史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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ポルトガル船が最初、平戸に来航し、横瀬浦、福田浦と転々とし、最後は長崎に落ち着くまでの経緯は次のごとくであった。
平戸で始まった南蛮貿易
1549年8月15日ザビエルは薩摩国に上陸し、国主に都へ遣わしてくれるよう懇請しつづけたが、その約束が果たされぬまま十ヶ月が過ぎた。その時、シナから来たポルトガル船が一艘、平戸に入港したとの知らせが薩摩に届いたので、ザビエルはインドやヨーロッパから自分に宛てた書簡が受け取れるかもしれないと考えて早速平戸に移った。平戸でもザビエルの希望どおりに直接都へ行く方法が見つからなかったので、せめて山口の国まで旅していこうと決心し、コスメ・デ・トルレス師を平戸に残し、ジョアン・フエルナンデス修道士を通訳に伴い出発した。

山口から都に上ったザビエルは何の成果を得ぬまま再び山口に戻り大内義隆の知遇を得て、ここでキリスト教を弘めた。そのうち、豊後国にポルトガル船が入港したことを聞き、山口で五ヶ月以上もの間に獲得したキリシタンの世話をし、布教を促進するために平戸から来たトルレスとフエルナンデスを山口に残し、豊後に行った。ここからポルトガル船に乗り一旦マラッカへ帰り、シナへの布教を試みるが、広東の南のサンショアン島で熱病に罹り、1552年12月2日死去した。

ザビエルが日本を去ったあと、山口にいるトルレスが中心になって布教を進めた。ザビエルを伴ってマラッカに帰ったポルトガル船がバルタザール・ガーゴ師とドウアルテ・ダ・シルバ、ペドウロ・デ・アルカソヴァ両修道士を乗せて再び、平戸に到着した。ガーゴ師らは直ちに山口に赴き、トルレスの指揮下に入った。

弘治元年(1555)当時には、平戸でガーゴが布教活動にあたっており、約五百人の信徒がいた。弘治三年には、ガーゴに代わってガスパル・ヴイレラが駐在し、領主・松浦隆信の重臣・籠手田安経、一部勘解由兄弟などが入信した。これに平戸の仏教界が反発し、領内の内紛が相次いだので、隆信はヴイレラを領外追放にした。永禄二年(1559)ヴイレラはロレンソ修道士を従えて山口から、都の布教に出発する。

平戸では宗教上の争いのほか、貿易上の紛争も頻発した。永禄四年八月に起こった宮の前事件では、船長および十三名のポルトガル人が殺された。これを契機に、ポルトガル船は平戸を避け横瀬浦に入港するようになり、平戸はそのため衰退に向う。

横瀬浦の繁栄と没落
トルレスの意を受けたアルメイダは、ポルトガル人の水先案内人と日本人のキリシタンの二人に命じて、ひそかに大村純忠領の横瀬浦の測量をさせ、ここが良港であることを確認した。彼はまた、純忠の意向を探ったところ、純忠は重臣たちの反対を押し切って、横瀬浦を貿易港とすることは勿論、領内布教についても許可するだけでなく、純忠自らの入信についても協議するとの返事が伝えられた。こうして、永禄五年(1562)六月横瀬浦は新たな貿易港となり、ポルトガル船はここに入港するようになった。

純忠はここに教会の建設を許すなど好条件を示したので、各地から大勢の人々が來住して、急速に発展した。それもつかの間、開港一年余で崩壊してしまう。

大村に隣接する武雄の領主・後藤貴明は、大村の領主・純忠を殺してその領地を奪おうとした。純忠は当時の肥後最大の大名・有馬晴純の二男であった。晴純は大村純前の庶子を後藤貴明と改名して肥前武雄城主に移らせ、そのあとに純忠を入嗣した。そのため大村家の重臣達は、純忠に敵意を持つ貴明と組んで純忠の暗殺を画策するようになった。

