史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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西彼杵半島北端の横瀬浦に、ザビエルに従い来日したトルレス神父がいた。五島福江島領主で宇久氏十八代の淡路守純定が病に倒れたので、医師を寄越してもらいたいとの依頼があった。神父は自分の医師デイオゴを遣わして治療に当たらせた。

やがて回復した純定から、デウスのことを聴きたいので談義者を派遣してもらいたいとの申し出があった。トルレスは京から九州に来ていた修道士ルイス・デ・アルメイダとロレンソを派遣した。

永禄九年(1566)一月、島原半島南端の良港・口之津から乗船したアルメイダは長崎湾口の浜・福田を経由して積雪と冬の荒波にもまれ、八日かけて五島の福江島に上陸した。

純定をはじめ約四百人の前で説教をする際、アルメイダは、私は日本語が達者ではないので、私ではなくロレンソが説教をするが、彼が説くことは私が彼の口を借りて話すことだ、と一言断ってロレンソに説教を始めるよう促した。

その時の模様を、アルメイダはフロイス「日本史」で次のように語っている:
その話しぶりの放胆、懇切、能弁なこと…は、全く驚嘆に値することであった。
彼が話した事柄は我々がここでいつも話していることであったがそれを聞いて、私は驚嘆でいっぱいであった。なぜならば、彼が人々に事柄を理解させたその話し方の魅力と内容の明快さとは並々ならぬものがあったからです。
又、彼が聴聞者をしっかり捉えたその説き方も驚嘆すべきで、その結果、人々は彼が話したことに同意せずにはいられなかった。

もと琵琶法師のロレンソは、説教師として抜群の才能を発揮していた。彼は既に奈良で、久秀に仕えていた結城山城守、清原枝賢および高山飛騨守の三名の知識人に談義して、キリスト教義が正しいことを認めさせ、飛騨守には洗礼を授けるに至っている。
ロレンソの説教ぶりを聞いたアルメイダが驚嘆したのも至極当然のことであった。

フロイスは「日本史」に特に一章(第三部十一章:日本で最初にイエズス会員に採用された日本人ロレンソ修道士の死去について)を設けてロレンソの死を悼んでいる:
彼は六十四歳を超え、すでに年老いて、疲労し衰弱していたので、このたびの秀吉の迫害によって司祭達とともに下(しも:九州肥前)の地方に来た。彼は、修道院の全員および他のキリシタン一同に深い追慕の念を残して1592年2月3日に死去した。

その修道院のあったところは今の春徳寺(写真:長崎市夫婦川町)付近と考えられる。

フロイス自身も日本史を書き終えた後、1597年1月西坂の丘で執行された二十六聖人の殉教を目の当りにして、その年にロレンソと同じ長崎の修道院で死去する。

秀吉は文禄の役を指揮するため名護屋城に滞在中、長崎の教会と修道院を破壊せよとの命令を出す。その日、すなわち天正二十年(1592)7月22日に彼の母が都で息をひきとった。秀吉は急ぎ舟で都に向かったが、関門海峡で彼の乗った船が暗礁に乗り上げ別の舟に救助されるという一幕があった。 彼の命令により「被昇天の聖母」という崇高な名称の教会をはじめ多くの長崎の教会が破壊される。そして慶長十八年(1613)、江戸幕府が全国に敷いた禁教令により教会はことごとく地上から抹殺されてしまう。

さてロレンソが説教をした翌日、純定は頭と全身に痛みを伴った激しい熱病に襲われた。日頃強健でめったに病気をしなかった殿が突然病魔に襲われたのは、宣教師達のせいだと疑われて、見舞さえ許されなかった。しかし、病状が長引いたので放っておけず、アルメイダが医者として診察を許され治療を試みた結果、快方に向かい殿は元気になった。こうして再び、殿や大勢の人々に説教をはじめ多くのキリシタンが生まれた。

アルメイダは同年五月に五島を去り口之津に戻った。ロレンソは五島に残り、モンチ神父と共に布教を続け二年後、豊後府中に帰った。

第二十代純玄から、キリシタン迫害が始まり、教会は壊され信者は殉教し、多くの信者が島から逃れ、長崎に移住して五島町を作った。現在の五島に住む信者達の先祖は、大村藩外海から移住してきた人達である。

五島出身で二十六聖人の一人・聖ヨハネ五島は長崎と天草(志岐)のセミナリヨで学び、大阪に出てモレホン神父と同宿になった。秀吉の逮捕命令が下り役人が修道院に駆けつけた時、彼は神父の危険を感じて素早く神父を匿い、代わりに自分が捕まったのである。

