史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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フロイスは語る:
元亀・天正年間、有馬晴信の姉妹の子・西郷純尭(すみあき)が伊佐早(諌早)領主になり近隣に勢威をはった。彼は武雄の後藤貴明らと呼応して隣接領主・大村純忠に対し、激しく侵攻を加えた。

純尭は妹を純忠に嫁がせている。1573年のこと、純尭は純忠の兄・有馬義貞に対し、純忠を小浜(おばま:島原半島の東岸に位置し橘湾を臨む温泉地)に呼び、その帰り道に諌早の城に立ち寄らせるよう要請した。純忠は兄の指図に従ったが諌早の城下を通る際、疼痛を覚えたのを理由に急ぎ大村へ帰って行った。

純尭は自らの計画が不成功に終り、悪事の露見は避けられまいと見て武力でことを決しようと、純忠の家臣たちを味方につけ突如、純忠の居城から半里のところに陣営を構えた。純忠の家臣たちは皆彼を置き去りにしたので、城中で彼と共にいるのは七人に過ぎなかった。二時間のうちに城内に二十五人が集まり、守備を固めるより出撃することとし、奇跡的にそれが大成功を収めた。その数日後、城内はすでに五百人もの人数になり、純尭は計画が失敗したことを認め、兵を引いた。

純尭はまた、全力で長崎付近を襲った。長崎は既に木の柵を立て、岬を切り開いて防備を強化していた。壕を整備したり周囲に塀を立てまわし、夜間は不断に見張りを置いた。

長崎の湾口にあたるところに深堀氏が城を構えていた。彼は純尭の兄弟であり、純忠の奥方の兄弟にあたる。深堀は満潮時、六十艘の船に乗り海上から来襲した。また多数の人数で陸路からも来襲し、長崎純景の城塞の麓に至るまであらゆるものを焼き「諸聖人の教会」も焼いた。これを見た砦の中のキリシタンたちは激昂し自分達の数が少ないことも忘れ、あちこちから出撃した。彼らは異常な勇敢さ敏捷さ大胆さをもって荒々しく敵を攻撃し、敵中を切り抜け巨人のように戦った。こうして敵が討たれ彼らに勝利がもたらされた後、砦からは敵が海路、陸路と逃走するのが望見された。

1587年(天正十五)豊臣秀吉の命により諫早は佐賀の竜造寺家晴に与えられ、ここに西郷氏は滅亡した。

フロイスによると、肥前国を与えられた佐々成政は領民の反乱に遭い、その鎮圧のため近隣領主が参集を命ぜられた。諌早の新領主・家晴が大部分の兵を率いて出陣した隙に純尭は有馬義貞の援助を乞い、はせ参じた旧家臣たちと共に諌早の城に攻撃をしかけて城中にいた者の大部分を殺害し、一時的ではあるが城に帰り咲いたという。

高城城跡
この城山は戦国時代伊佐早を支配した西郷尚善が文明年間のころ(西暦1470年代)高城を築いたもので、この高台を本丸とし対岸の丘の正林に二の丸を築き、本明川を挟んで守りをかためていた。天正十五年(1587年)竜造寺家晴が尚善の孫純尭を討ってここに入り、伊佐早の領主となった。以後諫早家(二代直孝の時、竜造寺を諫早に改める)の居城となったが、その後、城郭をとりこわし、藩庁は現諫早高等学校の地に置かれた。
昭和五十年一月諫早市教育委員会


山の麓の広場に、以前は本明川にかけられていた眼鏡橋が移転・復元されている(写真)。
この橋は1839年(天保十)に完成した石橋であったが、1957年(昭和三十二)諫早水害でこの橋が堅固すぎて流木をせき止め、災害を大きくした。
写真は、次のHPより転載させて頂きました:
「石橋を旅する」http://www.d8.dion.ne.jp/~arc_en_p/isbstabi.htm

諫早市内を流れる本明川は五家原岳(一〇五七・八メートル)に水源を発し、福田川、半造川、長田川などの支川を合わせ、諫早湾に注ぐ幹線流路延長二十一・一キロ、流域面積八十七平方キロの河川である。流域は諫早市のみで、その人口は約十万人である。

諌早市民のあいだで今も生々しく語られているのが、昭和三十二年に起った、いわゆる諌早大水害である。
この年七月二十五日から二十六日にかけて諌早地方を襲った豪雨は、わずか一日で五百八十八ミリを越える激しいものであった。このため、本明川をはじめ市内のすべての河川があふれ、上流のあちこちで山津波が起こった。土石流が多くの田畑を岩石で埋めつくし、多数の住家と人々をのみ込んだ。南方に向け流れ下った本明川は東にほぼ直角に向きを変え、諫早平野を貫流して有明海に注ぐ。巨大なエネルギーを持った濁流が屈曲点で反射し反対側の堤防を乗り越え、市内に流入して被害を増幅した。

