史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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尾張国 ・一宮には、慶長以来のあらゆる障害にも屈せず、ひそかに信仰する人が多かった。なかでも犬山方面まで布教していたポール兵右衛門・医師コスモ道閑・レオン庄五郎と、兵右衛門の息子で丹羽郡高木村に住むシモン久三郎の四人が寛永八年(1631)、印田郷裏・常光一本松塚(一宮市緑二丁目12)で、火あぶりの極刑に処せられた。

これら四教徒の霊を慰めるため、当時の村人がやがて「水かけ地蔵」を建立し、銘は「為二世安楽也」とのみ彫られた。宝暦年間(1751~63)、この地より移転して「印田常光庵」(印田通3)に祀った。水かけ地蔵の名は尊像に水をかけて礼拝したことからつけられたもので、以来水をかけて祈れば如何なる願い事も叶うといわれている。この行為は、おそらくキリスト教の洗礼の儀式(注参照)にちなんだものと思われる。
(注)洗礼:キリスト教で、信者となるための儀式。水にひたったり、頭上に水を注がれたりすることにより、罪を洗い清め、新しい信仰の生活にはいることを意味する。キリストも、ヨルダン河で洗者ヨハネから洗礼を受けている。

JR尾張一宮(または名鉄新一宮)駅を降りて、駅前の大通りを東に向う。バスの場合は、名鉄百貨店前・花岡町の次の「印田」で下車する。表通りから一筋北側の道に入ると、石材店の右手に南向きに石造りの鳥居があり、右手に「黒龍龍神・黒姫龍神」と読める石碑が立っている。ここが一本松刑場跡(写真)であり、明治まで一本松の大木が立っていた。

その奥に「キリシタン殉教 水かけ地蔵尊」と刻んだ自然石が立っている。この石に水がかけられるよう水鉢と柄杓が用意されており、境内はよく整備されている。
当時の水かけ地蔵は、県立一宮高校北東端の五叉路東、すぐ左側の道路に面した祠(印田常光庵)に安置されている。右上に「為二世安楽也」と彫られた地蔵の頭には、真新しい帽子がかぶせられている。このお地蔵さんにかけた水を、患部に塗ると直ちに病気が治ると古くから言い伝えられている。左隣に、小路を隔てて臨済宗常光寺がある。

最初、一宮を訪れた時はやみくもに歩き回った挙句、交番に立ち寄って若い婦警さんに付近の地理の教えを乞うたり、豊島図書館に引き返して関連資料を調べたりした。後で、一本松刑場跡の所在がどこであったか気になり再調査に出かけ、とある公営墓地の近くで花屋さんを営むおばさんに尋ねて、先回訪れた黒龍龍神 ・黒姫龍神の地が刑場跡そのものであること知り、やっと納得できた。

その近くに花岡神社がある。この神社の由緒によると、大正九年十月広畑町の八ッ白龍神を勧請し花岡新遊地守護を祈念したのが始まりといわれている。八ッ白龍神の御祭神は、白龍 ・黒龍の二神であって、憶計尊(おけおう=第二十四代仁賢天皇)と弘計尊(をけおう=第二十三代顕宗天皇)の両皇子が卯つ木塚(現在、泉三丁目付近)に身を忍び住まわれたことに起因するといわれている。俗に、おつげ様と称し古来より歯の神様としてかなりの信仰があったと思われる。

花街であった事をつゆ知らず、花岡神社に興味を引かれて立ち寄ろうとしたら、白昼道端にたむろしていたお兄さん達の一人に呼び止められ、遊んで行かないかと誘われた。いわゆるポンビキといわれるやからである。きっぱり断って通り抜けたが、昔の花街の風俗がこんな形で今に引き継がれているのだ。

