史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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2005年春、大波止8時50分発長崎汽船の双胴船「コバルトクイーン」に乗り込んで高島に向う。他にも五島町から「竹島丸」、香焼から「美津丸」が就航しているという。晴天に恵まれて 長崎湾両岸の七分咲の桜を眺めながら、建設中の女神大橋の下を通る。両側から伸びた橋の先端が間隔10メートルまで接近している。中央径間長480mは日本で6番目、世界で17番目の長い斜 張橋は2006年春開通予定で、通行料は普通車で100円。

長崎港へ出入りする船は、以前は長崎半島と香焼島の間を航行してきたが、埋立で地続きになった今日、香焼と神ノ島の間を通る。高島へはこの航路を通って先ず港外の伊王島に寄り、同島と香焼間の大中瀬戸を南下する。伊王島を背に、高島を正面に見るあたりに来ると、南支那海の海域に入ったからか波が荒くなり船の上下動も大きくなる。

高島町は長崎港から南西約16kmにある東西1.2km、南北1.8kmの小島で香焼、伊王島、野母崎、三和、外海の各町と共に、平成17年1月長崎市と合併した。石炭産出の最盛期は2万人を超す人口を数えたこともあったが、閉山後は激減して現在は約900人になっている。

石炭発見の歴史は古く、1695年深堀家に仕えていた五平太が高島で石炭を発見し、製陶用や製塩用燃料として使用されたが、1868年イギリス商人トーマス・グラバーの協力で 佐賀藩が高島炭鉱の経営を始める。官営の時代を経て1880年三菱が運営を引き取り、以後105年間石炭を産出しつづけた。 高島炭鉱から閉め出された深堀家の家臣たちは明治維新後、伊王島や端島の炭鉱を自主開発しこの地域の石炭産業の発展に貢献した。

ブライアン・バークガフニ著「花と霜(グラバー家の人々)」(長崎文献社)は次のように伝えている:
石炭は元禄8年(1695)、長崎湾口の高島で偶然発見されたと伝えられている。五平太という男が火を燃やしているとき、木の下の黒い岩までがアカアカと燃え出すのを見て腰を抜かした。高島を領地としていた佐賀藩は採炭して、有田と伊万里での陶器製造用燃料にも利用した。

高島港に降り立つと、島内を循環する小型バスが待っていた。山頂の展望台まで行きたいと言うと運転手さんは頷いてくれたので早速乗り込む。海岸沿いを左回りに走り出す。15年ほど前に訪れた時は、左手の山際に8階建で無住の鉄筋コンクリート製アパートが林立していたが今は最も手前の一棟を残して取り壊されている。運転手さんに聞くと試験的に一棟だけ火薬で爆破したが、その他は重機を使って壊して行ったという。

車が走り始めてすぐ右手の広場に真新しい銅像が立ち、台座側面に次の銘板があった:

この銅像は、近代日本の礎となった「炭砿」の町高島町の誇るべき歴史と、高島炭坑を開発し日本の発展の原動力になった三菱の創業者岩崎彌太郎の功績を、末永く後世に伝えるために製作したものである。
平成16年12月吉日
高嶋町長 豊田定光

最初に向ったのは島の北端の北渓井坑とグラバーの別荘があったところで、ここでバスはUターンして登り道に入る。

前掲の「花と霜」に次のように記されている:
島民の間では北渓井坑(ほっけいせいこう)と呼ばれたこの最初の鉱坑からは、大量の良質炭が掘り出されたが、明治9年(1876)浸水のため操業停止に。その後は、岩の多い島の住民にとって非常に貴重な真水の供給源である井戸として、思わぬ目的に使用された。

その後、高島の水源は次のようにして確保された:
昭和32年、日本の最先端技術を駆使した海底水道が完成した。西彼三和町と高島町を結ぶ延長約5キロの高島海底水道の世界初の画期的な工事といわれ、町民は世紀の送水に喜びに沸いた。
(長崎新聞平成8年5月13日付)

