史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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ロレンソが沢城を訪れた翌年の永禄八年(1565)五月、フロイスを京に送り届けたアルメイダは堺に向かう途中、日本人キリシタンの案内で、松永久秀の居城 ・多聞山城、興福寺、春日大社、東大寺などを見物し、詳細な見聞記を遺している。その二年半後、東大寺大仏殿は久秀の焼討ちにあう。

フロイス「日本史」は次のように述べている:
アルメイダ修道士が九州へ帰った数年後、それは約二十年ほど前のことであったが、松永弾正殿はアルメイダが前に述べたあの立派な城に包囲された。その多聞山城を包囲した軍の大部分は、この大仏殿とこの寺院のあらゆる所へ宿営した。その中に我々の仲間に良く知られた一人の勇敢な兵も居て、世界の御作者にのみふさわしい礼拝と崇敬とに熱心のあまり誰から説き勧められたわけでもなく、夜自分が見張番にあたっていた間にひそかにそれに火をつけた。それで、そこにあったものは残らず丸焼けになり、ずっと遠くに離れて第一の場所にあった一つの門と前に述べた鐘以外は何も残らなかった。丹波国と河内国とではその夜、火の光と焔とが中間に横たわる山々の上空に立ち上るのが見えた。

驚くべきことに、大仏殿に火をつけた犯人は久秀ではなく、寄せ手の三好三人衆に属するキリシタン兵士だというのだ。キリシタン達にしてみれば、大仏という偶像を破壊するのは、無上の快挙であったろう。ただし、これは史実とは異なる。

アルメイダは、「十市(といち)の城」(大和磯城郡耳成村十市)に続いて、沢城を訪れている。将軍が弑逆され、沢城が敵に奪われる直前の平和なひと時であった。

私達があがってみると、中空にあるように思われました。何しろ、この城は大層高い山の上にはありますが、周囲半レグワ(注参照)のこの城を取巻く高い杉、松、その他鮮やかな緑滴るばかりの樹木美しく、たいそう快適な地位にあるからです。そこから十五から二十レグワの遠くまで、家々、村々、それから周りには田畑ばかりが見えるので、その眺望は美しく開けています。 私たちは城内にある教会の並びに泊めてもらいました。教会は長さ九プラサ、幅三プラサ半です。その家は小さいことは小さいのですが、中にはたくさんの部屋があって、皆大層きれいで、よく整っています。礼拝堂、香部屋、神父や修道士を泊める部屋、その人達の供のための別の間などほとんど皆杉木造りで、大層良く出来ています。それは、その点ではダリヨ(高山飛騨守)は大層綿密だからです。そこには廊下があって、そこからは目の届く限り、私がかって見た最も溌剌とした、最も人口稠密な土地が見渡されます。
(注)1レグワ=約五.六キロ、1ブラサ=約二・二メートル

近鉄榛原駅からバスに乗り、芳野川沿いに南へ走り、高塚で下車して芳野川右岸を上流に向け歩く。左手に「高山右近顕彰碑」(前章写真)のある辺りが宇陀郡伊那佐村大字沢で、榛原駅から約六キロある。ここから見る東の山並みの一つが、沢山(写真:標高四百七十メートル)である。この山頂に築かれた沢城への道順は、土地の人に聞かないと分からない。距離は一キロほどだが、だらだらとした登りが多いのと、不案内のせいか、かなりの道のりのように思えた。山道を右に迂回して、山の後ろから頂上に接近して行く。
城址はうっそうとした木々に覆われて薄暗く、もちろん何も残っていないが、よく見ると空掘や城壁らしきものが見られる。礼拝堂のあったのはこの辺りではないか、と想像させるくらい、遺構がよく保存されている。豊臣秀吉の天下統一と共に、沢城は天正十三年(1585)までに廃城となっており、それ以降は自然のままであったことが幸いしたのであろう。 アルメイダがいう、美しく開けた眺望ができそうな場所へ行くには、雑草が生い茂った道のない林の中を歩き、山の前面に出なければならず、危険だったので断念した。
明らかに言えることは、彼の距離の観念は相当、誇張されている。沢城から奈良迄でさえ直距離で二十五キロ(約四・五レグワ)しかなく、その間に高い山々が連なっているのに、二十レグワの遠くまで見えるという記述は信じ難い。彼が直前に訪問した、大和三山の一つの耳成山(みみなしやま:標高百四十メートル)にあったと思われる「十市の城」と混同したのだろう。 彼は五月十五日、堺で乗船し、豊後に向け旅立つ。将軍義輝が二条館で久秀により弑逆されたのは、その直後の十九日のことであった。

