目線上に双塔の記念礼拝堂、そのすぐ左手に殉教の地が手にとるように見える(写真:背後の稲佐山の麓まで雲に覆われている)。
本蓮寺の並びには今は多くの寺社が建ち並んでいるが、その昔はキリシタンの街があったという。

長崎には十三の教会があった。そのうちの三大教会を挙げる:
トードス・オス・サントス(諸聖人)教会
1569年ヴイレラ神父が設立した長崎最初の教会。いまの春徳寺のところにあった。1573年深堀純賢の長崎襲撃の時焼失したが再建され、後にはコレジオと印刷所、セミナリヨもしばらくここにあった。

岬の教会
1571年、長崎開港に備えて六町が新しくできた時、岬の突端は教会の敷地にとっておかれた。サン・パウロ教会がここにあり、1601年には準司教座教会として被昇天のサンタ・マリア協会ができた。後にここは長崎奉行所西役所になり、いま県庁がある。

サン・ジョアン・バウチスタ教会
1591年、入港したポルトガル船の司令官ロケ・デ・メロが寄付した金で、いまの西上町にサン・ラザロのライ病院ができて、ミゼリコルジアの組が経営した。聖ペドロ・バウチスタが一時滞在したのはここである。後にサン・ジョアン・バウチスタ教会が建てられた。教会の前にはひと並びの町があって、サン・ジョアンの町と呼ばれた。町のうしろは海で船着き場があった。トードス・オス・サントスと山のサンタ・マリアとともに、この教会は長崎の三大教会と言われていたという。家康の禁教令によってこの教会が破壊されてから、本蓮寺が建てられた。

十六世紀後半、今日「城の古祉(こし)」と呼ばれる所に城を構えていた長崎の住人・長崎純景は、海岸に沿い新しい町を作り始めた町民たちと対立して敗れ、歴史上から姿を消して行く。

トードス・オス・サントス教会は城の古祉の南側にあった純景の屋敷跡に建てられた。現在、そこには春徳寺(長崎市夫婦川町)が建っておりその門前に、ルイス・デ・アルメイダ渡来記念碑とそこにあった教会の説明がある:
永禄十年(1567)頃、長崎地方で最初にキリスト教を布教したアルメイダ(1525~83)はポルトガルの貿易商人であった。信仰に厚くのちイエズス会員となり、私財の全部を日本布教にささげた。キリスト教の伝道と共に深い西洋医学の知識を医療活動にささげ西日本各地を巡回した。西洋医学を最初に日本に伝えたことでも有名である。長崎ではここに最初の布教所を設けたといわれる。

トードス・オス・サントス教会
1569年にヴイレラによって創建されたこの教会は長崎最初の教会で、長崎の旧記類には「トウドのサンタ」、「東土参台」などと書き残されている。城の古址が唐渡山と呼ばれたのも、この教会がその麓にあったゆえの訛りであろうといわれている。 1597年コレジヨが、翌年はセミナリヨがここに移り、活版印刷所もあって、教育と出版に重要な役割を演じた。 1614年(慶長十九)家康の禁教令によって破壊され、1640年(寛永十七)その跡に春徳寺が建てられて現在に至っている。当時を偲ぶ井戸が残っており、また当時使用したものと思われる大理石の板石が先年春徳寺本堂の床下から発掘され裏庭に保存してある。


西坂の丘東側に沿う道を浦上に向け北上する。その昔の名は時津(とぎつ)街道、学童通学の終る午前九時ごろまでは車輌通行禁止になる。
歩き始めてすぐ左側に建ち並ぶ住宅の間から、眼下に駅前通に面する白いコンクリート造りの天理教会が目に入る。この辺りに千人塚があり、島原・天草の乱の首魁・天草四郎等の首が埋められたと伝えられるが、今はもう何もない。
また、その南側一帯が刑場であったとされ、今は整地された空間が広がっているのみである。ここで二十六聖人の処刑を行うべく準備を進めていたがポルトガル人が一般の罪人と同じに扱うべきではないと訴えたので急きょ、目と鼻の先の西坂の丘に変更した。

