史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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永禄八年(1565)五月、久秀が将軍義輝を殺害したために生じた騒乱に巻き込まれて、飛騨守は敵に沢城を奪われてしまった。そして、津ノ国の高山という彼の故郷の村に帰った。このとき、コンスタンチノも彼の出生地であり、妻や親戚がいる尾張国へ帰ることにした。

 永禄九年(1566)、コンスタンチノは、自分の故郷の花正(はなまさ:愛知県美和町)村に居を定めた。そこには、たった一人のキリシタンもいなかった。彼は自分の家に小さな祭壇を設けて、そこでデウスに祈ることを常とした。そして、彼が持っていた像の前で、彼の隣人や、親戚や、友人たちにデウスのことを説いた。
彼はしばしば、七日間の旅をして、京へ行った。そこでは、永禄十一年(1568)に入京した信長から布教の許可を得て、ルイス・フロイス神父とロレンソ修道士のコンビが活躍していた。
ここで、のちに「日本史」を著わしたフロイスが同書に記した経過を追ってみよう。
 永禄六年(1563)七月、フロイスは肥前国横瀬浦(注参照)に上陸した。八月中旬、大村の領主・大村純忠の身辺で異変が起き、これが横瀬浦に波及して大混乱に陥った。病気で床に臥していたフロイスと老齢のトルレスの二人は、豊後の商人たちに捕らえられ、ポルトガル商人が商品を引き渡すまで抑留された。
(注)横瀬浦:西彼杵半島北端にある漁港。純忠の招きでポルトガル船が一時、寄港して繁栄した。
永禄七年(1564)十一月、一時、平戸の度島(たくしま)にいたフロイスは、迎えにきたアルメイダとともにそこを発ち、口之津・豊後などを経て堺に上陸し、永禄八年(1565)二月、京に着いた。ここで再び二ケ月間、病の床につく。
 同年五月、久秀は将軍義輝を殺害し、その全権を手中にした。七月、内裏より宣教師を京から追放せよとの允許(注参照)を出させ、その旨を町中に布告した。フロイスは京を出て、途中ヴイレラと連れ立って堺へ避難し、京の教会は法華宗の僧侶達の手に落ちる。こうして京での伝道は、全く暗礁に乗り上げる。
(注)允許(いんきょ):聞き入れてゆるす。允可ともいう。(允そのものに「ゆるす」という意味がある) 永禄九年(1566)四月、ヴイレラはトルレスの命で、豊後のキリシタンの世話をするため九州に帰った。また、ロレンソも一時九州に下り、アルメイダに従って五島へ伝道行脚した。ただ、フロイスのみが堺で京畿にいる信者達の面倒を見るだけであった。
 永禄十一年(1568)九月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛するに及んで、京の教会は再び明るさを取り戻した。
この頃、飛騨守は信長の臣・和田惟政に属していた。飛騨守は、再び宣教活動を復活させるため、五島から帰っていたロレンソを伴って、惟政のところへ行った。惟政はロレンソの話に非常に感銘を受け、キリシタンを庇護する決心をした。そのお陰で、フロイスとロレンソは二条城の工事現場にいた信長に引見してもらう機会を得た。そして、彼らが京に居住する自由を与えるという、永禄十二年四月付の朱印状をもらった。これにより、先に内裏が出した宣教師追放令は事実上、無効になった。
永禄十二年(1569)五月、フロイスはロレンソと共に京にいた信長を訪ねた。そこに日乗という、異常なまでにキリシタンを憎んでいる法華宗の僧がいた。信長は日乗に神父たちと談義してみよ、と命じた。ロレンソと数々のやり取りをした挙句、激高した日乗が、「人に霊魂があるというのなら、おまえを殺してその霊魂を見てやる」と、部屋の隅にあった信長の刀を取りあげたので、信長とその場にいた家臣たちに取り押さえられた。日乗がこれだけの狼藉を働いたにもかかわらず、信長は依然として彼を皇居修復の職にそのまま止めおいた。
 元亀二年(1571)、キリシタンの良き庇護者であった惟政は摂津国領主荒木村重との戦いで、不慮の戦死をする。その後を継ぎ、高槻城主になった子の惟長は高山父子を謀殺しようとしたが、逆に殺される。
 同年九月、上京したオルガンチーノ・ソルド神父はフロイスと共に信長に謁見した。十二月、第一次巡視中の布教長・カプラルが、岐阜で信長に謁見する。
 天正元年(1573)八月、高山右近は村重より高槻城を与えられた。右近はフロイス、ロレンソ他を城に迎えて、キリスト教義を学び、その後一貫して迷うことなくキリシタンとしての模範的な歩みを始めた。
 天正二年(1574)三月、第二次巡視中のカプラルが入京し、再び信長に謁見する。
 天正五年(1577)七月、京に南蛮寺が建ち、「昇天の聖母」と名付けられた。三階建ての会堂の上部からは市内ばかりでなく、諸寺院も一望できた。
 同年十二月、フロイスが兵庫から九州に旅立ち、オルガンチーノが後継となる。
 天正七年(1579)、信長が自分に従わなかった村重を攻めたとき、右近は主君・村重の側に立ったが、オルガンチーノに説得されて信長の軍門に下った。 (注)「淀川の水」11.キリシタンの里高槻、参照
 天正八年(1580)、安土城の完成にともない、信長は安土セミナリオ(注参照)の建設のため、安土城下の中で最良の土地を与えた。
 天正九年(1581)三月、巡察師・ヴァリニヤーノは、京を離れ九州にいたフロイスが随行して、豊後を出発し堺に入った。ヴァリニヤーノを迎えて高槻で捧げられた復活祭には、美濃 ・尾張から、また安土セミナリオの学生も集い、全部で二万人の人がそれを祝った。その後、ヴァリニヤーノは信長を本能寺に訪ね、諸国の巡察に向かった。
 天正十年(1582)六月、本能寺の変が起り、信長が光秀に討たれる。 (注)セミナリオ:神学校で、小中学校にあたる。他に、司祭の養成機関であるコレジオ(学校)、医者などを育てるノビシャド(訓練所)があった。
コンスタンチノは、京の教会で、異教徒達が彼に質問し、それに対して彼が十分に答えを与える自信がなかったいろいろな疑問を書いて持ってきてフロイスに尋ねた。また、花正にいる信者のために洗礼を授ける方法を教えてくれるよう頼んだ。

