史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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再び202号に戻り、更に北上する。暫くすると左前方に平成十一年十一月十一日開通 の大島に渡る白色の斜張橋・大島大橋(長さ一〇九五メートル)が見えてくる。この島には大島造船があり造船不況以降、副業として健康食品を始めた。
芋焼酎・ちょうちょうさんは大島特産さつま芋を名水伊佐の浦川の水を使って醸造した。 また、昭和六十三年から始めた完熟トマトは、糖度が高くビタミンCが豊富でとにかく重い(注参照)。両方とも長崎の料亭などで珍重されている。

この大島大橋(通行料金:普通車片道七百円)を渡り大田尾教会を訪れたかったが、時間がなくどうしようもない。後ろ髪を引かれる思いをしながら、車は43号に乗り川内を経由して、彼杵半島を北から廻ってきた202号を逆に辿り、彼杵半島北端に近い小さな港・横瀬浦に着く。この道筋が近いと教わったとおりにやってきたのだが、海側を廻る202号をそのまま行ったほうが、多少遠回りでも海岸の景色を楽しめて良かったかもしれない。このあたりから、今日中に平戸まで行き着きたいとする急ぎ旅のみじめさが身に しみてくる。
(注)大島ホームページ:http://www.osy.co.jp/oshimahp.htm

横瀬浦は十年ほど前訪れたことがあるが、当時と今回とでまるで印象が違う。当時は間違って別の入江に行き、そこをかの有名なポルトガル船寄港地と思い込んだのか。 深く入り込んだ入江西側の海岸通りがそのまま波止場で、真北の佐世保港への小型定期船が出ている。更に奥に入江が入り込んでいる。当時、ポルトガル船は入江の中ほどにもやい、小船で波止場との間を往来したであろう。

入江の口には、こんもりとした小さな八ノ子島が浮かんでいる。雑誌「芸術新潮」2000年10月号に特集「長崎切支丹ジャーニー」が掲載されており、そこに横瀬浦の外側から写した八ノ子島の写真が、次の説明文付きで掲載されている:
横瀬浦の夕暮れ今は鄙びた漁港だが、1562年からの二年間、ポルトガル船が寄航し、キリシタンの港町として栄えた。入江の口に浮ぶ八ノ子島には、往時と同じく大十字架が再建されている。

私が港側からデイジタルカメラで撮った八ノ子島の写真(800×600ピクセル)を拡大して調べてみたが、遠すぎたためか頂上の十字架は識別できない。このカメラの最高解像度(1,600×1,200ピクセル)で撮影しておけばあるいは、と反省したがあとの祭り。

海岸通りの左側はすぐ高台で、当時ここに商館や民家が置かれた。道端に、南蛮船来航之地と刻した碑が立っている。

教会址は横瀬浦に入ってくる手前の右手の高台にあった。道端に車を停め、太陽が照りつけて水蒸気が立ち昇るなか、急な階段を一歩一歩登る。やっとの思いで着いた頂上は微風が吹き、景観が素晴らしい(写真)。横瀬浦が繁栄した一時期には、ここから入江、南蛮船、商館などを一望に収めることが出来たであろう。八ノ子島は前方の高台の下に隠れて見えない。

ここに、次の碑が建っている:
古来長崎の天地に太陽は西から輝いていた。
歴史文化もまた多く西方からもたらされた。十六世紀大航海時代の幕開きと歴史、文化が貿易風に乗ってこの地に揚陸交流された。春西海の水平線は弓なりにたぎり立つ。潮流は帆をはらんで一隻のポルトガル船が横瀬浦に入港する。
時に永禄五年(1561)日本全国は戦国の渦中にあった。
領主大村純忠はローマイエズス会修道士と英明・周到なる交渉により開港する。かってない文物の往来と、キリスト教会伝播の実は忽ちにして「ヨコセウラ」の名を内外に特筆さるに至るも尚戦いの劫火はやまずその只中にあって、ひとり此地の人々は神の恩寵のもと、祈りの声を絶やさすことはなかった。
永禄六年夏突如「聖なる御救いの港」炎上横瀬浦草土と化す。我国精神史上に大いなる一夏を刻した此処「ヨコセウラ」に昔日の姿は一片もない。語る術ない波静かな海の蒼に白く鉢の子島の十字架が遥かな夢を映している。
平成の世改めてポルトガル国マカオ政庁より日ポ友好親善を再見すべく記念プレートの贈呈を受くる意義深い四百有余年の先史に学び由緒ある再会の丘に西海町々民の賛意を表し、今日を卜して碑を立てる。
平成二年(1990)八月二日


横瀬浦壊滅当時の模様を、そこに居合わせたフロイスは次のように語っている: 当時、異教徒である豊後の商人たちは横瀬浦にいて、その大量の買い入れに支出するために銀を用意して待っていた。彼等は常にポルトガル人とデウスの教えとの敵で、ポルトガル人との関係を絶ち、殺せるものは殺し彼等が陸揚げした豊富な財貨を奪うには今こそ好い機会であると彼等に思えた。豊後の人たちは新しく造られたばかりで絶えず繁栄を続けていたこの町に火を放ち、外国の商人たちは急ぎ船に乗り込んで諸方へ逃れた。火は市街を襲い甲高い婦女の絶叫、子供たちの泣き喚き、町民全体の狼狽がこれに加わり-恐ろしい光景であった。
(フロイス「日本史」第四十八章)

この時港にいたのは、ザビエルが去った後宣教に尽力していたトルレス神父と、ポルトガル船に乗って日本に着いたばかりのフロイス神父であった。実体験した人が書いたのだから、記事に迫力がある。二人は船に逃げ遅れて豊後の商人達に捕らえられ、数日間抑留された。こうして横瀬浦は壊滅し、再び平凡な漁港に戻った。

何が壊滅の引金になったか、については次章で説明する。