史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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稲佐・梧真寺の赤門(後方は稲佐山頂)
2003.9.20改定

目 次
A  稲佐・淵神社
B  稲佐のキリシタン
C  稲佐お栄
D  ロシア皇帝・ニコラス二世

長崎バス・新地ターミナルから相川行きに乗り、大波止の夢彩都や長崎駅前のアミュプラザ長崎を横目で見ながら駅前通を北に向う。
宝町で左折しJR長崎本線下をくぐって稲佐橋を渡り、その袂を右折してしばらく行くと右手に"全国制覇・黒獅子旗獲得"と大書された三菱球場がある。三菱重工長崎造船所の野球チームは、ドーム球場で開催される都市対抗野球に毎年出場しており、期待されるのは初優勝のみ 。

A.稲佐・淵神社

球場の左手にロープウエイ淵神社駅が見えて来る。ここで下車し大鳥居をくぐって階段を上る。
略記によると、淵神社の沿革は次の如くである:

淵神社(稲佐弁天社)
当社地は、昔神宮寺の支院の遺跡で当時は、裏山の宝珠山の山頂に極空蔵菩薩と玄武神を祀り、現在の社地の辺りに弁財天を祀り、これを妙見社と云っていた。
天正年間(1573)当時、切支丹宗の旺盛であった頃、教徒のため焼かれてしまい、その後久しく荒廃していたが、寛永十一年(1634)弁財天を勧請して古に復し、この時より妙見尊を祀らず、社地が稲佐郷にあるので、これを稲佐弁天社と呼び淵村の総鎮守として、歳月を経て明治維新に及んだのであります。
明治維新となり、神仏混交の禁令とともに、従来、両部神道であったが、市来島姫命は、佛家において本地を弁財天と称されていたので、明治元年九月十二日に、宗像三女神を御祭神として、淵神社と公称するようになった。
明治七年五月、村社に列せられ、大正十二年には、社殿・社務所の大改修工事がなされた。 昭和十八年には、郷社を飛び越して、県社に社格が昇格し、益々御社頭の御隆昌をみたが、昭和二十年八月九日、当地を襲った原子爆弾の災厄に遭い、流れ作りの立派な社殿、社務所全てが壊滅した。戦後直ちに仮宮が建てられ、年々の祭祀が続けられて来たが、昭和三十五年七月十日、ようやく現社殿が再建され、今日にいたっている。

写真の石燈籠(高さ:一丈五尺<5.15m>)は元禄六年(1693)長崎奉行川口源左衛門が奉納したもので、大正十一年までは当社門外を隔たる一町余の海中にあり、俗に稲佐弁天の石燈籠としてその壮大であることと付近の風致とを合わせて崎陽の一の名所になり、長崎名勝図絵にも載っている。現在は渕神社正殿前に移設されている。

境内社には、次の三社がある:
宝珠稲荷社
商売繁盛の神様として、豊川稲荷大神を、お祭してあります。豊川稲荷様は、歌舞音曲、芸事の神様としてご尊崇をいただいております。
高木稲荷社
昔は、長崎の代官高木家の邸内に祀られ、後三菱長崎造船所々長邸内社として引き継がれましたが昭和五十六年三月七日、この地にご遷座して祀られてあります。
桑姫神社(天女廟)
キリシタン大名で有名な、豊洲の太守大友宗麟の二女と云われ、大友氏が豊臣秀吉に滅亡させられた時、大村公を頼って長崎の地へ逃げのびて来られました。以後、隠れ住まいながらも、近隣の婦女子に行儀作法や、糸を紡ぐことを教えられました。生前は隠れての生活でしたので、お名前も無く阿西(おにし)御前とお呼びいたしました。死後その徳を称え、庭に桑木がありましたので桑姫様と呼ぶようになったと、長崎市誌には記されてあります。

高木家は奉行所の下で長崎外町を支配する代官を元文四年(1739)から維新に至るまで世襲した。その屋敷は旧勝山小学校跡地を中心に広がっていたと考えられ、明治に入ってその敷地内に祀られていた稲荷社共、造船所長宅(現炉粕町)に取り込まれたのであろう。

