史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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日本最初のキリシタン大名・大村純忠の居城・三城(さんじょう)は、大村市中心部を流れる本堂(大村)川を前面に控えた標高三十七・二メートルの丘陵地に築かれた。JR大村駅から程遠くない長方形の敷地内に、三城城跡と記された石柱が立っている。

三城城跡
戦国時代九州キリシタン三大名の一人として有名な大村純忠が、外敵の侵入に備えて永禄七年(1564)築いたものである。本城、北の城、南の城からなり、日本西教会では「スリーキャッスル」と伝えられた。純忠は元亀二年(1571)長崎を開港したがその翌年には、武雄の後藤、諫早の西郷、平戸の松浦の大軍にこの城を急襲包囲されたが小勢でよく奮戦して死守し、城外では富永又助の果敢な働きなどもあり、ついに勝利をおさめたという「三城七騎ごもり」の場所でもある。寛永十四年(1637)幕府の一国一城令により廃城となった。

玖島城(大村城)跡
玖島城は慶長四年(1599)第十九代藩主大村喜前が築いてから、第三十代純熙(幕末)に至るまで、約二百七十年の間大村藩主の居城であった。喜前は、豊臣秀吉の死後、天下が再び乱れることを恐れて、防備を固くするため、三方が海に囲まれた要害の地、玖島をえらんで本城を築き、三城からここに移った。慶長十九年(1614)第二十代純頼によって、大改修が行われたが、この時、北側にあった大手口を、本丸側に移した。城の設計は、喜前公と親しかった築城の名人加藤清正と伝えられ、築城奉行は長崎惣兵衛重方であった。この城は城郭研究家の評価も高く、とくに扇勾配の曲線をえがく石垣が美しい。本丸跡には、歴代藩主をまつる大村神社が、明治十七年に建てられた。その境内のオオムラザクラは、珍しい二段咲きで、国の天然記念物に指定されている。城跡一帯は大村公園となり、桜、つつじ、花しょうぶの名所として広く知られている。
大村市教育委員会


元祖大村角すし「やまと」
文明六年(今から約五百年前)大村領主大村純伊(これすみ)は、島原の有馬、諌早の西郷勢などと萓瀬村の中岳において戦いましたが一敗地にまみれ、唐津の沖合にある加々良ヶ島(加唐島)などにのがれておりました。潜居六年の後文明十二年には渋江公勢らの援軍を得て大村領を回復し宿願を果たしました。この時大村の領民達は喜んでこれをむかえましたが早々のこととて賄具などの用意もなかったので、とりあえず、もろぶた(木製の長方形の箱)に炊きたてのご飯をひろげ、その上に魚の切身、野菜のみじん切りなどをひろげ軽く押さえて領主をはじめ将兵の食前に供しました。将兵達は脇差しでこれを角切りにして食べました
。 以上が「大村すし」の起源でありますが今に大村では家庭に祝いごとなどがあるときは、この「大村すし」をこしらえることが何よりのご馳走として喜ばれております。

伊達政宗の遣欧使節をローマに案内したフランシスコ会のルイス・ソテロはマニラで日本に渡る機会を待っていた。1622年秋、明の商人の船に乗り禁制を犯して長崎に密入国した。中国人に変装していたが、見破られ長崎奉行所に連行されて大村の獄につながれた。
これを知った仙台藩は政宗を通じて幕府に助命を嘆願したが、許されず1624年8月25日、長崎空港にほど近い放虎原(ほうこばる)でソテロを含むキリシタン五人が火刑に処せられた。

1630年、同所で日本人六人が斬首された。

1657年、大村にはキリシタンの絵を隠したところがある、と漏らしたため、六百八人が捕らわれ翌年、うち四百十一人が同所を始め五ヶ所で一斉に斬首された。これを「郡(こおり)くずれ」という。

郡くずれに関する史跡は市内に点在している。
先ず、市内を南北に貫通する国道34号線から東に入った所、民家と畑地が拡がる辺りに墓地があり、その一角に妻子別れの石がある。
ここからさらに北上すると畑地の中に次々と殉教者獄門所跡、処刑者の胴体と首とをそれぞれ分けて埋めたといわれる胴塚跡と首塚跡がある。

妻子別れの石
この場所は、江戸時代の大村藩処刑場(斬罪所)の入口に当たり、明暦三年(1657)の潜伏キリシタン大発覚事件である「郡崩れ」に関わる史跡です。地面に半分埋まっている丸い石がこれに当たります。この事件では、六百三人が検挙され、翌年の万治元年に斬罪四百六人、牢死七十八人、永牢二十人、赦免九十九人となりました。大村で処刑されることになった百三十一人は大村牢から二百人の武士の厳しい警護を受けて、斬罪所に連行されました。この信者たちが、家族と最後の別れを惜しみ、水杯を交わした場所がここであったといわれています。言い伝えによると、この石はとめどなく流れた悲しみの涙でぬれたので、一名「涙石」と呼ばれ、苔が生えないと云われています。斬罪所はここから八百メートルあまり北にあり、昔はそこまで細い道が真っ直ぐに続いていたといわれます。
平成九年三月 大村市教育委員会