ジグザグの登り道から車窓越に見下すと、以前あった古い鉄筋アパートはすべて姿を消していた。バスは神社の下でUターンしてもと来た道を戻るので、そこで降ろしてもらい神社に参詣する。珍しいことにこのお稲荷さんに三菱マークが付いている。神社脇に立派な慰霊碑が立っており、次の説明があった:
蛎瀬砿罹災者招魂碑
この慰霊碑は、明治39年3月28日に発生した坑内ガス爆発で、殉職された307名の霊の鎮魂のために建立されたものです。
碑文は、教授文学博士重野安東京大学(しげのやすつぐ)撰、若林常猛(わかばやしつねたけ)書、碑面は大本山永平寺第64世大休悟由(だいきゅうごゆう)禅師書で、当時の第1級の国史学者や書家、仏教界の重鎮が名を連ねている。
平成16年11月1日 長崎市教育委員会

昭和50年11月1日にも蛎瀬坑口から約6,000m入ったところでガス爆発が起った。災害当時、坑内に505名が入坑しており、うち2名が死亡、22名が負傷した。爆発の原因は発破が火源になったものと考えられ た。

多少は関心を引く話だが、高島と幕末の砲術家高島秋帆の祖先とは係わりはなさそうである。その祖先は秀吉が江州(滋賀県)の小谷城を攻略した時、一家離散し翌年の天正2年(1574)長崎に来た。高島八郎兵衛氏春は町造りされた旧大村町に居を構え、その子茂治が高島家初代当主となる。天正15年(1587)長崎が天領になった時、高木了可、後藤宗印、町田宗賀と共に頭人となり、地役人制度ができてから町年寄として活躍した。秋帆はその11代目にあたる。高島家の出身地は現在の滋賀県高島市と思われる。

階段を上ること5分で権現山公園展望所に達する。360度眺望の利くこの場から北は伊王島、東は長崎半島、南は端島(軍艦島)、西は東支那海を見はるかすことができる。あとで土地の人に、軍艦島へ行くにはどうすればよいか聞いたところ、漁船を雇うしかないとのことであった。 昔、高島と長崎半島との間の水路をポルトガル船が通って長崎に入港していた。寛永15年(1638)島原・天草の乱が終息すると、幕府はキリスト教を厳禁しポルトガル人の来航を禁止した。長崎半島の先端野母崎の権現山に海上監視所を置き、不審船を発見すると長崎後背地にある烽火山を経由して諫早にのろしをリレーして急を告げた。

山の桜も七部咲きである。あいにく今にも雨が落ちてきそうな曇天に変ったので空の青、海の青を愛でることができず残念であった。真下に見える港に向け急な階段を下る。左右に見える段々になった敷地跡は高島炭鉱の幹部用の独立社宅があったところだろう。下まで降りてくると、1棟だけ残されたアパートの横手に出た。中をのぞいてみると幽霊屋敷のように見えるが、一部人が住んでいるようだ。10時55分発の高速艇の出発時刻までに時間があったので、港の東側にあった二子坑跡を見に行ったがそれらしきものは見当たらなかった。付近の数棟のコンクリート造りのアパートは当時からのもので、入居者も多いと見受けられた。

高島には僅か1時間半の滞在であったが、次に伊王島に寄るつもりで帰りの船に乗る。その頃から雨が船窓に当たるようになり、そのまま大波止に戻ることにした。

途中、三菱長崎造船所香焼工場の突堤に船体中央に海面からの高さ118.4mのデリック(掘削やぐら)を乗せた地球深部探査船「ちきゅう」が艤装中である。全長210m、満載排水量59,500トン。水深2,500m(最終目標4,500m)の深海域で、海底下7,000mを掘り抜く能力を備えた最新の科学掘削船だという。

再び建設中の女神大橋の下を通る。この橋はメインマスト高さ43.5mの世界最大級の帆船・日本丸が通過できるように造られているのであろう。左手の三菱長崎造船所立神工場には新造または定期修理中の自衛艦4隻のほか、めぼしい船はなく寂しさを感じた。大波止到着時刻は11時29分で、僅か二時間四十分の短い旅であった。