史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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永禄三年(1560)土岐美濃守頼芸(よりあき)の子で美濃の領主 ・斎藤義龍の弟に従って美濃から上洛した家臣山田庄左衛門は、禅宗に深く帰依していた。京でヴイレラが新しい教えを説いていると聞くと、自分から訪ねてその教えを聴聞した。日ごろ抱いていた宗教的疑問がすべて解消すると、受洗して美濃に帰り数年間伝道に努めた後、暗殺された。

永禄九年(1566)義龍の嫡子・龍興の家臣で、家来七百人を有するある武将も、堺で受洗した。

永禄十年(1567)堺のフロイスのもとに訪れた美濃の僧が洗礼を受け、禅宗の帰依者である義龍を転宗させれば美濃にも信者が多数できるであろうと言ったが、この年信長が義龍を追って岐阜城に入城したので 、情勢は一変した。

永禄十二年(1569)五月、フロイスが信長の布教の許可を得ようとして岐阜を訪れた。信長は岐阜城内を自ら案内するなど、フロイスを甚だ優遇し、布教のための最善の好意を示した。八日間の岐阜滞在中 、信長の家来やこの地区の人々が説教を聞くためにやって来た。これ以後、美濃でも少しずつキリシタンが増えるようになる。

天正元年(1573)頃には、河内国の岡山城主でキリシタンの結城弥兵次が美濃にいる親族をキリシタン信仰に導き、天正六年(1578)には京都からオルガンチーノが 、美濃・尾張のキリシタンを歴訪した。こうして、武士や民衆の間にキリスト教に対する関心が高まるようになった。

天正九年(1581)秋から翌年六月にかけて伝道したセスペデス神父と日本人修道士パウロとは、美濃・尾張で多くの人を改宗に導いた。二人は求めに応じて岐阜より7レグワ(約三十九キロ)離れた尾張国の二重堀(ふたえぼり:小牧市)に赴き、そこに十六日間滞在し説教した。そして、この地の立派な宮を壊して十字架を立て聖堂を造った。
しかし、本能寺で信長が死んだという知らせが入ると、斎藤敏尭が岐阜城を占領し城下の修道院や教会を取り壊させた。

文禄元年(1592)秀吉の養子 ・羽柴宰相勝秀が没すると 、織田秀信が美濃国(十三万五千石)の領主になった。秀信は、信忠の長子で幼名を三法師といい、本能寺の変の後、清洲会議で織田家の後継者となった。オルガンチーノを尊敬し 、文禄四年(1595)に十六歳で洗礼を受け、美濃のキリシタンの庇護者になった。上杉討伐軍に加わる予定であったが、三成の勧めで西軍に加わった。慶長五年(1600)八月、西上して来た東軍先鋒隊の池田輝政らの攻撃を受け開城、剃髪して高野山に入った。加納あたりに建てられたと思われる天主堂もその攻略戦で放火され焼けてしまったのであろう。

イタリヤ人オルガンチーノ ・ソルド神父は 、インド管区長代理としてマラッカ・マカオを巡察中、同じくインド管区長代理に指名されたポルトガル旧家の出のフランシスコ・カプラル神父に出会う。そりが合わない二人は日本布教のため同じ船に乗り 、元亀元年(1570)六月天草の志岐に上陸した。同地で開催された会議で、カプラルが第三代日本布教長に指名された。オルガンチーノは京に上り、天正四年(1576)末から京の地方長の職をフロイスから受け継いだ。

次の城主たちは共に手厚い保護をしたので 、キリシタン信仰はこの時期に美濃尾張の武士と民衆の間に深く根を下ろした。
信長没後の天正十一年(1583)に岐阜城主になった池田信輝
その次男で同十一年に大垣城主で同十三年(1585)から十八年(1590)に岐阜城主であった池田輝政
その後慶長五年(1600)まで岐阜城主となった織田秀信
また天承十一から十八年に清洲城主であった織田信雄
その後文禄四年まで尾張を支配した豊臣秀次
秀次の後を受けて慶長五年まで清洲城主であった福島正則

慶長五年の関ケ原の合戦後、それまでキリシタンを保護してきた城主が没落したり、西国に移されたりしたので、美濃尾張のキリシタン武士は帰農したり西国に移ったりした。しかしこの地方の城主は 、大垣の石川康通、清洲の松平忠義、その後継者で初代尾張藩主の徳川義直等はその後もキリシタンを保護しており、十七世紀初頭には、駿府(静岡)をはじめ三河にもキリシタンになるものが増え始め 、西国から駿府や江戸を訪問した宣教師達が、帰途それらの国々のキリシタンを歴訪したりしている。