殉教者獄門所跡
群崩れによって捕らえられた六百八人のうち万治元年七月二十七日(1658年8月25日)、百三十一人が放虎原で殉教しここに曝されました。昭和四十年五月十二日母の日に聖母像をここにささげて記念とする。

首塚の由来
明暦三年(1657)十月大村領群村に潜伏キリスト教徒の検挙事件が勃発し捕縛六百八人の中四百十一人は斬首の刑を受け殉教を遂げたがその時放虎原で処刑された百三十一人の首は二十日間獄門所前に晒された後ここに埋められたのである。


長崎空港を出て箕島大橋を渡り、通常は左折して長崎自動車道大村ICへと向うのだが、そのまま直進して緩い右カーブの辺りを左に入ると立派な顕彰碑が目に入る。 この辺りが放虎原(ほうこばる)と呼ばれている。と書くと簡単なようだが、最初タクシーで案内してもらった時、容易に顕彰碑の前に立つことができた。ところが今回レンタカーで訪れた時はそうではなく、大村市観光案内マップを手にして何度行きつ戻りつしても遂に探し当てることが出来ず、狐につままれたような気持ちで現場を後にした。

碑の前に長々と書かれた由来を以下に掲げる。これによって大村キリシタンに関するかなりに知識が得られる:
日本二百五福者殉教者顕彰碑由来
「汝の主なる神のみを礼拝し、これにのみ仕えよ」
(旧約聖書出エジプト記二十、三-四)
この神が全人類にお与えになった十戒の第一の命令に背かないために、権力者の脅迫にも屈服することなく、神からすべての人に与えられた「基本的人権」である信仰の自由を最後まで守り通して命を捧げた勇士たちを、教会は「殉教者」と呼びます。
教会は殉教者の中で厳密な調査を行い、神が奇跡をもって証明を与えた者のみに「福者」の称号を贈り、祝日を定めてその生国や特定の地方等に公的崇敬を許可します。日本二百五福者殉教者は三百年の暗黒に迫害の後長崎でキリシタンの子孫が奇跡的に発見された1865年(慶応元年)の二年後に、時のローマ法王ピオ九世により「列福式」が行われ「福者」の栄位が贈られました。 ここ放虎原の顕彰碑に合祀されるニ百五福者殉教者は大村で迫害の嵐が起った1617年(元和三年)から1632年(寛永九年)までの十六年間に、信仰の自由のために命を捧げた著名な殉教者たちで、大村の帯取りで最初殉教したマシャド、ペトロ両神父を始め、ここ放虎原で殉教したソテロ神父ら二十八名と、長崎で百五十一名、有馬九名、小倉五名、島原四名、江戸三名、その他雲仙、田平、壱岐、京都、仙台各一名合計二百五名ですが、これらの中には大村で捕らえられた後、長崎等に送られて処刑された方が多く入っています。
二百五名の国籍別は、日本人百五十三名、外国人五十二名(その内スペイン人二十四、ポルトガル人五、イタリヤ人五、メキシコ人三、オランダ、ベルギー人各一名で豊臣秀吉の朝鮮侵攻の関係で朝鮮半島出身者十三名)が数えられます。
以上二百五名の殉教の歴史的背景は、1563(永禄六)年に大村純忠公が重臣らと共に洗礼を受け、家族、領民六万がこぞってキリシタンに改宗し、七十の教会が建ち並び、当時「日本の小ローマ」と謳われた大村に迫害の嵐が吹き荒れ、1614(慶長十九)年の徳川家康の宣教師追放令にも拘わらず、三十八名の宣教師が密かに長崎、大村方面で宣教活動を続けていることが発覚し潜伏宣教師全員の追跡逮捕処刑に続き、信徒の総検挙となり、長崎、大村を中心に日本全国でキリシタンの無辜の血が流され尊い無数の生命が無残にも奪われるに至ったのである。
日本二百五福者殉教者の「列福式」の百周年の記念のために、1967(昭和四十三)年12月15日に、一本の「斬罪小屋」の立札が立っていた此処放虎原の刑場跡に、大村の信徒らの浄財によって顕彰碑が建立され、毎年日本全国から千数百名の巡礼者を集めて「大村殉教祭」がこの記念碑前にて盛大に挙行され、また年中その遺徳を慕う人々の参詣が絶えないのである。


  大村市の南、鈴田川を渡り辺鄙な丘陵地帯の一角に鈴田牢祉があった。地図を見るとJR岩松駅からが最も近そうだが、よほど詳しい案内図を持参しないと 所在を突き止めるのは難しそうである。
鈴田牢の碑
1617年7月から1622年9月まで、ここにキリシタン牢があった。広さ二十六平方メートル(八坪)の小屋である。神父と修道者、信者ら三十五人がこの牢にいた。肉体に加えられた迫害と苦しみをよそに、聖なる囚人たちは神えの愛に満ち足り、悲惨極みない牢獄も、敬虔な修道院の如くであったという。1622年9月10日、囚人のうち木村神父ら二十五人は長崎の西坂で殉教、十二日にはフランコ神父、スマラガ神父ら八人が大村の放虎原で信仰に殉じた。牢内で帰天したものニ人。囚人のうち三十三人が福者に列せられ、信仰と聖徳の模範と仰がれている。
義のために迫害を忍ぶ人は幸いである。(マテオ福音書五章十節)