史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
  • ホーム
  • 紀行文
  • キリシタン史跡
  • 太平洋戦争
  • 核物理
  • お問合せ
  • リンク

歌謡曲「長崎の夜はむらさき」に次の一節がある:
雨にしめった 賛美歌の
うたが流れる 浦上川よ
忘れたいのに 忘れたいのに
おもいださせる ひとばかり
あゝ 長崎 長崎の夜は紫

ここに出てくる浦上川(流路延長十三・三キロ)は長崎北東部の前岳を源とし、東の金毘羅山(海抜三百六十六・三メートル)と西の稲佐山(同三百三十三メートル)の間を流れ下って長崎湾に注ぐ。

その流域の浦上一帯は、自然災害ではなく人為的災害ともいえるキリシタン迫害と原爆投下という二つの残虐凄惨な過去を背負っている。 長い迫害の時代を生き抜き、ついに信教の自由を獲得した浦上キリシタンたちの頭上に、はからずも同じ神を信ずる米国が原爆を投下するとは、 天に在(ま)します我らの父
の存在が疑われる象徴的な出来事であった。
以下、それぞれを代表する史跡である浦上天主堂と平和祈念像を巡礼することとする。

聖徳寺を過ぎてなお時津街道を北上すると、西に向け傾斜する丘陵地帯のほぼ中央の高谷の丘に行き着く。この丘の上に浦上天主堂が建っている。
写真:裏山は本尾山、その背後が金毘羅山。左端の瀟洒な洋館が大司教館。

その前庭に立つ幾つかの碑の中から、二つの碑文を掲げる。

下記の碑文は、浦上が日本キリスト教史上特筆されるべき地であることを難解な文語体で雄弁に物語っている:
信仰の礎・碑文
浦上は素と眇たる一寒村に過ぎず而も長崎及び浦上の谷は我国に於ける聖教の發祥地として恰もユダの地に於けるイエルサレム及びベトレヘルムの其れの如く聖 會史上に特筆大書せらる蓋し聖教の一度長崎に伝えらるゝや浦上は之に隣接するの故を以て最も聖化に浴するに到りしなり當時その教勢の果して如何なりしか吾人はいまだ之をを詳にする能はずと雖も既に聖ラザル癩病院の如きが設けられありし事実に鑑み禁教後二百五十年の久しきに亘り有らゆる窘逐の 襛にありて不屈不撓能くその信念を守持して失はざりし天下靚覩の異例に顧み其の由来する所の極めて深かりしは因より疑を容るべくもあらず思ふに後の二十六聖者等が殉教の途次其 の死別を浦上に告げられたる豈偶然ならんや実に聖教の種は茲に秘められ永久にそが不朽の生命を傅ふべく厳冬烈霜の下方に萌芽の期を俟ちつつありしなり果然慶応明治の交に迨び真理の光明は鎖国禁教の幕を破りて吾が浦上の一角よりその新なる輝きを 發し地下に埋りたる聖教の種子は乍ち勃如として芳芽生々の観を呈するに至れり吾人は今父祖の功績を永く傅へて子孫の蔵となすべく聊か之れを碑に刻みて後世に遺さんとす若し夫れ巨細の事績を詳にすることは碑面の容す限りにあらず僅かに之が概要を録して 以て後人の記憶に便にすと云爾 大正九年十一月 浦上天主公教信徒誌す

 カトリック浦上教会編「旅の話-浦上四番崩れ-」(2005年3月17日発行)参照

浦上四番崩れの分謫記念碑には次のように記されている:
明治元年より明治六年まで宗教の為に諸国にあずけられたる浦上公教信者の数と其国別とを記念として茲に記す
降生後1925年
大正十四年六月
浦上公教信者

 伊賀國  上野  58名  11名死亡
 大和國  郡山  26名  9名死亡
 伊勢國  二本木  75名  6名死亡
 薩摩國  鹿児島  375名  58名死亡
 薩摩國  鹿児島  375名  58名死亡
 阿波國  徳島  116名  16名死亡
       以上右側
 伊予國  松山  87名  8名死亡
 尾張國  名古屋  375名  82名死亡
 加賀國  金澤  566名  109名死亡
 越前國  富山  42名  5名死亡
 備前國  岡山  117名  18名死亡
 備後國  福山  76名  7名死亡
 肥前國  大村  127名  
       以上裏面
 石見國  津和野  178名  41名死亡
 長門國  萩  300名  43名死亡
 因幡國  鳥取  163名  45名死亡
 安藝國  廣島  177名  40名死亡
 出雲國  松江  87名  
 播磨國  姫路  41名  
 紀伊國  和歌山  282名  96名死亡
以上左側

