史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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千本松原などで処刑されたキリシタンは 、単に斬首されただけではなかった。

「愛知県史」第二巻第七章神社及び宗教、によれば:
かくて元年以来、捕縛された信徒二百余人(内男百余人)は、寛文四年十二月十九日、千本松原(栄国寺の地)で斬首に処し、様物(ためしもの)として
竹腰・成瀬両家に六人宛、
山澄・成瀬(大膳)両家に五人宛、
城代衆へ三人宛、
御同心頭・大番頭・両御用人衆等に二人宛、
物頭衆・御側小姓衆・御国奉行・両町奉行・切支丹奉行・御側用人目付・小納戸・奥番衆等に一人宛、
を与え、二十二日迄に様(ため)さしめた。

引き続き、
七年十月に斬首牢払いとなる者約二千人に及び、死骸を足軽以上の者に様物として与えている。 とある。

更に、寛文九年(1669)十二月、斬罪と決定したもの三十三人の内牢死者二人を除いた残り三十一人は斬罪後御家中へ刀の様切(ためしぎり)とされた。
殉教者達は処刑後なんと、刀の試し切りに供されていたのだ。

栄国寺を抜けると、真宗東本願寺別院(東別院)の裏通に出る。この辺り一帯が往時は千本松原だったが、今は全く市街化している。この通を東に歩き、三分足らずで橘公園(中区橘1-25)に着く。
大津通に出会う手前北側にある。立札に「おためし場腑分けの跡」として次のように記されている:
この地は旧称新屋敷といい藩士の新刀試しに供した場所であった。文政四年(1821)冬、ここで名古屋最初の人体解剖(腑分け)が行われた。当日の参観者は吉雄俊蔵はじめ六十余名、石黒済庵の執刀により東西の医書を対照して行い、洋書の正確なことを知った。ちなみに明和八年(1771)、杉田玄白らが江戸小塚原で最初の腑分けを行ってより五十年後のことである。

冒頭の一行から推測すると尾張藩士たちは、処刑場からほど近いここでキリシタン達を試し切りにしたのであろう。

橘公園前の通と大津通の南西角に下茶屋公園があり、古渡城の天主台があった所である。この公園に隣接する東別院を含めた一帯が古渡城であった。
東別院敷地内の西南隅にある立札(写真)に次のように書かれている:
天文三年(1534)織田信秀が築城した。信秀は、それまで今川氏豊から奪取した那古野城にいたが 、その子信長に那古野城を譲り、ここに移った。信長はここで元服した。城は東西百四十メートル、南北百メートル、周囲に二重の堀を巡らしていたといわれる。天文十七年信秀が末森城に移り、信長も清須城に入り廃城となった。

以上で尾張のキリシタンの殉教に関する記述を終ります。千本松原で男女二百余人が処刑されたほか、「村方でも二千人ものキリシタンが処刑された」という証言は大きな衝撃でした。一宮に「尾濃切支丹なぐさめ塚」を建立した森徳一郎氏は、殉教者三千人といっておられる。 これが事実なら、島原天草の乱に次ぐ大量虐殺事件であり、各地に伝承など何らかの痕跡が残っていてもよいはずですが、その真相は未だ解明されていません。