平成元年夏、長崎大波止(おーはと)8時10分発のフエリーに乗り、五島福江に一泊旅行に出た。こんにちは高速艇が就航しているが、当時は福江港までニ時間二十五分の長旅であった。

長崎湾を進む間も、左右見飽きない光景が次々と展開する。
右手三菱造船ビルが建つ丘の南斜面の木立の間に占勝閣が見える。明治三十七年七月に落成した洋風木造二階建てで、当時の窓ガラスがそのまま使われており、これを透して見ると景色が歪んで見える。今日ではそんな窓ガラスが残る建物は殆ど姿を消してしまった。
ここに明治初期の洋画家・山本芳翠の「十二支の絵」など国宝級の絵画を所蔵する。
写真:占勝閣http://www.co.jp/nsmw/menu/indexs.htm

以前は港口にある香焼島の東側を長崎半島に沿って南に下る航路と、島の北側を西にとり五島灘に出る二つの航路があった。昭和四十年代に三菱重工長崎造船所が全長約一キロの百万トンドック(長さ:九百九十メートル、幅:百メートル、深さ:十四・五~九・五五メートル)を香焼島に造ったおり、香焼島と長崎半島が地続きになり以後、港口は西側のみとなった。

その右手に碧い海を背にした白い教会・神ノ島教会がある。
この教会は、今からおよそ三百五十年前、諫早、佐賀、矢上などから移住してきて、かくれキリシタンとして密かに信仰してきたが、明治前夜、フランスのプチジャン神父による信徒発見を機に信仰表明を行い、教会としての姿をあらわすに至った。
その後、いく度かの増改築を重ねて、現在の白亜の教会に発展した。その岬には昭和二十四年、ザビエル渡来四百年を記念して、岬の聖母像が建立された。
現在の像は高さ四・七メートルで合成樹脂製である。岬に聳え立つ聖母の白像は青い海に見事なコントラストを映して行き交う旅人に異国情緒を味あわせてくれる。

聖母像を過ぎ港外に出てすぐ右手にやや奥まった浜が福田浦で一時、ポルトガル船の寄港地となった。五島灘からの風波をさえぎるものもなく、港としては不適切であることは一目でわかる。

左舷側に目を転ずると、伊王島が接近してくる。
リゾート開発が進められ、ホテルやスポーツ施設などがあるが、本来はキリスト教会、灯台、俊寛僧都墓などバラエテイに富んだ史跡の島である。

伊王島で際立つ沖ノ島天主堂は大浦天主堂に似た鉄筋コンクリート造りのゴシック式聖堂。明治時代に建てられた仮聖堂や本聖堂が落雷と台風により改修不能となったため、昭和六年(1931)現在の白亜の天主堂が建立された。

伊王島灯台は、島の西北端に、慶応二年(1866)米、英、仏、蘭、露の五ケ国と江戸条約を結んだ時に全国八ケ所に設置された中の一つ。日本で始めての鉄製で我が国最初の公式灯台であったが、長崎原爆で下部鉄製が傷んだため改築され、天井のドーム型のみが往時のものである。

島の中部高台に俊寛僧都の墓がある。時の武将兼宰相・平清盛の専制に抗し、平家を倒そうと後白川法王の院宣もあり、俊寛らは密議をこらしたが密告により発覚し、捕らえられ惨殺され、あるいは配流になった。密議の後、白拍子を呼んで遊興したのも、相手にさとられる原因になった。硫黄島に流された三人のうち二人は赦免されたが、俊寛だけは赦されず、この地に果てたと伝えられる。

長崎の唐八景入口に準提観音が祀られており、その由来記は次のように語る:
この観音堂には一基の古い墓石が安置されているが、その下に眠る人については次のような伝説がある。
今よりおよそ八百年前、当地にて婦女の屍を発見したが、その人は巡礼姿で蓑をまとい、懐中に聖徳太子の真筆である観音経の一帖を所持していたので、立ち会った者共は高貴の婦女に相違ないと思い、一同はかって丁重にここに埋葬し、墓石を立てたという。 このことを知った近隣の人々が参詣し願い事をしたところ、難病が治り、災害をまぬがれる者が続出し、その霊験をこうむる者は幾千人をこえたといわれ、ついに長崎人士をはじめ、遠近の多くのものが信仰するようになった。そのため人々は準提観世音菩薩と称して崇め奉るようになった。 という。
また一説によるとこの婦人は、僧俊寛の妻女であると言われている。俊寛が京都の鹿ヶ谷で平家を討つ計画を立てたとの理由で平清盛によって長崎郊外の伊王島に流されたが最後まで許されず、ついにこの島で一生を終わったと伝えられ、墓石もあることから夫の跡を追ってこの地まで来たが病にかかり死没したというものである。

