史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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浦上天主堂から西に程遠くない平和公園の周辺を一回りしたが、無料の市営駐車場が見当らなかった。やむを得ず公園北側の一方通行の小路に暫時車を停め、足早に平和祈念像の写真を撮りに行った。

平和祈念像建立のことば
昭和二十年八月九日午前十一時二分、一発の原子爆弾が、この地上空中でさく裂し、方五キロ一帯を廃きょと化し、死者七万三千余、傷者また七万六千余におよんだ。
焦熱恐怖の思いは、今なお胸を裂くものがある。
私ども生き残った市民は、被爆諸霊の冥福を祈り、かつ、この惨禍が再び地上に繰り返されることを防ぐために、自ら起って、世界恒久平和の使徒となることを決意し、その象徴として、この丘に、平和祈念像の建立を発願した。
かくて、私たちは、平和祈念像建設奉賛会を組織し、内外の熱烈な協賛のもとに、昭和二十六年春、工を起してより、ここに四年、念願の像を完成し、除幕式を挙げた。
この日、原爆十周年の日の前日である。
私は三十万市民とともに、この平和祈念像が、万人に仰がれ、世界平和に大きな貢献をなすものと信ずる。 昭和三十年八月
長崎市長 田川務


平和祈念像は今年、補強工事を終り青白色に化粧直ししてお目見えした。間じかに見る男性裸像の巨大さに驚ろかされる。これを製作した彫刻家・故北村西望(1884~1987)は、島原天草の乱の地・島原半島有馬村の出身で、東京美術学校卒の芸術院会員、昭和三十年平和祈念像を完成し、文化勲章・文化功労賞を受けた。昭和六十二年満百二歳で逝去。地元長崎では、今も「西望さん」と親しまれている。

西望さんの生地・有馬町の南向きの高台に西望公園があり、屋外にも多くの西望作品が展示されている。説明書の一部を紹介すると:
四百年余の昔、天正八年(1580)、この有馬の里にわが国最初の神学校セミナリヨがもうけられ、生徒たちがこの学林の中で盛んに芸術活動が行われたことと考えあわせ、そのゆかりの地から西望、北村先生の誕生を見たことは、何よりも私たちの誇りとするものであります。 今、この西望公園に立ってみはるかせば、なだらかなスロープの前方に原の古城址、有明海をはさんで談合島(湯島)が望まれ、更には熊本宇土半島、天草の山なみが見事なパノラマを描いております。

東海地方にある西望さんの作品は、三重県津市のしだれ梅の名所・結城神社の社殿前に座す一対の鋳銅製・日本一の狛(こま)犬(昭和十二年製作)である。
話は脱線するが先日、伊勢三十三観音霊場巡礼満願の帰途、猿田彦大本宮・椿大神社(つばきおおかみやしろ、三重県鈴鹿市)に参詣した時のこと。同行の先輩が参道左右の狛犬を指し、狛犬にも雄雌の別がありお腹の下を探るとそれがわかる、と教えてくれた。早速試してみて確かにそうであった。こういう下世話なことをご親切に教えてくれるのも先輩の有難さか?

原爆落下中心地(写真)のすぐ東側を流れる川の畔に次の説明板が立っている:

下の川(爆心地付近)の惨状
この下の川が流れる松山町(向かい側)は、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、人類史上二番目の原子爆弾が炸裂した中心地である。
当時この町には、約300世帯1,860人余の一般市民が生活していた。松山町の上空約500メートルで爆発した一個の原子爆弾は、その直後巨大な火の球となり、それより生じた数百万度の熱線と放射線と強大な爆圧はあらゆるものを一瞬にして破壊して焼き尽くして汚染した。 町内にいた者は、偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き全員が即死した。
壊滅した松山町は想像を絶する焦熱地獄と化し、惨劇の跡は黒焦げの死体が累々と荒廃した焦土に横たわり、まさに地獄の終えんを思わせるものであった。
当日は目の前の下の川の貯水池で水泳をしていた長崎工業学校の生徒20数名も、うつ伏せになり全員即死した。
この地で被爆死された方々のご冥福をお祈りし、二度と再びこの惨状を繰り返さないことを願って、この地に碑を設置するものである。
昭和61年8月
長崎市(長崎国際文化会館)