貴明等は一計を案じ、純忠とともに司祭らもより確実に殺すことが出来るように、司祭らから説教してもらい洗礼を受けさせてもらうよう純忠に願った。純忠は喜んで横瀬浦に使者をたて、トルレス師を招聘した。ところが、トルレス師は病気で行けず、代わりにフロイス師とフエルナンデスを立てることとした。二人は聖母マリア被昇天の日の祝典を終えてから大村に向け出発する予定であったが、フロイスも突然の高熱で床に臥してしまった。

日没の折、司祭達を迎えに来た使者は船に乗り大村に引き返すことになった。大村湾の海水が、極めて激しい潮流となって入ってくる海峡を通過する際、そこに城を構えていた大村の家臣・針尾伊賀守が彼らを襲って全員を殺害し、同行しているはずの司祭達もともに殺したと確信した。針尾はかねての申し合わせどおり司祭達を殺害したことを知らせる狼煙を上げた。この知らせを受けた貴明は直ちに純忠を襲撃したが、純忠は危うく難を逃れ、多良山中に身を隠した。

横瀬浦には純忠が貴明の軍勢により落命したとの誤った知らせがもたらされた。街中は騒然となり、豊後の商人が町に放火しポルトガル人を襲い貿易品を略奪した。町は灰燼に帰し、諸国の商人は立ち去り、残ったポルトガル人は船に逃れて去って行った。

その後、横瀬浦を目指して来航した二艘のポルトガル船は港が壊滅しているため、平戸の河内浦に入港した。この知らせが近くの度島(たくしま)にいたフロイスにもたらされた。フロイスが河内浦に赴く途中、暴風雨により大破した大型帆船が平戸に向かうのに会い、宮の前事件のような流血の惨事をふたたび起す危険を避け口之津に向かうよう勧めたが、商人たちが反対し平戸入港を選んだ。隆信もこれに応じたため、平戸貿易は再開されたが、ポルトガル人は翌年早くも平戸を離れ、再び純忠の領地へと去って行った。
福田浦は一時の交易場

永禄八年(1565)来航したポルトガルの定期船は大村領の福田に入港した。福田は長崎湾の外側にあたり、外洋に臨んだ小漁港であったが、はじめてポルトガル船を迎え、にわかに活気を呈し教会堂も設けられ、各地から信者らが集まってきた。純忠も幾度かこの地を訪れ、神父達や船の司令官らに迎えられた。 一方、松浦隆信にしてみればポルトガル船が平戸を見限って福田に入港したことは背信行為と映った。そこで彼はポルトガル船から生糸を買い入れるために集まった堺の商人たちと謀って、福田のポルトガル船から積荷を略奪しようと、武装船団を派遣した。 写真:稲佐山より福田浦(中央)を望む。遠くに伊王島が浮ぶ。

戦闘の模様をフロイスは次のように語る:
日本人の船隊は、まるで我が家へでも来たように、誇らしげに、横柄に、勝利を確信して進んできた。そうして、到着すると、八艘の大きな船は、日本人生来の恐れる気配もなく勇敢に、この船をぐるりと取り囲んだ。そうして、直ちに最初の攻撃で彼等が発砲すると、(それは堺で造られた一種の簡単な火縄銃であった)彼等はさっそくその船の砲術長を殺し、(我々にとってこれ以上悪い出だしはあり得なかったと思われるのであるが)同時に船に填隙する者と他のポルトガル人二人を殺した。(中略)日本人にはポルトガル人よりも二つの優越点があった。一つは彼等が武装を整えてきたことであり、もう一つは彼等がこの戦闘で遠くの方から銃箭にものをいわせたことであった。しかし、すでに彼等の船、いいかえれば大型船舶三艘,を撃破したガレオン船の大砲に圧迫されて、彼等は退いて安全をはかることに決した。船上では八人が死に、若干の負傷者を残したが、日本人たちの方では、後で知れたところによると、死んだのは八十人、負傷したのは百二十人以上であった。
(フロイス「日本史」第六十三章)

