史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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寛永の弾圧より三十年後の寛文元年(1661)三月一日、旗本・林権左衛門が江戸から尾張藩へ使者を立て、次のように依頼して来た。
私 領分に濃州塩・帷子(かたびら)と申す両在所あり此所に切支丹是有る由承る。拙者江戸に在ってご存知の通り小身なれば領地には家人少なし。恐れながら御国境のことにて程近くあれば 、御家中衆に仰せ付けられ、搦め下されば過分に有難く存ずる儀なり(扶桑町史)

同月二十九日、尾張藩重臣の石河(いしこ)伊賀守を江戸城に招いて「御進物番林権左衛門の知行所美濃国塩野村・大田村両所に切支丹宗徒が多数あるゆえ召し捕らえられよ。また御領内にも御せんさくあるべし」(殿中日記)と命じた。

藩主光友は林権左衛門の訴えを聞いて捕手を差し向け、二十四人を召捕り三月四日の夜名古屋に護送した。こうして先ず美濃可児郡塩村でキリシタンが露見し、ついで尾張領各地で発覚した。これを「濃尾くずれ」といい、 万冶元年(1658)の大村「郡くずれ」 万冶三年(1660)の「豊後くずれ」 に続いて起こった大キリシタン検挙事件である。

尾張国・高木村(現在、扶桑町高木)では寛文元年四月五日、与右衛門ほか三人が犬山藩の足軽に捕えられたのをきっかけに以後毎日のように 、多い時は五~六人、少ない時は一~二人召し取られ、寛文五年正月までに三十所帯八十二人が捕えられて名古屋へ送られ、うち赦免されたもの十人であった。 同じく五郎丸村(現在、犬山市五郎丸)では、七年間に二十回にわたって当時の人口二百五人中、延べ百二十四人が検挙され、うち百人が殉教した。
寛文四年(1665)、名古屋千本松原で二百人余を斬罪に処した。この後、検索はいよいよ徹底的に行われ、七年七月二十八日、男女七百四十五人、ほかに幼児十四人を投獄し、十月には斬首牢払いとなる者約二千人に及んだ。 こうして、尾張藩領の各所で多数の検挙が行われた結果、寛文七年(1667)十二月にはキリシタンはほぼ絶滅したと考えられるようになり、尾張藩は幕府に対し、領内の宗徒は大方絶滅の旨を報告している。

その後国内で発生した事件は、
 寛政二年(1790)  浦上一番くずれ
 文化三年(1806)  天草くずれ
 天保十三年(1842) 浦上二番くずれ
 安政三年(1856)   同三番くずれ
 慶応三年(1867)   同四番くずれ
と合わせて八件である。

恵心庵(高木村切支丹塚:写真)は、扶桑町大字高木桜木378にある。
名鉄扶桑駅前の通りを、名古屋方面に向け二交差点目の右手前に、二本の石柱が立つ庵がある。俗に地蔵堂または弘法堂ともいって、堂内に高さ二尺七寸の船形地蔵が祀ってある。これには 、「有縁無縁三界萬霊等名仏地蔵尊」と刻してある。境内はきれいに清掃されており、右手奥に俳句らしき文字を刻んだ自然石が立っている。入口に芭蕉塚とあるから 、その関係と思われる。
立札は次のように語っている:
江戸時代初期、当地方には禁令を犯してキリスト教が広まり、寛永年間(三百五十年位前)以来尾張藩は厳しく取締り 、寛文年間には多数の宗徒が処刑された。このあたりは一部の処刑された人々の骨が埋められている。この霊を弔うために地蔵尊を祀ったのが恵心庵の起こりである。

堂の縁下から西北の畑地にかけ、地上数尺のところに白骨を多く見受けられるという。
岐阜県庁所蔵の「塘叢」に次のように書いてある、という:
高木村切支丹塚
丹羽郡高木村に在り、岩倉海道より十間ばかり西へ入る、犬山羽根金常山白雲寺持つ、切支丹類族死罪の者を埋葬せし墳墓なり
寛永三丙戌此所に穴を掘り切込しと云う
永禄天正の頃より寛永十五年迄に年数凡そ八十年に及び邪宗のて無益に死せるもの日本国中に五十万人に及ぶと云々。扶桑町のキリシタン遺蹟は、恵心庵以外に次の数箇所にも伝えられている。
 柏森専修院:柏森乙西屋敷62、64
 折橋薬師堂:斎藤(折橋)県20
 小淵地蔵畑:山那宮東の切861
 小淵薬師堂:山名(小淵)堤南1391
 ランボウ山:高雄定松郷72
 高雄覚王寺:高雄南屋敷乙135
 高雄白雲寺:高雄米の山42
専修院(浄土宗)本堂前広場の西端の地が、寛文年間当地のキリスト教弾圧の折、教徒を斬罪に処し大穴を穿ち投げ込んだ所という。そこに一躯の無銘地蔵尊があるのは 、その菩提を弔うためであろう。当院の東門は明治九年犬山城から移築された。
高雄覚王寺(臨済宗)の墓地には、無銘地蔵尊一躯と供養塔一基がある。いずれも建立された年月も由来も詳らかでなく今日に至っている。
高雄白雲寺(臨済宗)の山門前右手に「為三界衆生」「元禄十二年巳卯八月」と刻した地蔵尊がある。恵心庵から移された切支丹供養の地蔵尊だと伝えられている。