大友義鎮(宗麟)と妻・奈多夫人との間に大友家第二十二代当主義統(吉統)と二人の姉妹がいた。妹(ドナ・マセンシア)はキリシタン大名・小早川秀包に嫁いだ。文禄二年(1593)義統は豊後国を除封される。秀包(1567~1601)は毛利元就の九男で、久留米十三万石城主となったが、関ヶ原合戦後隠退し下関で病没した。

松竹秀雄「稲佐風土記」(平成8年3月10日改訂版:くさの書店)によれば:
桑姫君というのは豊後の太守、大友宗麟の子義統の娘。大友氏滅亡(1587)の後、重臣志賀大内蔵親成はのがれて長崎の渕村に住んだ。志賀氏は寄る辺なき孤児を尾崎屋敷に迎えた。姫が病死したあと、塚を築き生前、姫が桑を植え蚕を飼って紡ぎ、近隣の女子にそれを教えていたので桑を植えて墓所の標とした。それ以来、誰いうとなく桑姫君と呼ぶようになった。マキゼンシアという名のキリシタンであった桑姫さまも、お稲荷さんの仲間入りしたわけである。

以上のように桑姫は宗麟の二女か、義統の娘かの二説があるようだが、前者では辻褄が合わない。後者のほうが長崎市役所「長崎市史(地誌編神社教会部下)」(昭和十三年四月刊行)所載の史料に基づいて おり信憑性が高い。桑姫社(写真)の祠の下部に「桑姫御前塚」と彫られた塚石(天女廟碑)が保存されている。

後日、フロイス著「日本史」を読んでいて、宗麟の二女マセンシアに関する記事を見出した。桑姫とは関係ないが、当時の事情を知るうえで貴重な史実だと思い、以下に抜書きする:
第二部九十章
関白殿は(豊後)国主フランシスコ(大友宗麟)に対して、当時すでにキリシタンになっていた娘のマセンシアを人質として大阪に置くため、同女を送り寄こすようにと命じた。関白は、その命ずることがいかに暴虐不正であろうとも、一度命じた以上、その命令に反する答えはいっさい許さぬ人物であったので、宗麟としては対策の講じようはなく、マセンシアは、嫡子(義統)の娘で母親とともに数ヶ月前にキリシタンになったばかりの少女である姪とともに、さっそく下関に遣わされた。両人は下関に赴き、同地において関白が到着するまで某城にいることになった。彼女らは当然のことながら深い惜別の情と涙と悲しみのうちに豊後を出立した。教会に宛ててしたためられたマセンシアの書状がよく物語っていた。だが彼女は寛大で気丈な性格であり、そのうえ立派なキリシタンであったので、主なるデウスは彼女についてはよい結果を与え給うたようである。

第二部百一章
(豊後)国主フランシスコ(大友宗麟)の娘マセンシアは人質として城におり、下関において関白を待っていたが、山口とその下関村にいた司祭たちが皆立ち去っていくと聞くと、両親に代って自分を支えていた教会の庇護のほかには彼女にとって何の守護者もなかったから、侍女たちとともに新たな悲嘆にくれ、慟哭し始め、彼女たちを眺めるものたちに深い同情の念を起させずにおかなかった。彼女は教会に宛てて書状を送って次のように述べた。「伴天連様方がいずこに赴かれましょうと、その追放行にお供できぬ身でありますことはこの上もなく不幸に存じます。まして今は大勢に監視されてまるで牢獄にいるような身であって、なおさらのことでございます」と。彼女はペドゥロ・ゴーメス師のもとへ銀棒で百クルサードを届け、次のように言い添えた。「これは豊後から携えて参ったものですが、他の伴天連様や伊留満様方とともに、どうぞ船旅の経費にお使いいただきますよう、私にはなんら必要な金子ではございません。私の余命はごくしばらくのことですから」と。その金子は何度か返却されたが、彼女はその都度頑なに受け取ろうとはしなかった。彼女はそれに先立ってすでに山口において(亡)父の国主(宗麟)のために盛大な追悼式が営まれたことを知っていたので、そのための蝋燭代として二十クルサードも送っていた。だがゴーメス師は、彼女が金銭を必要としていることを知っていたので、彼女には悟られないようにして、その家臣たちを通じ必要な時が来れば彼女のために使うようにと言ってその銀棒を預けて行った。