では、その二十五年後に起きた長崎「元和の大殉教」の地はどこであろうか?
第一集「淀川の水」には次のように記した:
元和八年(1622)九月、長崎の西坂で宣教師ら二十三人が火あぶりの刑にあい、女子供を含むキリシタン二十二人が首をはねられた。西坂は慶長元年(1597)、秀吉の命により二十六人が十字架にかけられて殉教した聖地である。JR長崎駅前からみると、道路をはさんだすぐ左手の高台にある。

史書はこの文のとおり、元和の大殉教の場所を西坂の丘としているが、疑問がある。この大量処刑現場の全容を、居合わせた修道士か日本人信徒が詳細に描いた絵が今に伝わっている。雑誌「芸術新潮」(2000年10月号)に載せられた長崎大殉教図(A3版:写真)がそれで、これから刑場付近の地形が推定できる。

全体として褐色がかった重苦しい画面中央の竹矢来に囲まれた刑場内では凄惨な処刑場面が展開しており、すぐ左手前の海岸端に浮ぶ舟上から、手前から、そして右手の丘の中腹から数百人の男女がそれを見守っている。なかに数人の外国人宣教師の姿もある。 海岸に程近く、右手が丘に続く地形は今日刑場跡とされている場所周辺(注参照)と酷似しており、元和の大殉教の場所はここであったと考えて差支えないと思われる。当時はキリシタン禁制の時代であるから、キリシタンを一般刑場で処刑するのは当然であった。

図中に、殉教を見守る女性信徒達の着衣の模様は辻ヶ花であると解説されている。それは菊、椿、藤の花など円形のものから葉、藤のつる枝など不整形のものなどを中心部にまとめて絞り上げた絞り染めのことらしく、室町初期の北山文化の中で生まれ、安土桃山時代からこの時期に流行の最盛期を迎えたといわれる。

(注)明治以後、海がここから西に幅四百メートルほど埋め立てられ、鉄道が敷設され道路が出来た。ために、海岸は大きく後退して浦上川河口の左岸となり、当時の景観は見る影もなくなってしまった。

街道を更に進むと、左側の小さな丘の上に天王山法輪院・聖徳寺が見えてくる。昔の長崎名勝図絵には、正面階段から左側は海で、田んぼの中のあぜ道を辿って右側から階段をあがって参詣するよう描かれている。今は海が遠のいて駅前通りができ、左側からも狭く急な階段を上がれるようになった。
この寺は江戸時代、浦上の村人の檀那寺で、死者はこの寺で埋葬するきまりになっていた。江戸時代末期に二百三十年ぶりに長崎に神父がやって来て教会が建つようになると、密かに信仰の灯火を守りつづけてきた村人達はこれに力を得て、寺側に今後葬式は聖徳寺で行いませんと宣言した。これがきっかけになって浦上四番崩れに発展し、明治新政府は全村人を西日本の二十大名に預け、キリスト教を棄教させようとする厳しい処断に出た。この時代の転換期に立って、聖徳寺側はただ周章狼狽するのみであった。
第三集「尾張のキリシタン」5.禁教参照

聖徳寺前から町中を山沿いに北上し坂本町に入ると、右手の長い階段の上に緑に囲まれた山王神社が鎮座している。
社前の道を浦上街道といい、起伏した道を北上すると浦上天主堂に行き着く。
浦上街道
この街道は日見街道が開発される前は長崎への本道であった。二十六聖人もこの道を通りこの付近にあった病院で休憩をとった。