配流者数と死亡者の総数は、それぞれ3,447名と599名である。
一方、片岡弥吉「浦上四番崩れ」(ちくま文庫)によれば配流者3,380名、死者562名とあり、若干の相違がある。なお同書に、先ず1868年(慶応四年)7月に萩・津和野に94名、1870年(明治二年)1月に西国各藩にその他が送られたが、途中落伍して帰村した者1,022名、1874年(明治六年)8月に赦されて帰村した者1,930名、その他逃亡・残留者・生児もあった、と記されている。

2000年に於ける日本カトリック教会信者数は全国で445,240名、総人口に対する比率は0.353%である。都道府県別では東京都84,733名(0.494%)、長崎68,801名(4.490%)、大阪56,103名(0.368%)の順となり、長崎は信者比率が圧倒的に高い。

慶長十年(1605)長崎に接する大村領長崎村も公領になり、それまでの長崎の町を内町というのに対し、長崎村を外町と呼んだ。大村藩には替地として、公領浦上のうち浦上川上流地域の四村が与えられた。

こうして、公領浦上は浦上川下流地域の村々のみとなり、その左岸一帯を山里、右岸一帯を淵村と呼んだ。これをいま浦上天主堂がある高谷の丘に屋敷を構えた高谷氏が、代々庄屋を世襲して明治に至る。

山里は時津街道沿いに南から北に馬込郷、里郷、中野郷、家野郷、そして東北方の本原郷に分かれ、馬込郷を除く四郷の住民たちはほとんど全部、徳川時代を通じて密かなキリシタンであった。

徳川時代末期に至りこの地域でキリシタンが露見する「浦上四番崩れ」が起き、この事件を引き継いだ明治新政府は全村人を西国各地に流罪に処したため、欧米諸国から厳しい非難の声を浴びることになる。これに屈した政府は遂に明治六年、徳川時代から続いてきた切支丹禁制の高札をとり下ろし、流罪の人々を赦免せざるを得なくなる。明治二十二年(1889)発布の大日本帝国憲法で信教の自由が認められる。

それにしても、人々の魂の指導者たる宣教師がいない中で地域を挙げて長期間、どうして密かに信仰を守りつづけられたのだろうか。中野郷の道の脇に少し入りこんだ所に立つ次の立札にその秘密が語られている:
帳方屋敷(如己堂のところ)について
慶長十九年(1614)徳川家康は禁教令を発布、宣教師はすべて長崎から国外へ追放されることとなった。
当時、長崎には五万人のキリシタンがいたが、彼らはこの信仰弾圧に対して武力抵抗はしなかった。しかし、壮大な教会堂はすべて跡形もなく破壊されてしまい、以後二百五十年にわたって禁教と殉教の時代が続いた。
この二百五十年の間、キリシタンの信仰を保持するため潜伏キリシタンの組織づくりをしたリーダが孫右衛門であった。 指導者の系統は最高指揮者帳方ひとり、浦上四郷に水方(洗礼を授ける役)ひとり、各字に聞役(指令伝達役)ひとりであって、初代の帳方が孫右衛門でその子孫が代々推されて帳方を務めて吉蔵(浦上三番崩れで入牢、獄死殉教)にいたるまで七代つづいた。その屋敷跡がここである。永井博士の夫人緑さんは吉蔵の子孫である。

浦上天主堂発行の絵葉書の中から原爆被爆後と再建後の二枚を選んで、右に掲げる。
この天主堂は1945年8月9日、原爆の爆発により破壊され火災に包まれました。二人の神父と、二十人以上の信徒が此の天主堂と運命を共にし、浦上地区に住んでいた12,000人の信者のうち8,500人が死亡したと推定される。
(写真右上)無傷で掘り出されたアンゼラスの鐘。
(写真下)この天主堂は1959年11月1日再建され、1980年に修理された。