万願寺は五郎丸地内旧国道41号線(春日井各務原線)と旧犬山街道(来栖犬山線)合流点の万願寺交差点辺りにあったと考えられる。 その近くに稲荷社があり、中に二つの小祠と古びた碑が並んでいる。一番右手に高さ一メートルほどの碑があり「正徳壬辰二年 諸神諸仏諸菩薩 十一月吉日」と書かれている。この石碑が五郎丸付近のキリシタン弾圧による殉難者の供養塔である。万願寺という地名はあるが 、これは取締りの行われた寛文期より前、さほどキリシタン弾圧が厳しくなかったころに建てられたキリシタン道場(伝導所)の満願寺の名残を留めたものである。

可児市塩には、キリシタンの取調べに使用した硯石が残っている:
日本にキリスト教が伝えられたのは天文十八年(1549)のことであるが、美濃の地へ急速に広がったのは三十年後の信長の子信忠が布教を許可してからのことである。江戸幕府下では慶長十八年(1613)年家康が禁教令を全国に及ぼし 、それ以後市内でもキリシタン弾圧が始まったようである。残された資料によれば、この地・塩村(可児市塩)への弾圧が特にひどかったようで、寛永・寛文・元禄年間に度々苛酷な取調べや検挙が行われた。
寛永十五年(1638)、には旧可児郡内の三十三カ村がキリシタン出の村であったようだ。この硯石は坂戸地内の山林で取調べがあった際、役人が調書作成のために自然石を打ち欠いて 、硯がわりに使ったといわれるものであり、信者とゆかりのある甘露寺境内に移されている。当時を知る貴重な歴史資料の一つである。近年、御嵩町上之郷地内においては 、自然石に「十」字などを刻んだ、隠れキリシタンに関する歴史遺物が数点発見されている。


  この硯石がある場所は、塩の二本木橋から少し西に入った日比野木材の裏側にあり、可児川の支流である矢戸川に沿っている。詳しくは、可児市役所を訪ねると市内の案内地図に場所が記されている。
濃尾くずれの舞台となった地域の北側を流れる木曽川の話題を記しておく:
木曽川の御囲堤扶桑町小淵のこの付近(木曽川の河口から五十三・四キロ付近)の堤防は尾張地域を水害から守るため慶長十三年(1608)に犬山から弥富に至る延長十二里(約四十七キロ)の間に築造されたと伝えられる大堤防の一部で 、通称「御囲堤」と呼ばれるものである。天正十四年(1588)の洪水までの木曽川は、各務原前渡付近から現在の境川筋を流れ墨俣付近で長良川に合流していたが 、この洪水によって流路が一変し、ほぼ現在の河道を流れるようになった。この時、豊臣秀吉によって、美濃と尾張の国境は境川からこの新しい河道に変えられた。
御囲堤の築造は、伊那備前守忠次の発意を徳川家康が認め、慶長十三、十四年のわずかニヵ年の間になされ、この完成により小信川(今の日光川筋)など尾張側へ流れ込んでいた諸河川はことごとく締め切られた。この大堤防は 、木曽川に対し尾張平野をスッポリとかこむ形であったので「囲堤」と呼ばれるようになった。御囲堤築造の目的は、徳川御三家のひとつ、尾張藩を木曽川の水害から守ることもさることながら 、木曽川周辺は当時の東西勢力のぶつかる接触点であり、西国大名の侵入を防ぐ軍略上の意図もあったといわれている。 伝えられる御囲堤の構造は当時としては立派なものであり、その後も修増築された。一方、右岸の美濃側は政治基盤が弱く、「美濃の堤は尾張の堤より三尺低かるべし 」という不文律にあるように輪中堤のわずかな増強を除いては一連の築堤が許されなかったということもあって木曽川の流れは、はけ口を求めて美濃側の揖斐川、長良川およびその流域に流れて行った。
  通産省


このため、かっては水害の起きなかった地域にも輪中が形成されるようになった。