山王神社御案内
当神社は、島原の乱後、時の徳川幕府老中松平伊豆守信国がこの地を通過せし際、近江の国琵琶湖畔の坂本に風景・地名共に酷似しているとして、かの地の山王日枝の山王権現を招祭してはとの進言により、長崎奉行・代官は寺町の真言宗延命寺の龍宣法印師に依頼し神社設立に着手した。当時は、神仏混合の習慣により延命寺の末寺として「白厳山観音院円福寺」と称して運営された。
以後幾度かの盛衰がありたるも地域の氏子に守られて明治維新を迎え神仏分離令により、元来の神社に戻り「山王日吉神社」と改称し浦上地方の郷社となる。
又明治元年、山里地方に皇太神社が祭られたるも台風等の被害にて損壊し、再建や以後の運営も困難となり廃社を検討されるを知り氏子は山王社との合祭を願出て許可となり、明治十七年一月遷宮し以後「県社浦上皇太神宮」と称したるも地域では「山王さん」として親しまれ、又「浦上くんち」として大いに賑わってきた。
不幸にも、昭和二十年の原爆の惨禍に直面し壊滅状態となりたるも数年を得ずして苦境の中から復興の声が上がり、昭和二十四年より祭典を復活し、以後社殿境内等も次第に復活された。昭和六十三年(1988)神社創建より、三百五十年の記念すべき年に弊殿も再建して、ほぼ旧来の姿に近く再建し得た。原爆時の遺物としては、現在は世界的にも有名となった、参道の「石製片足鳥居」と境内入口にそびえる「楠の巨木」等が残り原爆の悲惨さと平和の有り難さを無言の内に語り掛けてくれる。また楠木は戦後の数年で発芽、次第に繁茂し現在の雄姿となり地域の人々に戦後の復興の意欲と活力を与えてくれた。
浦上皇太神宮
山王日吉神社


被爆した鳥居
この鳥居は1924年(大正13年)10月に山王神社の二の鳥居として建てられたが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾の炸裂により、一方の柱をもぎ取られてしまった。ここは爆心地から南東へ約800mの距離にあったが、強烈な輻射熱源によって鳥居の上部が黒く焼かれ、また爆風によって一方の柱と上部の石材が破壊され、上部に残された笠木は風圧で反対方向にずれている。 ただ一個の原子爆弾によって、当地区もまた、ことごとく灰燼と帰したが、この鳥居は強烈な爆風に耐え、あの日の惨劇を語りつぐかのように、いまなお一方の柱で立ち続けている。しかし、その後長い年月を経たため、安全性を考慮して柱の基礎部分や接合部分の補強工事を行った。
長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨劇が繰り返されないことを祈って、この銘板を設置する。
2001年(平成13年)3月
長崎市(原爆資料館)


山王神社の大クス
山王神社は周囲を様々な樹木で囲まれており、その中で、この二本の大クスは神社の境内入口にどっしりと根をおろしている。また、四方に伸びた2本の木の枝葉は、上部にいくに従って複雑に絡み合いながら一つの深い緑陰を作っている。 1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾の炸裂による強烈な熱線のすさまじい爆風のため、爆心地から南東約800mのこの神社の社殿は倒壊、隣接する社務所は全焼、そして、二の鳥居は片方の柱を失ってしまった。社殿を囲っていた樹木は折損し、この二本の大クスも爆風により幹には大きなき裂を生じ、枝葉が吹き飛ばされて丸裸となった。また、熱線により木肌を焼かれ、一時は枯死寸前を思わせたが、その後樹勢を盛りかえし、現在は長崎市の天然記念物に指定されている。
長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨劇が繰り返されないことを祈って、この銘板を設置する。
平成7年8月
長崎市(国際文化会館)


2002年3月、長崎を訪れた元B-29飛行士・ハップはこの神社の境内に繁茂する大クスを見て、自らの戦争体験と照し合わせ"ネバー・ギブアップ"精神を再認識した、と言う。
被爆当時は境内から約1km北の浦上天主堂の廃墟を素通しで望見できた。今は写真のように、再建された社務所が視界を遮り、その向うに長崎大付属病院の建物が林立して半世紀以上の年月の移ろいを実感させられる。
第八集「テニアン島周遊」8.サイパン周遊・N.ハップの日本旅行参照