第二部百九章
昨年、小寺官兵衛殿の説得によってキリシタンになった貴人のうちには籐四郎殿がいた。彼は山口の国主(毛利)輝元の叔父で、彼が領有する九ヵ国の総家老である小早川(隆景)の弟である。ところで昨年、暴君(関白秀吉)はこの小早川から伊予の国を召し上げて、その代わりとして彼に、現在彼が住んでいる筑前の国を与え、さらに筑後の国の一部をそれに加えた。若者である籐四郎はそこに居住しているが、暴君は、デウスが先に召したもうた今は亡き豊後国主(大友宗麟)の娘マセンシアをこの人に娶らせた。
彼女は豊後においてキリシタンになった後は、いつも健気で揺るぎない信仰を示していた。彼女には育て親ともいうべき乳母がおり、豊後から随伴していたが、その教名をカタリナと称した。彼女はマセンシアの家における名誉であり、偉大な徳操、信心、熱意の鑑であった。

第二部百二十五章
我らの主なるデウスが、筑前の国主小早川(景隆)の弟籐四郎殿と結婚している、豊後国主フランシスコ(大友宗麟)の娘マセンシアに男児を授け給うたので、その両親は子供に洗礼を受ける司祭を派遣してもらいたいと副管区長に要請させた。

マセンシアの夫とされる人物は下記のごとくである:
小早川籐四郎秀包
毛利元就の九男で兄小早川隆景の養子となる。
1582(天正10)年,毛利氏と羽柴秀吉との備中高松城下での講和の条件として、隆景の養子元総(秀包)と吉川元春の子経言(後の広家)が人質として、大坂へ送られた。元総は秀吉に寵愛され、小牧長久手の戦いにも従軍し凱旋後,その養女(大友宗麟女)と婚姻せしめ,秀吉の一字を与えて秀包と改名させた。
1587(天正15)年の九州征伐の後は、隆景に与えられた筑後国のうち 三郡が秀包に分与された。同年の肥後国一揆では隆景勢の先鋒として出陣し、これを鎮定。このころ秀包はキリスト教に入信したという。朝鮮出兵の際も隆景を助けるなど活躍した。
その後隆景は秀吉の外甥秀秋を養子に迎え、秀包には別家させた。小早川の別家を立てた秀包は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで西軍に属したが、久留米城は黒田・鍋島勢に攻められ、黒田如水の降伏勧告に従って降伏。戦後、筑後久留米の所領を没収され、甥輝元が秀包の子元鎮に7000石を与えて家臣とし,毛利の姓を復させた。

稲佐在住時、稲佐公園に面した理髪店に前掲の「稲佐風土記」が置いてあり、行くたびに読み返したものである。その改訂版を浜町(はまんまち)の浜市アーケード街にある好文堂書店の二階で見つけ、この章の作成の参考にした。

好文堂は、昭和五十七年七月二十三日夜の長崎大水害により、水位ニメートルに達する浸水を受け大量の書籍を失った。この時の総雨量五百六十五ミリ、死者・行方不明者二百九十九名であった。すり鉢状の地域に大量の雨が集中し、満潮と重なると思わぬ増水を招くことが実証された。当夜、市長と連絡が取れず、今日でいう危機管理の脆さを露呈した。