この水害で激減した魚類のなかにうなぎがある。現在、市内に往年の料理法を伝える鰻料理屋が三店残っている。調理法は独特で、底に熱い湯が入った陶器に鰻の白焼きをいれて蒸し、頃合をみて食膳に供する。客はやけどしないよう注意して食べなければならない。

話題の諌早干拓事業も、その意義が問われ続けているばかりでなく最近、有明海特産の海苔に色あせが生じた原因ともされて受難の渦中にある。この事業で造られた堰堤内の遊水池が本明川からあふれた水を貯める役割を果たす、としているが、河口をいくら細工しても諌早大水害のような災害に対処出来る筈がない。河口より水源に目を向けねばならないのに、市民もこれでよしとしたのだろうか。

天草・羊角湾の美しい自然を破壊する干拓事業(第一集「淀川の水」10.キリシタンの里・高槻、で指摘)は昭和四十四年の着工から二十八年ぶりで廃止と決まった。 食糧増産を目的に湾を閉め切って淡水湖と干拓地を造る計画は、地元の合意が得られず四十八年から中断してきた。 会計検査院は税金の無駄遣いと指摘したほか、自然保護団体も事業の見直しを求めていた。しかし、農水省・県・地元市町は決断を先送りし、責任の所在をはっきりさせぬまま第三者機関の提言により終止符が打たれた。

和歌山県雑賀(さいが)崎沖埋め立て計画も万葉集に詠まれた海岸美の景観か、港湾機能の充実かで論争が続いてきたが、新和歌山県知事が初めて関連予算の執行停止を表明して一転景観破壊が阻止できる気運が芽生えてきた。
この地は戦国時代、異彩を放った鈴木孫市率いる雑賀鉄砲衆発祥の地としても歴史的意義の深いところでもある。
天正六年(1578)、信長の命により七隻の九鬼軍船が伊勢大湊を出航し潮の岬廻り石山沖に向う途中、雑賀沖に姿を現した。おびただしい数の雑賀軍船が迎え撃ったが、二時間ほどの戦闘でほとんどが打ち砕かれてしまった。

滋賀県日野町にゴルフに行った時、この奥深い山里にびわ湖空港建設計画があることを知り驚いた。古代史にゆかりの深いこの地をひき平らげて造る空港を、近隣の工業団地の人以外に誰が利用するというのだろうか、理解に苦しむところである。

諫早から長崎に向かうJR長崎本線は、天竺岳の下をトンネルで駆け抜ける短絡路線と、大村湾南端の沿岸を回り山間を縫い浦上川上流から南下する迂回路線の二系統がある。

短絡路線は、「かもめ」など特急が通り諫早・長崎間の所要時間は約二十分に過ぎないので、殆どの乗客はこの路線を利用する。
迂回路線に乗ると、西諫早・喜々津・東園・大草・本河内・長与・道ノ尾・西浦上・浦上の各駅で停車する約五十分の気の長い旅となる。車内には物珍しがり屋の観光客、あるいは鉄道マニアの顔がちらほら見える。大草では直ぐ近くの大村湾に面した波止場から、長崎空港や大村競艇場行きの高速艇に乗り継ぐことができるので、便利さが受けている。

山間の無人駅・本河内ではいまどき珍しいスイッチバックを体験できる。大草方面から緩下降してきた車両は本河内駅の露天ホームで停車し、客が乗降する。その先は線路がなく、ちょっとした崖になっている。そこで、いったん左後方にバックして引込線に入ったあと、崖を避けて前進して再び緩下降して行く。こうして誠にのんびりした光景が展開されるので、気の短い人は耐えがたい思いをするであろう。
ここを一気に通ろうとすると勾配が大きく、当時の蒸気機関車では推進力が足りなかったのである。

ここで下車して琴ノ尾岳(標高四百五十一メートル)へのハイキングを楽しむのもよい。山頂からは大村湾や、長崎空港を離着陸する航空機を眼下に眺められる。 針尾瀬戸から見て最奥に位置する大村湾南部は海水の入れ替わりが殆どなく、周辺の市街地から流入する汚水等で水面下十数メートル以下は汚泥層になっており、その浄化が県に課せられた重い任務になっている。
このあたりの土地一帯は、伊木力みかんの産地で、特に佐瀬産のものは形が大きく、甘味が強いといわれる。