史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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国道202号を海岸沿いに北上を続ける。中浦ジュリアン居館跡と書いた標識を見つけ、左折して坂を三百メートルほど下ると、次の説明板に出会った:
昭和四十五年四月二十三日 長崎県指定
史跡 中浦ジュリアン出生の地
この一帯の俗名を「舘(たち)」という。
ここは天正十年(1583年)二月二十日、長崎を出帆、ポルトガル、スペイン、イタリアなどを歴訪、ローマ法王に謁見の上、大友、有馬、大村の三大名の親書を奉呈して天正十八年(1590年)に日本に帰着した少年使節の一人中浦ジュリアンの出生地である。
僅か十三、四歳の少年たち(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)は、日本人として最初の遣欧親善使節となり、実に八年有余にわたる長途の海外旅行を遂げた。その 時、少年たちが訪問した国々にあたえた好感は後にそれらの国々で発刊された幾多の著書で明らかであり、ヨーロッパ諸国に日本を知らせ、親しませるのに大きな役割を果たした。
更に使節らは帰国するとき持ち帰ったヨーロッパ文化(西洋画、西洋音楽、特に金属活字印刷術)によって、近世初期の日本文化形成に不朽の貢献をした。
ジュリアンは、1591年、他の三人とともに京都の聚楽第で豊臣秀吉に謁し、帰国報告をしたあと天草に至る。
後に再びマカオの神学校に学んで、神父となる。四人のうちジュリアンが最も長命をし、激しいキリシタン弾圧の中で、各地の信者の指導にあたったが、寛永十年(1633年)小倉で捕らえられ、十月二十一日に長崎で穴吊りの刑により壮烈な殉教を遂げた。
中浦ジュリアン神父、時に六十五歳であった。
長崎県は幾多の物証、口碑等により中浦ジュリアンが中浦城主甚五郎の子で、この地で出生し、ここの館の住人であったものと推定、昭和四十三年四月二十五日、県文化財の史跡として指定した。
平成元年九月一日建立
西海町教育委員会


穴吊りの刑とは、内臓が下ってすぐ死なないように体を縄でぐるぐる巻きにし、頭に充血するのを防ぐため、小さい穴をあけておく、そしてできるだけ苦しみを長引かせる。ひどい役人のときには、穴の中に汚物をいれたり、穴の外の地上でさわがしい音を立てて神経を刺激させて苦しみをひどくした。

穴に入れられたフエレイラ神父(日本名:沢野忠庵、遠藤周作著「沈黙」に登場)はついに背教したが、一緒にこの刑を受けた中浦ジュリアン神父は六十五歳の老体で二十六日まで苦しみをしのぎ、殉教した。
説明板の後方に立派な顕彰碑が建ち、その北側の高みに居館跡と考えられている平地がある。ようやく雲間から太陽が顔を出し、昼近くの炎天下を十人ほどの人たちが掘り返した遺跡を埋め戻していた。若い県の関係者らしい人に聞くと、「一部掘り返してみましたが、残念なことに明治以前の遺物は出てきませんでした。でも、たくさんの証拠がありますので、ここが中浦ジュリアンの居館跡であることは間違いありません」と幾分落胆した口調で説明してくれた。

2008年12月2日追記

2008年11月24日、ローマ法王庁がカトリック信仰の模範となる信者をたたえ、最高位の聖人に次ぐ福者の位を授ける「列福式」が初めて長崎市県営野球場で開催された。福者となるのは、天正遣欧少年使節の一人だった中浦ジュリアンや、日本人として初めてエルサレムを訪問し江戸で殉教したペトロ岐部(大分出身)ら江戸初期(1603~1639)の殉教者188人。
過去に日本の信者では、豊臣秀吉の時代に処刑された26人が1862年に聖人に、禁教時代に殉教した205人が1867年に福者に選ばれ、1987年にはドミニコ会の殉教者ら16人が聖人になった。(中日新聞)

中浦ジュリアンの出自は戦国時代に西海市周辺で勢力を張った「小佐々(こさざ)水軍」とする説がある。小佐々水軍は長崎県西彼杵半島西岸を領有し、五島灘一円を支配しつつ海外貿易によって栄えた。その支配圏内に城を二十箇所有し、本城は大瀬戸町多以良にあった。中浦ジュリアンは中浦城主小佐々純吉の息子であるという。