B.稲佐のキリシタン

この稲佐へ、平戸のキリシタンが大挙して集団移住してきたという話がある。
外山幹夫著「松浦氏と平戸貿易」によると:
慶長四年以後、鎮信は家臣達にも棄教を命じた。これによって松浦氏の重臣中、最も信仰心の強かった篭手田安経(ドン・アントニオ)の子安一(ドン・ジェロニモ)とその弟一部勘解由(ドン・ジョアン)は、もはや領内に留まることはできぬ状況に追い込まれた。篭手田安経はすでに天正九年(1581)に没していた。その父以来、度島・生月両島及び平戸島の獅子・堺目・飯良・春日等の膨大な所領をもち、その知行地内の住民は大半が信徒であった。そしてその子(ドン・トマス)、及び弟勘解由の子ドン・バルタザール等も皆熱心な信徒であった。
秀吉の掟では、いかなる家臣及び従僕も、領主の許可なく他に移り仕えることはできず、また領主は、脱走した家来を、どこでも発見次第殺害が差支えなく、また相手の領主はこれを認める義務があった。さらに、亡命先の宣教師は貧窮で、受け入れる経済的条件を欠いていた。 安一及び勘解由は、家族及び六百人のキリシタンを伴い、夜中ひそかに長崎へ亡命したが長崎入部を断られ、(当時の)長崎の対岸稲佐に住みついたという。その後も二百人の信徒が他に亡命した。領民の減少を憂慮した鎮信は、一時期、迫害を中止すると宣言せざるを得なかった。

また、片岡弥吉著「長崎のキリシタン」によると:
長崎に移った籠手田一族は、しばらくト-ドス・オス・サントス教会(いまの春徳寺)と稲佐とに住んでおり、やがて肥後、筑前を始め、各地に散っていった。

C.稲佐お栄

1889年(明治二十二)ロシアの極東政策が本格化し巨大な東洋艦隊が長崎に入港するようになった。時のロシア皇太子も軍艦に乗って来崎し、稲佐お栄の料亭で歓待された。
「稲佐風土記」によると:
ロシアのニコラス皇太子が長崎に来遊したのは明治二十四年四月二十七日。五月六日鹿児島へ出発するまで十日くらい滞在しているが、その間に榎津町にいた野村幸三郎と又三郎の二人の刺青師を呼んで両腕に龍の入れ墨をしている。
勿論、稲佐にもおしのび、若き日のお栄さんについては語るべきことはたくさんある。露国皇太子の長崎来遊中、その枕席に侍って寵愛をうけたことは天下周知のことである。
明治三十六年六月ロシアの陸相クロパトキンが、明治三十八年一月旅順要塞地区司令官であったステッセルが捕虜として来崎し、お栄さんのホテルに宿泊している。

稲佐お栄は、天草四郎の出生地・大矢野島に生まれ十二才の時、両親を相次いで失う。遠縁を頼って二十才まで茂木の旅館で女中奉公をする。
その後、料亭・ボルガの女将・諸岡まつの世話で稲佐のロシア将校集会所で家政婦として働く。稲佐はロシアマタロス休憩所が開かれて二十年を経た頃で、ロシアは地元の庄屋、志賀家から千坪近い土地を租借し病院や艇庫や小工場を建て、水兵たちの休養の場としていた。お栄はここでロシア語を修得する。
二十一才の時、バルト号の船長付のボーイとしてウラジオストークに渡る。十年後帰国し、流暢なロシア語と社交術で、再びボルガで働く。
その頃、東洋巡遊中のロシア皇太子ニコライが明治天皇の招待で日本を訪れた。長崎に1891年(明治二十四)4月に入港、八日間碇泊し「上野彦馬の店」で写真を撮ったり、お忍びで稲佐に上陸し、丸山の芸者を招いて宴会を開くなどした。お栄はその宴席の幹事として活躍した。 1893年(明治二十六)ロシア軍艦で上海に渡る。帰ると、長崎港を見晴らす稲佐台地に三百坪を借地し、ホテル・ヴェスナー(春)をつくる。客室二十、ロビー、宴会場、遊技場も備えたホテルでは連日連夜、海軍士官達によりカルタ遊びや酒宴が繰り広げられた。
1900年頃、健康を損ね、ヴェスナーの経営はまつに任せ、平戸小屋(現在の大鳥町)の小高い丘の上に土地を買い、ロシア高官だけを顧客とする小ホテルと住居を建てる。 1903年(明治三十六)ロシアの陸軍大臣クロパトキン(日露戦争では満州軍司令官)が軍事視察に来日し、彼女のホテルに二十日間滞在する。
日露戦争が始まると彼女の一家は、露探・ラシャメン・非国民などと罵られ、家に投石され迫害された。
1905年(明治三十八)ロシアと講和が成立。彼女は県当局から捕虜となったステッセル将軍の宿舎をとの申し入れを受け、延べ九千四百八名のロシア軍捕虜を稲佐全域八十軒で収容し、世話をした。戦争の翌年、彼女は茂木に純洋館建てのビーチホテルを開業する。
お栄は幕末に生まれ明治・大正を生き、昭和ニ年五月数え年六十八才で生涯を終えた。
(注)出典:長崎の女達「稲佐お栄」
http://village.infoweb.ne.jp/~mora/inasanoei.htm

