史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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慶長十八年(1614)、将軍秀忠は金地院崇伝(注参照)に「排吉利支丹文」(伴天連追放文)を書かせ、全国的な禁教に乗り出した。日本各地に居たイエズス会をはじめフランシスコ会、アウグスチノ会、ドミニコ会の神父や修道士や、高山右近ら有力なキリシタンが長崎に送られ、同年十月六・七日合わせて四百人余りが、数艘の船に分乗してマニラとマカオに送られた。

(注)金地院崇伝(1569~1633):安土桃山・江戸初期の臨済宗の僧。字は以心、勅号は円照本光国師。豊臣秀吉・徳川家康の政治・外交に携わり、江戸幕府の諸法度の制定に尽力した。港区芝公園にある臨済宗南禅寺派の寺である金地院を開創。

国内ではキリシタンの殉教が相次ぎ、京・長崎・江戸の「元和の大殉教」を経て、寛永十四年(1637)に起こった「島原・天草の乱」(写真:本渡市天草四郎像)をもって頂点に達する。「元和の大殉教」の概要は、第一集「淀川の水」4.殺りくの修羅場・六条河原、で記述している。

寛永十六年(1639)鎖国令が、島原・天草一揆によりキリシタンの脅威を改めて認識し発布された。内容はイエズス会と密接に結びついているポルトガル貿易を一切断念し、キリシタン宣教師の日本潜入防止を図った。さらに幕府は、外からの侵入警戒を徹底するため、西国の有力大名を中心に長崎の警戒態勢を構築し、沿岸防備体制を充実させた。
この結果、ポルトガル人は追放され、寛永十三年以降ポルトガル人が居住を指定されていた長崎出島(注参照)には、寛永十八年(1641)にオランダ人が平戸から移住を命じられ、商館を置くこととなる。布教を貿易の条件としないオランダの柔軟な戦略が効を奏した。
(注)出島:寛永十一年江戸幕府がポルトガル人を居住させるため、長崎の有力商人二十五人に作らせた扇形の島である。北方の出島橋で市街に連絡し、奉行所係員 ・特定商人・遊女のみ出入を許可された。明治三六年付近が埋め立てられて陸続きとなる。西暦二千年は日蘭交流四百周年を迎える。長崎市では、この記念すべき年までに、目に見える形の復元をしようと、平成八年度より本格的に復元整備事業に着手した。

島原の乱を鎮定させた後、寛永十五年(1638)三月松平信綱は長崎に立ち寄ってあちこちを見分した。そして、長崎半島の先端・野母崎(のもざき)に遠見番所を置き、近国に急を告げるため長崎の後背地にある烽火山(四百二十六メートル)に烽火台を設けるなど、国防態勢の構築に着手する。
正保四年(1747)ポルトガル船ニ隻が入港してきたとき、長崎奉行の命により烽火台に点火、狼煙(のろし)をあげたところ、九州各地の大名が兵を率いて長崎に集まった。
また、文化五年(1808)オランダの国旗を掲げて入港してきた英国軍艦フエートン号が、オランダ人を人質に水やマキを要求した事件のときも、狼煙をあげた。諫早、大村藩から直ちに派兵したが、既に英艦退去の後であった。
現在、烽火山の山頂には、文化年間の頃の窯所が復元されている。

江戸幕府は、こうして厳重に鎖国したうえでなお、草の根を分けてキリシタンを徹底的に掃討した。
まず、武士や神官を問わず信仰の有無にかかわらず必ず寺院の檀那となり、キリシタンでないという証明を得なければならないこととした。檀那寺の変更も原則として不可能となって、国民の信仰の自由は完全に失われてしまった。こうして寺院は国民に対し、行政的権力をもって臨むとともに、経済的にも基礎を固める結果となった。これは僧侶をして安逸を貪らしめ、仏教を形式化せしめた大きな原因であった。
幕末になると寺の統制が緩み、内実の伴わない形式だけとなる。
浦上四番くずれの渦中に巻き込まれた浦上村人の檀那寺・天王山法輪院・聖徳寺(長崎市銭屋町一丁目13)の実態は次の如くであった:
慶応三年六月昔時から当寺の門徒たりし浦上村住民の大部分が切支丹宗門の信者なる事が発覚したので、時の長崎奉行はこれを捕えて獄に投じた。
皇政維新となりても、同宗徒に対する政府の態度は些かも変わらなかったので、参謀井上聞多を始めとし、在崎官吏及び神官僧侶達は彼等を改宗せしめんとして勧説大に力めて転宗を強いたけれ共、彼等は一部少数の者を除くの外、頑として応じなかったで、遂に翌年に至りて名古屋以西中国、九州諸藩にそれぞれ預けられたのである。 当寺はその門徒中に斯く多数の基督教徒が現れた為驚愕狼狽措く所を知らず、住持門徒等は死力を尽くして彼等の反省を求めたけれども何らの効果もなかった。
その際当寺は一方官府よりは平素教導の不行届きを以って叱責せられ、一万六百余戸の檀家を失ひ、為に一時は衰滅に瀕したが、幸いにして当路者の諒解を得て、事無きを得た(長崎市史地誌編)