彼が洗礼を授ける許可を得て帰郷すると、花正や遠くの村からきた人達に洗礼を授け始めた。彼が次の降誕祭に都に来たときは、十人乃至十二人の教え子を連れてきた。彼が都へ行くたびに、宗教的行事の光景を一目見せてその信仰を強めるために、信仰に入ってまだ日の浅い人たちを一緒に連れて来た。
カプラルが信長を訪問するために美濃国に行った時、コンスタンチノは自分の新しい布教地を見に来てもらいたいと思い、直ちに美濃国に出かけていった。しかし、カプラルはもう都に戻る途中であったのでその時は実現できなかった。その後、オルガンチーノが彼を訪れに出かけ、それから神父達は、時間があれば、そこを訪れ、コンスタンチノがもう二十年以上も屈せず続けている仕事を助け続けた。
右近がヴァリニヤーノを迎えて盛大な復活祭の儀式をとり行った際、七十歳前後であったコンスタンチノも参加した。

名鉄新名古屋駅より十五分、津島線木田駅で下車、北へ真直ぐ歩くこと約七百五十メートルで花正交差点に達する。美和町花正はその右前方に広がる集落である。交差点を左に取り、少し行くと、美和町役場がある。ここでパンフレットを貰って読むと、「伝コンスタンチノ供養塔」が紹介されている。
村内の真宗大谷派法光寺の寺伝に、隠れキリシタンの言い伝えが残っているほか、昭和四十三年に、「切死丹宗門紀」が本堂屋根裏から発見されている。また、平成二年の調査で、本堂北側から様々な形態の供養塔の残石や、コンスタンチノとおぼしき異形の供養塔が見つかっている。本堂は建物が倒壊する恐れがあるため、現在は立入りが禁止されている。 また、同地域の今一つの寺である大谷派光照寺は現在本堂を建て直し中であるが、その東側の畑地がコンスタンチノ宅(写真)であったとされる。
そこから目と鼻の先に、隣村の二ッ寺村があり、ここで戦国武将福島正則が生まれ育った。彼が後年、広島で大いにキリスト教を保護したのは、幼年郷里で感化を受けたからかもしれない。

コンスタンチノが死んでからは教勢振るわず、花正の教会は清洲に移った。当時岐阜の教会と共に、東西往来の宣教師がしばしば立ち寄った。一の宮も岐阜清洲間交通の衝にあたっているので、キリスト教はこの頃からここでも盛んになっていたと推定される。

慶長二年(1597)、長崎・西坂の丘で殉教した二十六聖人の中に、尾張出身の信者が五人含まれていたということも、尾張地方にキリスト教が盛んであった証拠でもあろう。