一方、鹿児島県の硫黄島(鬼界ヶ島)では、伝俊寛墓から数百年前の死体が発掘され、俊寛の可能性大という。

平安時代の末期、京の僧俊寛は平家の横暴を憎み、これを倒すため京都の鹿ヶ谷で平康頼、丹波少将成経らと会合したところを平清盛に捕らわれました。治承元年(1177)俊寛は平清盛によって鬼界島(現在の三島村硫黄島)に流されたとき、ここから船出しました。明治三十一年頃ここが埋め立てられるまでは堀があって俊寛堀と呼ばれていました。

揺れる五島福江行きの船内では、畳敷きの大部屋に横になり所在無く五島観光案内書を読んでいて、今日の昼食は「うにめし」にしようと決心した。
福江港に到着すると、タクシーを拾い市内の観光客向けの料亭へ案内してもらった。
そこは昼食時なのに客の姿がなく、注文して始めて料理作りに動き出す始末だった。

そのうち、空の様子がおかしくなり、食事が終る頃には今まで経験したことのない叩きつけるような猛烈な豪雨になった。やむを得ず近くではあったがタクシーを呼んでもらい、中央町の旅館に転がり込んだ。 雨はその夜一晩中、休みなく降り続いた。

翌朝、晴れ間を見てタクシーに乗り観光に出かけた。全山緑の芝生で覆われた鬼岳(おんだけ:標高三百十七メートル)の頂上から雄大と言われるパノラマを楽しもうとしたが、立ち昇る霧に妨げられた。

山麓には五島牛が放牧されていた。潮水に濡れた牧草を食べて育つので肉が柔らかいと言われ、仔牛のうちに本州に出荷され松阪牛などに出世して行く。

平坦な富江半島のほぼ中央に小高い只狩山がある。その頂上の公園の一隅に昭和四十年ごろ、訓練中の航空自衛隊所属の戦闘機・F104Jが南の五島灘に墜落したのを悼んで、パイロットの遺族が建立された慰霊碑がある(富江町商工会から助言を頂く)。

また、只狩山に新田次郎著「珊瑚」の記念碑が建つ。福江島の南西約七十キロにある男女群島の近海は明治時代、有名なサンゴの漁場であり、富江はサンゴ採りの船で活況を呈した。
また、この五島南海域は船舶の耐航性能の試験海面でもある。

明星院は真言宗の古殺で五島の真言宗本山である。明治に至るまで全五島に末寺二十ヶ寺を擁し、寺としては五島最古の歴史がある。この寺の草創は、大同元年(806)平安時代前期である。 同年、弘法大師(空海)が中国から留学の目的を達して帰朝の徒次お立ち寄りになり、当山に本尊虚空像菩薩を安置してあると聞き伝えられ参篭し祈願された、という。 永禄九年(1566)、福江に伝来したキリスト教との共存を断固としてはねつけた古刹の面影を見る思いがした。

五島の代表的な土産菓子に「ちゃんここ」がある。怒って災いをなす霊を鎮めるために始まった無形文化財の「ちゃんここ踊り」にちなんだもので、漢字で「治安孝行」と書く。餡を薄く求肥で巻き、きな粉でまぶしたもの。
求肥(きゅうひ)は中国より京都へ渡来し発達した。昔は黒・赤砂糖を用い、餅粉も精米しなかったので、色が黒っぽく牛の肌に似ており、牛皮・牛肥と呼ばれていたが後日、白砂糖が使われるようになってからは、下品ということで求肥に変えたと言う。外郎(ういろう)もまた、中国より伝わった菓子である。

そうこうしているうちにまたもや空が怪しくなり、再び雨が降り出したので、早々に正午福江発のフエリーに乗り島を逃げ出すことに決めた。丸一日の短い福江滞在は心残りで、遣唐使船が天候待ちしたと言う福江島西端の玉之浦まで足をのばしたかった。

帰路は奈良尾に寄港したので、四時間半もかかってしまった。波の静かな長崎湾に入り、暮れなずむ長崎の街を望み見ながら大波止の桟橋に着いたときは、久しぶりで故郷に帰ったような心の安らぎを覚えた。