史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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奈良県榛原町沢の沢城は、宇陀三人衆の一人 ・沢氏の城で、筒井氏に属していた。高山飛騨守は松永久秀の部下で、沢氏を追いその城に入った。

戦国の梟雄・松永久秀は、信長の言う
世の人のなしがたきことを三つなしたるもの
として知られている。すなわち、将軍足利義輝の弑逆、主家三好氏への反逆、そして奈良大仏殿の焼討ちの三つである。法華宗の信者であり、キリシタンを迫害した。

尾張のキリシタンのことを語るのに、なぜ大和の名も知れぬ山城から話を始めるのだろうか。それは、ここに落とされたキリスト教の種子が、一人の男によって尾張国に持ち帰られ、花を咲かせたからである。 永禄七年(1564)6月、日本人の修道士ロレンソが飛騨守の招きを受け、堺から沢城に赴き、六日ほど滞在して説教をした。そして、飛騨守の子で十二歳の右近が洗礼を受け、ジェスト(正義)という霊名を貰って、キリシタンになった。 ロレンソが訪れた折、城に接する小さな砦に竹製のロザリオがある礼拝堂があった。飛騨守が大和国でキリシタンになった時、彼は沢城内にきれいな、よく整備された教会を設けた。その世話をコンスタンチノという、もう五十歳近くになる高徳な、頭を剃った男に託した。当時キリシタンになった兵士たちは、彼を自分たちの父とも師とも敬っていた。それは、彼が皆を励まして祈りをさせ、信仰の事ごとを彼等に教えたからであった。

ロレンソは肥前国(平戸市中野白石)出身の日本人(実名不詳)で、片目は全く見えず、もう一方はほんのわずかしか見えない半盲の琵琶法師であった。以下、フロイス「日本史」に従い、たぐい稀な説教師 ・ロレンソを軸にして近畿地方での布教の歴史を辿って行くことにしよう。
天文二十年(1551)、ロレンソは山口でフランシスコ・ザビエルの説教を聴いて、熱心なキリシタンになった。
天文二十三年(1554)、山口でコスメ・デ・トルレス神父より、比叡山に上って天台座主から京での布教の允許を得るよう命じられた。トルレスはザビエル離日後の布教の中心人物であった。
比叡山では、座主に面会するには身分の高い人の紹介状が必要と教えられ、山口に引き返して初のキリスト教会・大道寺の創建を許してくれた大内義長の紹介状を得た。
大内氏三十一代・義隆は天文二十年(1551)家臣・陶晴賢の反乱により自害し、代わって大友宗麟の弟晴英が招かれ、大内義長と称した。弘治三年(1557)、義長は毛利元就によって滅ぼされる。

大道寺は大内氏が亡んだ後、山口ではキリシタン弾圧のことなどもあり、その遺跡はどこか分からなくなっていた。明治二十二年、フランス人ビリヨン神父が山口のカトリック教会に着任し、熱心に大道寺跡を探求中、山口の旧家安部家のふすまの下張りになっていた古地図を発見して、現在の位置がはっきりした。そこでその付近に記念碑を建設することとなり、大正十五年十月、高さ十メートルに及ぶ花崗岩の大十字架にザビエルの胸像をはめこんだものが作られた。
1952年、ザビエルが山口に来てから四百年が過ぎた記念として、山口の亀山に美麗なステンドグラスの窓のある瀟洒な聖堂が建てられた。この聖堂の正面はスペインのナバラ州にあるザビエル城の正面をかたどった、ロマネスク様式の典型的なカトリック教会であった。
1991年9月5日木造モルタル塗りのこの聖堂は、原因不明の失火で全焼した。1998年、新しいザビエル記念聖堂は、神を象徴する光・天幕・水をイメージして設計された、現代的な三角錐の建物として新築された。

永禄二年(1559)ロレンソはガスパル・ヴィレラ神父に従って、再び比叡山に上った。延暦寺側の態度が煮えきらず、ヴィレラは允許なしに京に定住して教えを弘める決心を固めた。
ヴィレラは弘治二年(1558)から平戸の生月(いきつき)島で布教し、多数の信者を得た。秀吉のバテレン追放令後、平戸領主 ・松浦鎮信の弾圧が始まる。島の領主でキリシタンの籠手田氏は、家臣を連れて長崎の稲佐へ移住し、残った人達は、隠れキリシタンになって今日に至っている。
ヴィレラ達は住居を転々とした後、下京四条坊門の姥柳という土地(注参照)に定住することになった。また、室町幕府第十三代将軍義輝の認許状も入手した。だが、キリスト教に反対する法華宗の僧達は、当時将軍に代わって天下を支配していた松永久秀に頼んで、ヴィレラ達を都から追出してくれるようくどいた。
(注)第一集「淀川の水」1京の条里名

ヴィレラは、教化の仕事は差当たりは京でははかどらないと見た。そこで、堺の町に行って布教することとした。これには、ザビエル以来キリシタンと縁が深い堺の商人 ・日比屋了珪(慶)が協力した。
永禄六年(1563)5月、二回目の布教で堺に滞在していたヴィレラのもとへ、久秀に仕えていた結城山城守から突然、「デウスの話を聞きたいので、来てもらいたい」との連絡があった。早速、ロレンソが大和へ赴き、山城守と清原枝賢の二人に談義し、議論を闘わせたあと、遂に二人はキリシタンになった。山城守は久秀から、キリスト教が有害である証拠を探り出すよう指示されロレンソを呼んだのだが、逆に二人の高名な学者が改宗し洗礼を受ける結果となった。これは五畿内で、そのことを聞いたすべての人々、殊に僧侶達には、比叡の山の僧侶たちにもその他の人達にも、極度の驚異を呼び起した出来事であった。

そのことを飛騨守が聞き、進んで奈良でロレンソからデウスの事を聴聞し洗礼を受け、ダリオという霊名をもらった。この時、傍にいたコンスタンチノも受洗した。飛騨守は沢城へ帰って、一家をはじめ家臣たちにもキリスト教の偉大さを伝え、更に詳しく聴聞するため、先に述べたようにロレンソを沢城へ招いたのである。