しかし福田港は十分な測量や調査の結果選ばれた港ではなく、どこまでも平戸を避けて大村領にポルトガル船を入港させるためにさしあたって物色された港にすぎなかった。
長崎が最適な港として選ばれる
福田の港は適当でなく、そこでは船がさまざまな危険にさらされたので、トルレス神父は船がドン・バルメトロウ(純忠のキリシタン名)の国ぐにに留まり、それによって布教が促進され援助され得るように、船のためにもっと安全な港を捜そうと思った。それ故、神父は同行者数人とともに水先案内人一人を伴ってわざわざそこの海岸を捜しまわり、最良と思われる所を発見するために港口の深さを測った。その後、彼等は長崎の港がその目的に適っていると思った。ドン・バルメトロウと必要な協定がついた後で、神父と、家族とともに住居を定めたキリシタンたちとは、そこに確定的な定住地を作り始めた。
(フロイス「日本史」第九十八章)

永禄十年(1567)から始められた長崎の町割は、島原・大村・文知・外浦・平戸・横瀬浦町の六町で、文知坊という人物にちなむ文知町のほかはいずれも近隣の地域名を負っているのは、そこからの移住者が主体であったことによると思われる。これ以外にも五島・天草・博多・豊後・山口からキリシタンたちが来住した。

元亀二年(1571)に六ヵ町が成立したころは千五百人程度と見られる。この地にこうした都市建設を進めようとするなら、この地を本拠としてきた長崎純景の城下町を拡充すればよかったと考えられる。純景の鶴城は東北の高台(城の古祉)にあった。純忠はこれをとらず岬の突端に新たに都市を作ったのは、そこがポルトガルとの貿易を展開する 上で最適と考えたからであろう。

海上から望見すると、この岬が後背地から長く海中に延び鶴のように見えたので、長崎港は鶴の港とも呼ばれた。

長崎の周辺には敵対する勢力があった。新興の町の発展から取り残された純景方と六か町側とは天正七年(1579)、合戦するくらい不仲であった。長崎湾の南側の城山に拠る深堀純賢(すみまさ)も長崎の町をしばしば襲撃したばかりか、港に出入りする船を監視し、通行税を取り支払を拒む船を襲うという海賊行為を働いた。深堀氏はもと鎌倉幕府の御家人で上総国から戸町浦の地頭となり移住してきた。伊佐早(諫早)の高城の城主・西郷純尭(すみたか)が戦いをしかけて来ることもあった。

長崎甚左衛門純景は純忠の娘を夫人とする大村氏の有力家臣であったが、1605年(慶長十)長崎失地後久留米の田中氏に仕え、田中氏断絶後再び大村氏に仕えて横瀬浦に百石を領し、1621年(元和七)時津に没した。

最大の脅威は薩摩の島津氏と九州の覇を競った佐賀の竜造寺隆信であった。隆信は純忠を自分の配下に収め、何かと難問を突きつけてきた。純忠は隆信の介入を防ぐため、天正八年(1580)長崎港・新町六ヵ町・茂木をイエズス会の教会領とした。その後天正十二年(1584)、浦上村も有馬晴信の寄進により教会領になった。

この年三月、隆信は島原半島で島津と結んで頑強に抵抗する晴信を討つため、有明海を渡り神代(こうじろ)海岸に上陸して島原半島の東岸を南下し、沖田畷で待ちうける島津・有馬連合軍と激突した。戦いは戦略に勝る島津側の快勝に終わり、隆信は戦死する。以後、竜造寺家の実権は鍋島直茂に移る。

純忠は、キリシタンになったのが原因で家中に争いを起したり、嬉野・諫早等隣接した他藩から攻撃され、戦乱の中で一生を送り天正十五年(1587)、五十五才で死去し、大村の居城付近の教会に葬られた。その子喜前(よしあき)は慶長十一年(1606)背教して日蓮宗に改宗し、大村領から宣教師を追放してしまった。