慶長元年(1596)頃、ある仏僧がキリスト教徒により長崎の仏教がすたれるのを嘆き、これを再興しようと土地の人と謀って稲佐に梧真寺を建てた。慶長七年(1602)長崎在住の福建省漳州の商人達が奉行の許可を得てこの寺を自分達の菩提寺にした。巻頭の写真のように支那寺らしい感じがする。国際墓地は寺の山側斜面に広がる。

梧真寺の前から新築の稲佐警察署を左手に見ながら坂を下り、右に江の浦川を渡って丸尾町に入る。町なかを山手に向うとすぐ、目指す鳥岩神社の一の鳥居(写真)に出会う。柱に昭和十三年三月建之との銘があり、その脇に新しい石碑が立ち次のように刻まれている:
お栄さんの道
稲佐お栄と親しまれた道永エイは万延元年(1860)天草四郎時貞で有名な天草大矢野島で出生、十二歳の頃来崎し、シベリヤ・上海へもロシアの軍艦で渡り、長崎に落着いた後はホテル業をもって国際親善につくした。坂本龍馬ら勤皇の志士を助けた大浦お慶、日本で始めての西洋流女医シーボルトおいねと共に長崎の三大女傑といわれる。昭和二年(1927)数え年68歳で波乱の生涯を閉じた。

一の鳥居から両側に人家の建て込んだ狭くて屈曲する階段を150mばかり登ると、二の鳥居がありその向うの高台に森に囲まれた鳥岩神社が見える。鳥居の右側の敷地にお栄本宅、そのまた右側に彼女が経営するホテルがあったと言われるが、今はない。

日本とロシアとの関係が悪化の一途を辿りつつあった明治三十六年六月、ロシアの陸将クロパトキンがお栄のホテルに二十日余り滞在した。クロパトキンは予想以上に進む日本の近代化と軍備拡張に驚き、ロシア宮廷で対日非戦論を展開したが容れられなかった。開戦とともに満州軍総司令官に任ぜられたが、奉天会戦に敗れ第一軍司令官に降格された。戦後は革命に巻き込まれるなどし、最後は小学校教師として生涯を終えた。
旅順要塞地区司令官であったステッセル将軍も乃木大将との水師営会見後明治三十八年一月、家族一行十六名で稲佐に上陸し、お栄のホテルに三日間滞在した後上海に去った。

クロパトキンもステッセルもこの二つの鳥居の間の階段を往来した。「稲佐風土記」にステッセル将軍一行が稲佐海岸に上陸した時や、階段を下る折に撮影した写真が掲載されている。同書の筆者は、将軍一行の上陸地点は江の浦川船溜りの右岸側に今も残る切込み階段付近だったのではないか、と推定している。

鳥岩神社の境内から東を望見すると、長崎港に面する大波止ターミナルビルやその左右に林立するビル群が手に取るように見える(写真)。
お栄の家に着いたステッセル将軍一行も庭先から港内の風景を眺め異口同音に、よい景色だ、よい景色だ、と叫んだという。

ウラジオストークを母港とするロシア極東艦隊は1853年(嘉永六)から日露戦争迄の半世紀間、長崎で長期越冬した。稲佐にはここで亡くなった兵士の墓が現存しているし、梧真寺の横手にロシア兵の射撃練習場、北側一帯にロシア兵専用の女郎屋があった。士官以上は日本女性を一時妻とし、一軒家に住んだ。