その他のキリシタン禁制は、次の如くである。
訴人褒賞制は、元和四年(1618)、長崎で始まりキリシタン禁制強化とともに各地で次第に採用されるようになり、島原の乱を契機に全国的に適用され幕末に及ぶ。
寛永十ニ年(1635)、京都の所司代板倉重宗名で布達した内容は:
キリシタン褒美のこと
銀子百枚南蛮バテレン、五十枚イルマン・日本バテレン、三十枚キリシタン。 訴人が罷り出においては銀子とバテレンの家屋敷を下さる。

踏絵は、キリシタンの信仰対象となっていた十字架・キリスト像・聖母像を足で踏ませる。最初はころび者の棄教の証明手段として案出され、のち信仰の有無を試す手段として九州各地で実施された。長崎で寛永四年(1627)頃始まり、明治五年(1872)明治政府の新戸籍法施行まで続く。

五人組制は、五戸を単位とした地縁的隣保組織のことで、組内の連帯責任や相互扶助を目的として結成された。その主な機能は貢租(おおやけに納める金品のこと。年貢ともいう)の収取と犯罪全体の抑止にあり、キリシタン禁制はこれに含まれる。

イエズス会 クリスト・ヴァン・フェレイラ神父は棄教を迫られ、遂に拷問に屈した代表例である。フェレイラ神父は長崎に潜伏中捕えられ、寛永十年(1633)汚物の中に逆さ吊にされること約五時間、ついに転んでしまった。悪名高い穴吊の刑に五時間も耐えたことさえ、超人的な精神力の持ち主であったといえよう。
その後、日本名を沢野忠庵と名乗って三十人扶持を給され、幕府の目明しとして長崎五島町に住み、約二十年間幕府のキリシタン禁教政策に協力した。著書に「顕偽録」などがあり、慶安三年(1650)五十四歳で死去した。

レオン・パジェス著「日本切支丹宗門史」に次の記事がある:
七月中、江戸で、イエズス会の日本人ペトロ・カスイ神父が、物凄い拷問を受けた後、穴に吊るされて死んだ。白州で、彼は、不幸なフェレイラに引会されたのであった。そして彼に向かって堂々と非難した。面喰ったフェレイラは、その場を外した。カスイ神父は、五十一歳で、イエズス会にあること十九年であった。

尾張藩では、初めのうちはキリシタン弾圧には消極的で、比較的寛容な政策をとっていた。禁教が本格化するのは、寛永八年(1631)からである。
この年、藩では信者五十七人を検挙し、四人を後述するように一の宮の一本松刑場で火あぶりの刑に処し、残り五十三人を牢舎に入れた。
正保元年(1644)、一宮村孫九郎、丸渕村長右衛門、漆工嘉兵衛を江戸送りにし、到着後切支丹奉行に引き渡した。

