史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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佐世保に入る幹線道路が西九州自動車道を過ぎるあたりから市内まで数キロが昼間も渋滞する風景は、昔から何ら変っていない。佐世保は1886年(明治十九)に横須賀、呉に次ぎここに第三海軍区鎮守府が設置されたのが始まりである。対馬海峡を扼し西の守りの要、また大陸への前進基地として絶好の要衝であることは地図上から充分読み取れる。現在は、海上自衛隊佐世保総監部と米海軍基地がある。

折しも三隻の米海軍・強襲揚陸艦のうち一隻が接岸し、これに反対する赤旗が路上に見え隠れしていた。最近は日当を貰ってデモに参加するらしく、横須賀ともどもこの種の平和運動も往年の活力を全く失ってしまった。

外国軍隊を引き入れその力を背景にして革命を実現し権力奪取を目論んだ連中にとり、日米安保と自衛隊は目の上のたんこぶであった。1960年代の一時期、学生を巻き込み反米運動を盛り上げるのに成功した。だが、90年代にお手本のソ ビエト共産主義が数千万人の命を犠牲にして七十年間にわたる壮大な実験の幕を閉じた時、彼等も夢見てきた革命思想を放棄せざるを得なかった。

次は平和憲法擁護という国産の論理を掲げた。我々が武器を捨てれば他国もそれに倣い世界平和が実現する、という一方的な思い込みは亡国論に過ぎない。他国にとっては、日本が自ら国防を放棄してくれるのは願ってもないことだ。彼等の幼稚さ加減が急速に国民の支持を失い、軍港での反戦平和運動が生彩を失うようになったのも当然である。

佐世保湾の入口から北松浦郡鹿町町にいたる沿岸約二十五キロはリアス式海岸であり、百七十余りの島々が点在する美しい光景があり九十九島と言われている。昭和三十年に西海国立公園に指定され日本最西端の海の国立公園となった。

大村湾巡礼の最初の計画は平戸まで足を延ばすこととしていたが、西海橋を出てから予想外の時間を費やしたため佐世保泊りとすることとし、駅前に車を停めて汗を拭きふき観光案内所に立ち寄り旅館の世話を依頼した。良いところを安く、という私の願いを容れて交渉してくれ、時節柄泊り客が少ないためか九十九島を見下ろす山腹の高級旅館に安価で宿泊させてもらえることになった。

佐世保から平戸にむかう途中で204号線を左にそれ、県道139号線に乗り海岸端の道を行ってみる。佐々川の河口では春先、四つ手網を使った、しろうお漁が盛んである。「しろうお」は体が細長く、半透明で体長約十センチのしろうお科の魚で、酢醤油でそのまま食べる「おどり食い」は珍味。「しらうお」は別種の魚で、間違えられやすい。

九州の懐かしい味といえば特産の柚子こしょうがある。こしょうは唐辛子を意味し、青柚子の香りとぴりりとした青唐辛子がよく利いて、みそ汁、鍋物、水炊き、刺身、そうめん、うどん、そばなどの薬味として使えば何でも美味しくしてしまう。

更にリアス式の海岸沿いに行くと、九州最西端の地と書かれた碑が海岸の岩場に立っている。ここが最西端といわれても感慨が湧かない。
そこで、日本の東西南北の限界はどこか調べてみた。
最西端は先島諸島の与那国島「北緯24°26′37″東経122°55′59″」 である。
最北端は択捉(エトロフ)島・カムイウッカ岬「北緯45°33′18″東経148°45′30″」で、宗谷岬(北海道)ではなかった。以前宗谷岬を訪れた時、日本最北端の地と記した三角形の碑を見て記念証書を貰った、がそれは一体何だったのか。
最東端は南鳥島「北緯24°16′59″東経153°59′11″」であることを知る人は少ない。
最南端は沖の鳥島「北緯20°25′13″東経136°4′20″」で、先島諸島の波照間(はてるま)島ではなかった。

平戸島と九州の田平町との間に潮流の早い平戸瀬戸がある。幕末から明治にかけ、瀬戸内海を通り関門海峡を抜けた列強や明治政府の蒸気船が、この瀬戸を南下して長崎に向った。1977年ここに朱塗りの平戸大橋がかかり九州本土と直接結ばれた。平戸島と生月(いきつき)島との間にも平成三年、世界一のトラス橋・生月大橋が開通した。

平戸には長崎以前に南蛮貿易の中心地であった当時の商館跡やキリシタン史跡も多く魅力に富んでいるが、今回は残念だが割愛するしかない。