渡辺淳一著「長崎ロシア遊女館」によると:
この日、万延元年(1860)九月九日、はじめて稲佐遊興所は開かれ、以後、ここは露西亜マタロス休息所と呼ばれ、多くのロシア人と日本遊女の思い出の場所となった。そしてここの遊女はマタロス女郎と呼ばれ、丸山に籍はあっても稲佐休息所専属という意味で、源氏名のうえにすべて、稲の一字を冠していた。
だがそれ以上に忘れられないことは、ここが日本における検黴、すなわち陰門改めの濫觴の地であるということである。これをきっかけに検黴制度は徐々に各遊郭に広がってはいったが、これが全国に及ぶまでには、なお二十数年の年月がかかったのである。

D.ロシア皇帝・ニコラス二世

1891年(明治二十四)5月、津田巡査は滋賀県大津市内を通行中のロシアのニコライ皇太子を街角に立って警護すべき任務にありながら、不意に皇太子に斬りつけ傷を負わせた。このニコライ皇太子襲撃事件は日本国内では大きな政治問題となった。司法は国内法にもとづきこれを傷害事件として処理しようとしたが、政治家は当時の大国ロシアの報復を恐れ、極刑を課すよう主張した。最後は法の正義が通るのだが、その渦中にあった青年皇太子が快活に振舞ったのが日本国民の心の救いになった。犯人・津田三蔵の最後を看取ったのが、自分を捨て人助けに専念した熱血漢・原胤昭である。

原胤昭は1853年(嘉永六)江戸町奉行与力の子として生まれた。英学校(後の明治学院大学)でキリスト教を学び、受洗した。明治九年、日本独立長老協会を創立、また銀座に十字屋書店(後の十字屋楽器)を開き聖書の普及販売に乗り出す一方、京橋三十間堀に私立原学校(後の女子学院)を開校するなど活躍したが、讒謗律(ざんぼうりつ)に問われ三ヶ月監獄生活を送る。出獄後、自宅を免囚の保護所に提供し、これが東京出獄人保護所、更には東京保護会に発展した。十七年、兵庫仮留監のキリスト教教悔師となり初めて臨房教悔を行う。

1888年(明治二十一)、囚人四百人を釧路集治監(現在の網走刑務所)に送ったとき、彼等がアトサヌプリ鉱山(注参照)で非人道的且つ苛酷な労働を強いられているのを見て、願って家族共々釧路に転属し、大井上典獄と共に囚人の待遇改善に尽力した。ここで大津事件を起こし普通謀殺未遂罪で無期徒刑に処せられた津田三蔵に出会い、その死を看取る。津田はニコライ皇太子を襲撃した際、警護の者から受けた傷が悪化して死に至った。
(注)アトサヌプリ鉱山は、屈斜路カルデラの中央火口丘の一つ・アトサヌプリ山(標高五百十メートル)にあり、明治十六年から年間千六百トンの硫黄を産出したが、現在は閉山。

ロシア南下の意図は1905年(明治三十八)、日本との奉天会戦及び日本海海戦により挫かれ、ロマノフ王朝に翳りが見え始める。一方、勝った日本は軍部の増長を許し、太平洋戦争へ突っ走る発端となる。皇太子は帰国後、ニコライ二世となりロシア革命の最中、1918年7月17日家族とともに処刑されロマノフ王朝の幕が下りた。それ以降、ソヴイエトロシア共産主義者の血塗られた独裁政治が1993年迄、七十年間続く。

