史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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有田三衛門とは、柿右衛門・今右衛門・源右衛門を指し、今はそれぞれ第十二・十三代目のご当主が活躍されている。佐賀県有田に隣接して西に三川内(みかわち)、南に長崎県波佐見(はさみ)とそれぞれ磁器の名産地が集中している。

秀吉の朝鮮出兵が破綻した時、各大名が朝鮮の陶工を連れ帰ったので、日本各地の陶磁器業が盛んになった。鍋島藩の武士と共に日本に来た李三平は鉱山匠としての能力もあり、有田の泉谷に磁石の層をみつけ、元和二年(1616)天狗谷窯で日本最初の磁器生産を始める。これが有田磁器の起源とされる。

朝鮮出兵当時、明朝万暦帝は秀吉が中国まで侵攻するのを防ぐため、多勢の軍隊を糧食付で遠路、半島に派遣して李王朝を援護せざるを得なかった。この頃から長年栄えた明朝もかげりを見せはじめる。この機を捕らえた満州族のヌルハチが明王朝を倒すべく革命を起こし、1662年明朝は滅び清王朝となった。

王朝交代の内乱により景徳鎮の磁器貿易は停止し、それによって利を得ていたオランダの東インド会社は1652年には一点の磁器も手に入れることができなくなった。その代替として浮かび上がったのが、生産が始まっていた有田磁器であった。

有田磁器は当初、中国風の染付けであったが、色絵の柿右衛門のように日本的なデザインのものが欧州でなじまれるようになり、有田焼ではあるが、積出港の伊万里の名で世界的に通用するようになった。

秀吉の無謀な朝鮮出兵が有田焼を生み、結果的にそれが世界的な隆盛につながるとは誰が想像しただろうか。

今右衛門窯は色鍋島の直系を自負しているだけあって、デザインの品の良さが好まれる。その建物の二階に職人さんが器用に筆を使って染付けをしていたり、まきを使った窯があったり、昔ながらの磁器つくりを髣髴とさせる。
写真:今衛門展示室に飾られていた花瓶
色鍋島と今右衛門
大河内山の鍋島藩窯では、精巧無比な高度な日本の色絵磁器を造ることに情熱を傾けたが、色絵付の工程は、有田赤絵町の赤絵屋に委託した。その結果、赤絵屋の中で最も技術の優れた今泉今右衛門家を指名し御用赤絵屋として代々藩窯の色絵付を下命している。現在高く評価されている江戸時代の藩窯品、色鍋島の絵付や、赤絵焼成の工程のすべては、御用赤絵屋の今右衛門家が行ったことはいうまでもない。

柿右衛門窯が最近復元した、という濁手について:
濁手(にごしで、乳白手)素地の復元
柿右衛門の大きな特色のひとつに"濁手"と呼ばれる素地があります。乳白色の柔らかい温味のあるこの素地は柿右衛門の美しい赤絵に最も調和のとれた素地であると言われ、高く評価されていましたが、製法と原料入手の困難さから江戸後期には一度途絶えていました。宿願である濁手素地が復元したのは昭和二十八年頃で、十二代と十三代柿右衛門の努力によるものです。数多くの人々が待望していただけに濁手磁肌による色絵の再現は大いに注目を浴びました。

源右衛門窯は古くからの呉須の味を墨守している:
源右衛門窯の染付(呉須)
深く沈んだ藍色、それを呉須の色又は染付と言っています。華麗な赤絵とは趣を異にした、柔らかな渋さの落ち着いた味の良さを、焼き物を愛好する人は賞美しています。当源右衛門窯の染付が他窯で見られない特色をもっている事は、呉須の原石を昔使っていた其の儘の石臼で毎日受持ちの人が摺り続けます。手で回す非能率的な、そして単調で見る人をして、気長で非現代的な感じを与えます。然し良い呉須を造る方法としては、これが最善唯一と言って良い方法であるのです。毎日ヾ黙々として摺りつづけること約十日間で絵付師が毛筆に含ませて素焼地に描く事の出来る絵具となります。現在の有田の窯元で、こんな手数を掛けて高価な呉須を使っている窯は他にありません。三百年前の昔私共の祖先が行っていた、呉須の手摺りの珍しい古風な情景は源右衛門窯以外では全く見ることの出来ない、和やかなものでもあります。


波佐見焼も家内工業が多く、今は手間のかからない電気窯を用いて、透かし彫りのような技法を使った菓子皿など、特殊な製品が目を引く。

佐世保で昨夜宿泊した和風旅館の床の間に、七人唐子の大きな飾り皿が置いてあった。唐子は三河内焼きのブランドである。
名古屋市今池のある有名な中華料理店には唐子の茶碗や急須が揃い、セットで使われていた。だが年を経るに従い数が減り、最近久しぶりで昼食に訪れた時は急須しか残っていないのにはさびしい思いをした。

三川内焼の献上唐子(からこ)について
三川内焼を代表する製品として白磁に呉須の染付けによる手書の唐子絵があります。松の木の下で無心に蝶とたわむれる子供達の様子を書いたものでこの図柄こそ三川内焼きの歴史と伝統を如実に物語っております。平戸藩主松浦家の指定図柄とされ、これを模造することは許されない非常に権威の高いものでした。唐子の人数七人が朝廷と将軍家、五人が藩主、三人が一般武家とその使用範囲もそれぞれ規制されておりました。
この図柄は朝鮮から連れ帰った陶工達が遠い故郷に残してきた子供達を偲んで書いたものと云われておりますが元来不老長寿の図柄として多くの人々に珍重されてきたものです。今日に至ってその絶妙な筆致と淡い青藍色の優雅な色調は人々に深い感じを与え永遠に見飽きのしない図柄として三川内焼が数々の優れた製品の中から特に自信と誇りをもって皆様にお奨め出来る製品でございます。


武雄佐世保道路に乗り、嬉野で長崎自動車道に乗り換えて南下する。武雄佐世保道路は中央分離帯がなく狭いが有料道路で途中、何故か料金徴収所を何箇所も通らねばならず、地方のセクショナリズム丸出し商法に不機嫌にならざるを得ない。

茶どころ・嬉野は山間の盆地にある静かな温泉地である。長崎市は条例で温泉マークの旅館など風紀を乱す業種を禁じているため、一昔前までは長崎から憂さ晴らしに通ってくる客で賑わったという。同様に、テキサス州は指定店以外では酒の販売を禁ずる、いわゆるドライステートであるが、一歩ニューメキシコ州に足を踏み入れると、そこには飲酒自由の歓楽街が待っている。長崎と嬉野とはこんな関係にあったのだろう、と想像するが今日嬉野は期待に反して、猥雑さのないご清潔な町である。

案内書によれば、嬉野温泉の発見は古く、神功皇后三韓征伐の折、傷める将兵を入浴させたところ、その効用が顕著なため「あな、うれしやな」といったことからその地名を嬉野と呼ぶようになったといわれている。他に長与や蚊焼など、歴史家が「創造された人物」という神功皇后に関わる挿話が多いのは、肥前の特徴かもしれない。

老舗旅館の和多屋別荘は、屋根つきの廊下で川を渡った対岸に温泉があるという、変った趣向で楽しませてくれる。

この地は戦国時代、大村を追われ武雄城主となった後藤貴明が領していたところで、キリシタンは居なかった。隣国の大村で迫害にあったキリシタンが命からがら逃げては来たが、こちらでも追い立てられ命を落としていったという悲しい物語がある。