史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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道を右にそれて山手に向かうと、やがて先ほどの白い出津(しつ)教会が見えてくる。入口近くの立札に、次のように記してある:
県指定文化財・出津教会
昭和四十七年二月四日指定
出津教会は、明治十二年に外海地区の司教として赴任した、フランス人のマルコ・マリ・ド・ロ神父により設計・施工された教会です。
明治十四年、建築に着手され、翌十五年完成しました。この時の教会は、レンガ造りの壁面で、内部は漆喰造り、木造桟瓦葺き寄棟造り、内部は三廊式平天井でした。
明治二十四年、増築、祭壇部に塔を建て、屋根は祭壇部が切妻造り、玄関部は寄棟造りとなります。 明治四十二年、玄関部を拡張し、鐘塔を建てました。玄関部は、鉄骨造りで、周囲をレンガで囲み、白漆喰に仕上げています。外部は、モルタル塗装、屋根は切妻になりました。内部は、六本づつの柱列が二列に並び、身廊部と左右の側廊とに分けて三廊式になっています。天井は、台風の被害を少なくするために平天井となっています。
教会の規模
全長三十七メートル、幅十一メートル、軒高三・五メートル、塔の高さ五・八メートル、祭壇部の高さ五・五メートル
この教会は、明治初期の建造物であり、建造から二回の増築までド・ロ神父の設計施工によるところに大きな意義があり、各所にド・ロ神父独特の手法が見られます。ド・ロ神父の偉業の一つであることなど文化財としての価値が高い教会です。
外海町教育委員会


内部は数百席もありそうな大きな教会で、装飾も少なく質素な造りである。中庭にはド・ロ神父の胸像が安置してある。 西出津郷にあるド・ロ神父記念館の説明書を抜書きする:
深い人類愛の精神とすばらしいフロンテイア精神をもって外海地方の産業・社会福祉・土木・建築・医療・移住開拓・教育文化などに奉仕したフランス人宣教師マルコ・マリ・ド・ロ神父の遺品を一堂に収めて、偉業・遺徳を永久に顕彰することを目的として記念館を設置しました。記念館は明治十八年にド・ロ神父が網すき工場・保育所として用いるために自ら設計・施工した建物で、現在長崎県指定文化財になっています。ド・ロ神父は宣教師としてだけでなく、石版印刷の技術を伝えるために二十八歳で来日、七十四歳でなくなるまでの四十六年間を日本ですごし、そのうちの三十三年間を神と外海の人々に仕えようと意をつくし、貧しく質素な生活を強いられている人々の魂と肉体を救うために数多くの事業をおこないました。

戦国時代、西からマラッカを経由してポルトガル人を主とするイエズス会の宣教師達が日本にやってきた。少し遅れて東からフイリッピンを経由してスペイン人を主とするフランシスコ会の宣教師もやってきた。徳川初期に禁教令が発せられ鎖国したが、末期に至り欧米各国と和親条約を締結すると、日本に駐在する外国人のために宣教師、今度はフランス人、が再び來日するようになる。大浦天主堂内でプチジャン神父が二百五十年ぶりでキリシタンと再会した物語は誠に感動的である。彼等はパリ外国宣教会で修業した後、自分達を苦しめるであろう拷問道具を見せられ、どんな迫害にあっても決して屈しないと誓い海外に赴任した。

ド・ロ神父とともに、天草灘沿岸に大江天主堂を建立したガルニエ神父を想い出す。二人とも最後は生まれ故郷から遠く離れた異国・日本の地に骨を埋めるのだが、同じ人間として心の中では望郷の念に駆られつつ逝かれたのではないかと想像する。