雑誌「インプレッション」1995年10月号によると:
ロシア皇帝一家の遺骨
1991年にエカテリンブルク郊外で発見された皇帝一家とされる九人の遺骨について、政府は今年初め、DNA鑑定の結果などから最終的に本物と断定、歴代皇帝が眠るペテルブルクへの埋葬を決めた。エリツィン政権にとってこの埋葬は、過去の血塗られた共産体制と決別し、新生ロシアの到来を告げる歴史的行事となるはずだった。
ところが、ロシアの伝統の象徴である正教会は、国民の間になお遺骨の信ぴょう性への疑問が根強いことを理由に、皇帝としての埋葬式を拒否。総主教は「氏名不詳者の埋葬式」の執行を地元司祭にゆだね、自身は同じ日にモスクワ近郊の正教会総本山で、別個に皇帝一家の追悼式を行うことを決めた。
ニコライ二世処刑の八十周年にあたる今年七月十七日、ニコライ二世一家の遺骨が、歴代皇帝の眠るサンクトペテルブルグに埋葬された。長い間死体が発見されていなかったが、皇帝一家が処刑されたといわれるウラル地方のエカテリンブルグ郊外で1979年に遺骨を発見していたことを、1991年に政府が正式に公表。遺伝子鑑定などの結果、政府委員会は今年一月に遺骨は本物と言う結論を出した。この日「ロシア国民の和解と悔恨の象徴」(エリツイン大統領)として八十年ぶりに葬儀が執り行われた。
しかし、この遺骨の真偽をめぐり、ロシアは大もめにもめた。遺伝子鑑定などの調査に科学者から批判が相次ぎ、ロシア正教会の総主教も「処刑の実行者が遺体をガソリンや硫酸で処分したと証言しているのに、その痕跡がないのはおかしい」と、葬儀に出席しないことを表明。
また、発見されたのは三女マリアと皇太子アレクセイ以外の遺体とされており、この二人の遺体がどうなっているかについては、依然として不明のままだ。
毎日新聞2001年8月21日付によると:
ニコライ二世の骨は偽物
98年7月にロシア・サンクトペテルブルグの大聖堂に埋葬されたロマノフ王朝最後の皇帝、ニコライ二世の骨は「偽物だった」との分析結果を、北里大大学院の長井辰夫教授(法医学)と岡崎登志男助教授らが明らかにした。二十八日からドイツで開かれる国際法遺伝学会で発表される。英国とロシアの研究者は九十三年に遺骨は本物と鑑定したが、今回の分析で虐殺の謎をめぐる議論が再び起きそうだ。
ニコライ二世はロシア革命翌年の1918年7月16日に家族や使用人とともに処刑された。一家の骨は79年に発見されたが、その後も盗掘や埋め戻しが繰返された。ロシア政府は、この中にニコライ二世の骨があるかどうかの調査を英露の研究者に依頼。ニコライ二世と見られる大たい骨のミトコンドリアDNAの塩基配列を血縁者二人と比べるなどし、「98.5パーセントの確率で本物」と発表した。
一方、長井教授等は、交流のあったロシア科学警察研究所のポポフ教授から、ニコライ二世の汗が染み付いた衣料、ニコライ二世の弟の毛髪、下あごの骨、つめの一部を提供してもらい、先にカナダで氷点下八十度で保存されていたニコライ二世の甥のテイホン氏の血液とも比較した。 その結果、ミトコンドリアDNAの特定領域の塩基配列は三人ともすべて一致し、同じ家系と分かったが、英露の研究者が公表したニコライ二世の骨の塩基配列とは五カ所で違っていた。ミトコンドリアDNAの塩基配列が一箇所異なる突然変異は三百年に一つ程度しか起きないため、別人物と断定した。

江の浦から海岸沿いに南下すると、やがて三菱電機を経て、三菱重工長崎造船所が見えてくる。明治十七年(1884)三菱社は工部省長崎造船局(旧称:官営長崎製鉄所)を貸与受けして、世界屈指の造船所に発展させてきた。
この造船所は、飽の浦町・岩瀬道町・東及び西立神町にわたって広がり、ほぼ中央に超弩級戦艦・武蔵(総トン数六万九千百トン)を建造したガントリークレーンが造船所の象徴の如く残されている。超弩級とは、初の蒸気タービン推進の英国戦艦・ドレッドノート(一万七千五百トン)を超えるクラスを意味し、<弩>は頭文字<ド>に由来する。