慶長五年(1600)関ケ原の戦いで東軍が勝利を収めると 、徳川家康は本田忠勝を普請奉行に命じ、加納城(写真)を築き始めた。天下分け目の戦いが終結したとはいえ、まだ西国の勢力に備える必要があった。
家康は先ずここ加納の地に壮大な城郭を築き、西国防衛の要(かなめ)と位置付けた。築城には三年を要し、あわせて城下町が整備され家臣団が移住した。加納城は当時としては 、最新の城郭として機能していたのである。
慶長六年(1611)加納城に入城したのは家康の息女亀姫の夫・奥平信昌(注参照)であった。信昌は翌七年隠居し、その子忠政に譲った。忠政はその後病気にかかり、父母に先立って慶長十九年死去した。忠政は 、はじめ菅沼定利の養子になっていたが、兄の家治が十四歳で早世したので、加納藩を継ぐために養家を辞して藩主となった。忠政の後は実子・忠隆が継いだ。
(注)奥平氏:武蔵七党児玉党の一員片山経氏が上野奥平に住し、奥平を称す。また、村上源氏赤松流ともいわれる。三河国作手(つくで)に移り、戦国時代は今川氏に、貞能に至り徳川方に属した。天正三年(1575)武田勝頼が三河長篠城を包囲した際、城主 ・貞昌は城を守り通して長篠の合戦の勝利につなげた。その戦功により子信昌は家康の娘をめとり、京都所司代、美濃加納十万石。のち宇都宮・古河・山形・宮津を経て豊前中津に移り、明治に至る。信昌の四男忠明は家康の外孫として松平姓を冠し、武蔵忍十万石を領し 、明治に至る。

日本切支丹宗門史の慶長十七年の条に、「フランシスコ会の修道者たちは、フランシスコという名を得た美濃の大名の養子を改宗させた。父の後を嗣いだこの若い大名は 、不幸にして翌年没した」とあるのは、忠政のことではないかと「尾張と美濃のキリシタン」の著者・横山住雄氏は推測しておられる。だとすると、家康の外孫からキリシタンが出たことになる。

尾張ではコンスタンチノが布教に四苦八苦したが 、禅宗の強固な教団のある美濃では、キリスト教は育ちにくかった。宣教師も述べているように、他宗に比して禅宗の僧侶は論破が非常に困難であった。
それでも、美濃では1620年代後半から40年代前半にかけて、二百七十一ケ村から非常に多くのキリシタンが検挙され、処刑された。
また、1660年代にもキリシタン数十人が処刑されている。

加納城は明治六年に取り壊され現在に至っている。ここ加納の地は城下町であると同時に美濃最大の宿場町で 、城と街道の機能が溶け合った数少ない貴重な町であった。
名鉄名古屋本線終点の新岐阜駅の一つ手前が加納駅である。普通停車駅なので、急行で新岐阜まで行き、歩いて戻ったほうが手っ取り早い。
柳ケ瀬が岐阜繁華街として人ごみに埋まるのに 、その真南約一・七キロにある加納はひっそりと静まり返っている。
江戸時代にはここを中仙道が横切り、加納宿として繁盛した。街道沿いに大手門跡と彫られた碑が立っており、ここから南に真直ぐ道路が四百二十メートル続く。両側はもと武家屋敷だったらしく 、今は文京地区になっている。この道路の突き当たりが加納城のはずが、自治体の無粋なビルが正面に居座って城を覆い隠しており標識もないので、訪れる人は戸惑うだろう。
加納城は四方を城壁で囲んだ四角い平面の平城で、この頃になると天守閣を置かなくなったと見える。
今は城壁以外なにもなく、内部は公園になっている。

中仙道筋に戻ると二文字屋があり、入口の立札に次のように書いてある。
左甚五郎とウサギの欄間(らんま)
昔当店のあたりは中山道加納宿でございました。
当店の初代上野長七郎がこの場所で旅籠ニ文字屋を始めましたのが元和六年今から三百七十五年程前のことでございます。
月夜に川原で餅をつくウサギはご存知左甚五郎がニ文字屋に泊り彫ってくれた欄間でございますが火事のとき欄間の川原から水が吹き出し一瞬のうちに火を消したと伝えられます。
十二代目当主


左甚五郎は江戸初期の大工で建築・彫刻の名人として著名であるが、実在したかどうか不明、という。

江戸時代初期に木曽川左岸に築かれた御囲堤により、かっては水害のおきなかった地域にも輪中(わじゅう)が形成されたが、加納も輪中の一つであった。洪水から集落や耕地を守るために 、その周囲に堤防をめぐらし水防をなかだちにして強い共同意識によって結ばれた地域社会が輪中である。江戸時代末ごろから明治時代の初めに、濃尾平野に約八十の輪中があった。 江戸以前の木曽川は、「7.濃尾くずれ」で説明したように 、現在の境川筋を流れていた。加納の直ぐ東側を荒田川が流れ、その南側で各務原から来た境川が合流し長良大橋の南で長良川に注ぐ。対岸が安八郡墨俣(すのまた)町で 、長良大橋の北に秀吉の出世の糸口となった一夜城があった。信長はこの城を拠点にして長良川右岸に勢力を延ばし、斎藤龍興の本拠・稲葉城を包囲・攻略した。 松枝輪中(岐阜県柳津町)は湛水災害を防止するため、隣接する加納輪中との間で畑繋(はたつなぎ)論争のあげく水除堤を築立するが、検分取り払いとなった上、四人の入牢者を出すに至った。それでもなお 、文化二年(1805)再び無願工事を開始した。加納輪中の訴えにより検分取り払いを命ぜられるが、直ちに取り払うことなく築立願いを出した。酒井代官は間に立ち慎重かつ献身的な態度により 、七年目の文化八年(1811)に双方熟談和解し、松枝輪中がようやく完成する。