史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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202号を来た方向に戻って川内を過ぎ、小迎で長崎から大村湾西岸沿いに北上してきた206号と合流する。長崎・佐世保を結ぶ大動脈であるから、片側ニ車線で走りやすいと喜んだのも束の間、西海橋に近付くころには昔ながらの狭い道路に戻っていた。

大村湾は湾口に針尾島があり、佐世保湾とは僅かに針尾瀬戸と早岐(はいき)瀬戸と通じルのみの閉鎖的湾である。針尾瀬戸には長さ三百十六メートル、高さ四十五メートルの西海橋がかかっている。干潮時に大村湾の海水がこの瀬戸を通って一時に外洋へ流れ出し、最大の落差一メートル半に達しこれは鳴門の渦潮に匹敵する。大村純忠の居城のある大村と横瀬浦との往来には、この瀬戸を利用したと思われる。

大村湾の面積は琵琶湖の半分足らずで、針尾瀬戸が琵琶湖南端の瀬田川と同様の排水路の役目を果している。

この近くに高さ百三十七メートル、周囲三十三メートルの無線塔が三本立っている。ここで日本海海戦を告げる「敵艦見ユ…」を戦艦三笠より受信した。遠目からも眺められ、屹立して帝国日本の歴史を物語るこの塔も、使命を終え老朽化したというだけで、知らぬ間に撤去されてしまうことのないようにしたいものだ。

愛知県刈谷市にある依佐美送信所は、高さ二百五十メートルのアンテナ八本で、太平洋戦争の開戦を指示する電文「ニイタカヤマノボレ」を送信した。東京から名古屋に帰る際、新幹線の車窓からこのアンテナが見えると、そろそろ下車準備をはじめたものである。この歴史的な建造物も、その役割を終え撤去された。1997年、刈谷市は塔が撤去された四千平方メートルの跡地を約一億円で購入し、西南二号塔跡地に二十五メートルの塔を保存した。この地に次のごとく記されている:
依佐美送信所鉄塔
明治以来我が国の対外通信は、欧米の電信会社の所有する海底電線によらねばならず、このような対外通信施設の不備は、外交上・通商上の不利益を我が国にもたらした。こうした検地から無線通信による国際通信の整備が提唱され、大正四年三月帝国議会において「日本無線株式会社法」が成立しこれに基づく新会社が世界の主要地域と直接無線通信のできる施設を建設することとなり、対欧通信所はここ依佐美(当時愛知県碧海郡依佐美村)に、受信所は四日市郊外(同三重県三重郡海蔵村)に設けられることとなった。
依佐美通信所は大電力の長波送信所として設計され、昭和二年七月に着工、四年三月に完成した。送信所はドイツ製テレフンケン式長波送信装置と高さ二百五十メートルの当時としては東洋一の高さを誇る鉄塔八基に懸架した壮大なアンテナが設置された。空中線電力七百キロワットは長波としては世界最大のものであった。
この八基の鉄塔は二列(間隔五百メートル)に四基ずつ(間隔四百八十メートル)設置され相対する鉄塔間に張られた四本の架線に逆L型アンテナと称される長さ約二千メートル十六条のアンテナ線が吊り下げられた。接地には多重接地法が採用され、アンテナの下の全域に埋設された。 鉄塔と送信所建設に要した資材の量は七万トン、これを運搬するため三河鉄道小垣江駅から建設地付近まで臨時に専用引込線が敷設された。
昭和四年三月すべての工事が完成、四月十八日盛大に開所式が行われ、我が国とヨーロッパ間の直通通信が開始された。これは外交上及び通商上の画期的躍進であった。
第二次対戦中、長波の送信施設は専ら日本海軍の運用に委ねられ終戦に至ったが、昭和二十七年から米軍に提供され、運用が再開された。
平成六年八月東西冷戦の終焉により全面返還となり、平成九年三月に、アンテナ、鉄塔等の撤去を完了した。こうして七十年にわたって三河平野にそびえ立ち、地上の象徴として親しまれてきた鉄塔もその使命を終え、姿を消した。ここに往時の雄姿を留めるものとして実物を十分の一の高さ二十五メートルに短縮し保存する。


西海橋を過ぎ少し走った左手の万十屋に入り、あらかぶ定食を食べる。あらかぶ(かさごの九州地方での呼び名)をぶつ切りにして煮た味噌汁で、豪快かつ美味なので「西海橋だけの味」と自慢するだけのものがある。