寛永十七年(1640)、初代宗門改役(切支丹奉行)になった大目付・井上筑後守政重は、小日向(おびなた)にある自分の下屋敷内に牢を作り、キリシタンを収容して取り調べた。
正保三年(1646)幕府は、そこを「切支丹山屋敷」とし、政重の下屋敷を他に移した。その時代になると幕府の切支丹政策は方針を変え、処刑するよりも転ばせることを目的とするようになった。
宝永五年(1708)八月、屋久島の恋汨村の浜に密入国したジョアン・バプチスタ・シドッチ神父は捕えられ、切支丹山屋敷へ送られた。正徳四年(1714)彼は詰牢に入れられたまま凍死してしまった。一説には、断食していたという。
享保十年(1725)、切支丹山屋敷は倉だけ残して焼失し、寛政四年(1792)廃止された。 「江戸小日向切支丹山屋敷の図」が、高木一雄著「江戸切支丹の殉教」に掲載されている。 この切支丹山屋敷は、文京区小日向一丁目14にあった。あたりは起伏の多い地形で、付近にキリシタン坂などの地名が残っている。
小石川無量院は、切支丹山屋敷に幽閉されて生涯を終えた何人かのイエズス会士や伝道士たちの菩提寺であった。文京区白山二丁目あたりにあったが、明治維新後廃仏毀釈により衰退して無住となり、明治三十年代に廃寺となった。

天正十八年(1590)家康関東入国の頃から、日本橋隣の常盤橋外に牢があったが、慶長十一年(1606)小伝馬町にできた牢屋敷に移った。
小伝馬町牢は江戸奉行支配下にあり、全国最大の牢であった。捕縛したキリシタン宗徒をこの牢に収容するようになったのは、キリシタン禁止令が出た慶長十七年(1612)以降のことで、元和・寛永年間は大いに賑わい別棟では拷問や穴吊しの刑、そして試し切りなどが行われていた。元和元年(1615)から約一年半にわたり入牢し、救い出されたフランシスコ会の神父は、牢内の陰惨極まる様子を克明に物語っている。
安政六年(1859)吉田松陰は小伝馬町牢に下り斬首され、遺体は北千住の小塚原回向院に送られた。その後世田谷に改葬され、松陰神社が建立されるまでの物語は、また別の機会に譲りたい。
明治八年(1875)に小伝馬町牢は廃止された。営団日比谷線・小伝馬町駅の直ぐ近くに公園として残っている。

家康入国の頃、罪人は日本橋本町四丁目辺りで処刑 ・梟首されていた。慶長五年(1600)からは浅草で行われるようになり、元和年間の初期頃まで今の台東区浅草橋三丁目辺りのところにあった。
元和九年(1623)第三代将軍家光から、キリシタンの処刑を東海道品川宿の入口で行った。その処刑場は田町駅付近で、国道一号線と十五号線とが斜めに交差する「札の辻」辺りである。その年、男子キリシタン五十一人がここで火刑に処せられた。元和の大殉教である。江戸へ参勤交代してくる諸大名への見せしめであった。
なお、一般庶民の処刑は、第一京浜と旧東海道とが合流する辺りの「鈴ヶ森」(品川区南大井一丁目5)で行われた。
以上、切支丹山屋敷、小伝馬町牢屋敷、浅草刑罰場に関する記述は、高木一雄著「江戸キリシタンの殉教」を参考にした。

元和年間、イエズス会士デイオゴ・カルバリオ神父ほかキリシタンが仙台市広瀬川の大橋の下で殉教した。大橋のたもとの碑に、次のように書いてある:
ここは元和十年(1624)二月十八日と二月二十二日(太陽暦)の下の水牢で厳寒のさなかに水責めにあって殉教した遺跡である。
この記念像は深沢守三神父の作三体の記念像中央はカルバリオ神父、その左右はここでの殉教者たちの象徴としての武士と農民像である。
1971年9月12日


広瀬川の水辺に立ち大橋の下の流れを眺めても
広瀬川流れる岸辺、想い出はかえらず
である。

長崎県壱岐島郷ノ浦にも「殉教の涙」と題した立札が、こう語っている:
アウグスチノ大田は小値賀(注参照)の出身でコンスタンツオ神父、ガスパル籠手田と共に牢に入れられた。彼はラテン語も学んだ、すぐれた修道士としてイエズス会に受入れられたが、1622年8月10日この浜辺で斬首され遺体は海に捨てられた。こうして大田は壱岐島での殉教者となり、壱岐の聖者となった人である。
この上の丘は牢屋跡である。
平成二年九月
壱岐島遺跡保存研究会

(注)小値賀(おじか):五島列島の北に連なる島々。壱岐 ・対馬と共に対馬海流中にある。

こうして、各地で陰惨なキリシタン迫害が、止まるところなく繰り広げられる。以下の章では、ここ尾張国でどんな迫害の事実があったか、検証して行こう。