天主堂斜向かいの立派な建物・大司教館が長崎教区の中心である。昨年大司教が急死され、その後継者は未定という。大司教館前からサントス通りを隔てた真向いのカトリックセンターのレストランで昼食を摂る。天主堂に向う途中、その敷地の斜面に崩れ落ちた鐘楼の残骸に出会う。
爆風によって吹き飛んだ浦上天主堂の鐘楼
爆心地より約500メートル北東の小高い丘の上に立つこの赤レンガ造りの浦上天主堂は、原爆による被災で崩壊したが、被災前の天主堂は浦上の地に暮らしていたカトリック教徒たちが、明治28年(1895年)から赤レンガを一枚ヅツ積み上げて30年の歳月をかけて建てられた。当時としては東洋一の威容を誇る大聖堂であった。
昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾により一瞬にして破壊された天主堂は数本の石柱とまわりのレンガの遺壁を残すのみで、二人の神父と信徒十数名が天主堂と運命を共にした。双塔の鐘楼は崩れ落ち、そのうちの一つ(重量約50トン)が現在もこの地に原爆被爆の跡をとどめて眠っている。爆心地に程近いこの地区は17世紀初頭に始まるキリシタン禁教の時代からカトリック信徒の多いところであった。原子爆弾は、このカトリック信者の聖地に炸裂し、14,000人の信徒のうち約8,500人が犠牲となり、新しい受難の歴史を書き加えた。
核兵器の廃絶と世界恒久平和を願って止まない長崎市民は、原爆被害の無言の語り部であるこの鐘楼を保存するとともに、この地で被爆された方々のご冥福をお祈りし、二度とこの惨禍を繰り返さないことを願って、この地に銘板を設置するものである。
昭和62年8月
長崎市(国際文化会館)


 
天主堂の参観はできず、"お告げを受ける聖母"から始まる二十四枚のステンドグラスを見て回ることはできなかった。扉の窓越しに広い堂内をのぞき見ただけで天主堂を後にし、右脇に沿った道を辿って金毘羅山に向う。

この山の登山道は幾つかあるそうだが、もっとも平易な尾根伝いを選ぶ。本尾山の裏手の宅地に入ると、道は徐々に険しくなり見上げる畑地の向うに山腹を横切って建設中の道路が見える。ここまで荷物を担ぎ上げて畑作の準備をしている人と暫時言葉を交わす。三菱長崎造船所を退職して十数年になるそうで、長崎の人はおおむね話し好きが多い。ここを通り越すと、いよいよ本格的な登山道に入る。

潅木の間に曲がりくねった階段が延々と続き、次第に傾斜が増して行く。貯水槽のようなコンクリート構造物の脇を過ぎてもなお、つづら折れの登り道が続き何度も一息入れつつ登る。町歩きの服装と革靴ではおよそ山登りには不似合いだし、おまけにカメラと地図しか携帯しなかった。我々以外に登山者は誰もいない。高校生の健脚を競うためによく利用されているルートのようだ。樹の間から送電線が上空を横切っているのを見て地図と照合して、頂上が間近であることを知る。

前方の樹木の間から曇った空が見え始めてからもなお、岩石でできた自然の階段が続く。そのうち突然、金毘羅さんの奥の院の背後に出た。ここが頂上(標高366.3m)で、岩山に腰を下ろして一息入れて左手を見下ろすと、西山高部貯水池から長崎市北部に通ずる道路が直下に見える。更に山上を南に行くと視界が大きく開け、右手に原爆の被害をまともに受けた浦上川流域が一望に広がり、さっき訪れたばかりの原爆資料館、浦上天主堂等が指呼の間に見える。 原爆落下中心地の所在も凡そ見当がつく。その上空500mでプルトニウム原爆が炸裂したのだ。右から左に視界を移すと稲佐山、長崎湾、英彦山等が次々と見えて来るが視程は良くなく、遠方がかすんで見える。頂上に建つ金毘羅さんの鳥居(写真)を 北から南に通り抜ける。

早々に、真南に向け山道を下る。金毘羅神社の境内を抜け、更に下ると傾斜地に拡がる西山町の住宅地に入る。建物の間をつなぐ階段を早足に下っていくと長崎東高校が右に、そしてその先の市民運動場の脇に長崎バスが停車しているのが見える。急いで駆け下り、このバスを待っていた高校生と一緒に乗り込むとすぐ発車した。バスは山を下り、中島川通りを南下して、中央橋経由無事終点の長崎バスターミナルに着いた。

こうして、ランタンフエステイバルの賑わいを後にして長崎駅前から歩いて北上し、昔刑場があったという天理教会前を経て聖徳寺、山王神社、長崎原爆資料館、原爆落下中心地、浦上天主堂と巡礼した。そして、金毘羅山を越えて市内に戻るまでの総歩数は約27,000歩であった。