江戸吉原(よしわら:台東区千束四丁目)がいま、風俗店で多少の賑わいを見せているのと、共通している。
吉原大門を入って少し行くと、右手に松葉屋がある。ここの座敷で観光客に、華やかなりし頃の花魁(おいらん)の姿を楽しませてくれていたが数年前、客足が遠のいたため中止になった。
売春防止法(注参照)が、古きよき時代の伝統文化を消してしまい、軽薄な商売がはびこらせてしまった。そうした地域を抱える自治体は、そこを自分達の恥部とでも考えているのか、観光案内にも掲載しない。だから尚更、世間から忘れられて行くのも無理はない。
(注)売春防止法:売春行為を防止するための法律。売春を勧誘・助長する行為に対する罰則、売春の勧誘などをした婦女に対する補導処分、売春を行うおそれのある女子に対する保護更生の措置を規定する。昭和三十一年制定。
古文書「真清探當證」所載の系図によれば、弘計王と豊娘(振姫)の子が、男大迹王(おおどおう=第二十六代継体天皇、注参照)であるという。
(注)「淀川の水」10.継体天皇

一宮にあるキリシタンに関連するもう一つの史跡がある。本町交差点を北に入ったNTTの北側、花園町八剣社内に「開祖空円上人」と書かれた碑の背に「センテンセ」、碑の礎石に「クロタセウ」と片仮名で明瞭に彫り付けられている。この文字は、いずれもポルトガル語で「判決」、「火あぶり」を意味するといわれる。
この八剣社のことを、空円の碑があるので、くんげん様と呼んだ。このお社は古くは福寿院の境内で、空円上人が荒廃した福寿院を再興し境内に十坊を建立して、最後にはここで入定した。歴代真清田神社の別当を司っていたので、この地に八剣社が祀られたのであろう。

真清田(ますみだ)の名が生まれたのは、もともとこの地域は、木曽川の灌漑用水による水田地帯として、清く澄んだ水によって水田を形成していたためであるといわれている。真清田神社の御祭神は、天火明命(あめのほあかりのみこと)という。この大神は二千六百五十有余年以上の昔、真清田の農業地帯を開拓された尾張氏の祖神である。
真清田神社の摂社服織(はとり)神社には、天火明命の母神に当らせられ、機織の神である萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)が祀られている。
即ち、この両神がそろって当社に祀られていることは、人々に衣食を足らしめることが、生活の第一歩であることを教えられたものといえる。

ある古代史研究家は、天火明命について次のように述べている(注参照)。真実とすれば、真清田神社は上に記した以上の、たいへん由緒の正しい神社ということになる。
崇神天皇妃、継体天皇妃、安閑天皇、宣化天皇を輩出し、壬申の乱では二万人を挙兵し、大海人皇子を勝利に導いた尾張氏であるが、記紀は、その実像を抹殺したかのように沈黙している。
東日本を拠点とした大豪族・尾張氏は、大和朝廷に対峙する、別の王朝を形成していたのではないだろうか。
天火明命を始祖とする系図は通称、海部氏本紀(あまべしほんき)と言われ、京都府宮津市にある丹後国一宮である籠神社(このじんじゃ)の宮司家である海部氏の所蔵するもので、国宝となっている。 この海部氏本紀は、先代旧事本紀巻五の尾張氏系図と酷似しており、この両系図は、同系統のものであることがわかる。すなわち、尾張氏の祖は火明命(ほあかりのみこと)である。
日本書紀の巻第二の一書(第六・第八)では、火明命を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の兄であると記述した上、火明命とその子天香山命(あまのかぐやまのみこと)は、尾張連(おわりのむらじ)遠祖であると具体的に説明している。 実は、この記述は、歴史がひっくり返ってしまうほど、とんでもないことなのだ。日本の正史が、天皇家よりも尾張氏のほうが、格が上と認めてしまっていることになるからである。
しかも、一書の第八では、火明命を天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)としているではないか。これではまるで、火明命こそ天照大神(あまてらすおおみかみ)と証言しているように、見えるではないか。

(注)真説日本古代史:
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