アルメイダについては、第一集「淀川の水」11.キリシタンの里高槻で紹介したように、フロイスやロレンソなどと共に日本布教の実質的推進役の一人であった。リスボンで医学を学び、平戸に上陸している。
弘治元年(1555)私財を投じて豊後府内(大分市)に育児院を開き、同三年我が国初の総合病院を設立して、西洋医学を通じて貧民層へ布教した。
大分市の県庁前の遊歩公園に立つ西洋医学発祥記念像に、次のように記されている:

日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルが国主・大友宗麟(そうりん)の招きによってこの地で布教したのは1551年のことであった。それから僅か六年後の1557年にはこの地に、早くも日本最初の洋式病院が建ち、ポルトガルの青年医師アルメイダによって、内科はもとより日本最初の洋式外科手術が盛んに行われた。病院には外来のほか入院の設備もあって、1562年(永禄五)には入院患者が百人を越えていた。更に病院に来ることのできない患者のために、巡回診療も行われていた。患者はこの新しい南蛮医術にあこがれ、はるばる京都や関東からさえ訪ねてきた、と当時の記録は報じている。またこの病院に医学校が併設され、若き日本人が西洋医学を学んだ。

城址を訪ねたあと、山中を道標に従って東に向け下る。人里に出た辺りの高みに、碑が見えるので立ち寄ってみた。
天保二年(1831)九月、ここ沢山の東山麓で、村人によって文祢麻呂(ふみのねまろ)の墓誌と蔵骨器が原形のままで発掘された。
文氏は帰化人(韓人)阿知使主(注参照)の子孫で、大和朝廷の書記職にあった氏族である。祢麻呂は大海人皇子の舎人(とねり)で、壬申の乱に大功をたて、以後重臣として宮廷内に高い地位を占め活躍した。その墳墓がこの地に造られたことは詳らかでないが、大海人皇子が吉野に隠棲中、舎人たちは皇子の命をうけ吉野や宇陀の豪族を味方にひき入れるべく活躍したので、文氏もこの辺の豪族と接触があり忘れられない第二の故郷としたのではないかと思われる。 (注)阿知使主(あちのおみ):古代の有力な渡来人。東漢直(やまとのあやのあたえ)の祖とされる。日本書紀には応神天皇二十年、中国から一七県の党類を率いて渡来し、のち天皇の命で呉(くれ)におもむき、織女、縫女を連れ帰ったという。大和高市郡檜前村に住したといわれ、また、続日本紀の延暦四年条にみえる坂上苅田麻呂の上表文に、後漢霊帝の曾孫とも記されている。

松本清張著「壬申の乱」(講談社文庫)では次のように述べている:
弘文元年(672)、大海人皇子と妃の鸕野(うの)皇女は、男二十数人と女十人あまりを引き連れて、あわただしく吉野を出発した。男たちは大海人の第二子・草壁皇子と幼い第四子・忍壁皇子と、舎人達であった。一行は道を北にとり、その日のうちに菟田(うだ)の吾城(あき:宇陀郡大宇陀町)に着き、地元民の好意で食事にありついた。ついで甘羅(かむら)村(大宇陀町の東方)をすぎるころに、猟師二十数人に会ったのでこれを従者にした。また、土地の美濃王をよびよせて、これも従わせた。
菟田の郡家(榛原町付近、郡家は郡司の役所)の近くで、湯沐(注参照)の米を運ぶ伊勢の荷駄五十頭をつれる連中と遇った。荷駄の者はみな米を捨てて、供の歩行者達にその馬を提供した。
(注)湯沐(とうもく):律令制で皇后に支給された食封(じきふ)の称。

地元民の好意で食事にありつくなど、祢麻呂の事前の根回しが行き届いていた様子がうかがえる。