史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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真宗名古屋別院裏手付近にあった刑場 「千本松原」で、キリシタン宗徒二百人余が殺された。尾張藩二代・徳川光友は、後にこの刑場を「土器野」に移し、その後に一宇を建立した。
後の栄国寺(名古屋市中区橘一丁目21)である。

本町通は、名古屋城から南へ延びる当時の目抜通であった。今日この通は、桜通、錦通、広小路、若宮大通、大須通を経て南下し、西に緩くカーブして伏見通(国道19号線)に合流する。大須通を渡り仏壇仏具店が建ち並ぶ通を歩いて門前町交差点を過ぎ 、次の交差点の手前を左に折れると奥に栄国寺の門が見える。

栄国寺は、清涼山と号し浄土宗西山派に属する。寛文五年(1665)、尾張二代藩主光友が刑場を土器野(西春日井郡新川町)に移し、その跡に菩提のため清涼庵を創建、貞享二年(1685)、栄国寺と改められた。寺内に、切支丹博物館が併設されている。
本尊は、丹羽郡塔の地村・薬師寺の本尊を藩主・光友が千人塚別名切支丹塚の菩提のため移したもので、鎌倉時代の仏工・春日の作と伝えられる。寛文以前より 「火伏(かぶせ)不思議の弥陀」と称せられ、火防に又諸願成就、衆生済度に霊験あらたかな仏として江戸名陽図会にも載っている。近くは、昭和二十年の空襲(注参照)にも落下の焼夷弾が全く不発で 、この一帯は火災を逃れた。
(注)昭和二十年三月十二日午前零時十九分から三時間にわたり、B29三百十機により名古屋市街が猛爆撃を受けた。三月十日の東京市街爆撃に続く二番目の夜間低高度焼夷弾爆撃であった。

境内に、こんもりとした木々に覆われて、昼なお暗い一隅がある(写真)。刑場の面影を今に止める唯一の場所である。ここに立っている真新しい顕彰碑に記された碑文が 、尾張キリシタンの殉教史を簡潔に物語っている:
尾張藩の初代藩主義直公ならびに二代光友公は、政道の基本を人間を生かす温厚誠実の精神においていたので 、万物の創造神を最高の主君と崇めつつ、同様の精神で忠実に働いていたキリシタンたちには寛大であろうとしていた。しかし、キリシタン宗門禁制を強調する江戸幕府からの圧力のため 、寛永八年(1631)以来キリシタン伝道に努めた者たちを検挙し、処刑し始めた。寛永二十一年から正保二年にかけて(1644と45)は名古屋城中からもキリシタンが検挙されたが、この地で処刑された彼らキリシタンの霊を弔うためか町岡新兵衛は慶安二年(1649)この処刑地に石の供養塔を建立した。
寛文元年(1661)春以来数多くのキリシタンが尾張北部の諸村から検挙されると、尾張藩は、そのうち伝道に努めたと思われる男女二百余人だけを、寛文四年十二月十九日(1665年2月3日)この地で斬罪に処し、他のキリシタンは赦免しようと努めた。しかし、幕府の了承を得ることができず、結局検挙された二千人余のキリシタン全員を寛文七年十月に村方で処刑せざるを得なかった。
藩主光友公は、この地で仏寺を建立して彼らの冥福を祈らせたが、この度カトリック名古屋教区で、栄国寺側の好意溢れる快諾を得た上で、信仰のための彼らキリシタンの熱意と忠誠をたたえつつ 、この碑を建立する。
1997年11月23日
カトリック名古屋教区長野村純一司教
撰文青山玄神父
美濃街道は名古屋から枇杷島 、新川を経て清洲へ、さらに木曽・長良川を越え墨俣・大垣から中仙道垂井宿に至る。土器野刑場は、新川橋を渡る手前北側の瑞正寺の近くにある。
瑞正寺の境内には、「土器野の宝塔」がある。この宝塔は、ある熱心な法華経の信者が、悲しくも死刑に処せられて命を落とした人達を憐れみ、伊豆小松原より大石を切り出し 、八年の辛苦を経て文化十二年(1815)に完成した。それ以来、処刑場に牽かれる罪人は、この宝塔を拝んで懺悔合掌し、仏の慈光に救われて逝ったという。
処刑場は瑞正寺から北に入り、名鉄名古屋本線の下を抜け、右に折れて少し行った辺りにあったらしく、線路脇の草むらの中に尾張藩刑場跡と刻んだ石柱が 、人目を忍ぶかのように立っている。このほとりを通過する電車からも、一瞬だがその石柱を視認できる。