史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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戦後に建設された伏見通は、中央分離帯を挟んで片側五車線の鉄筋コンクリート舗装の大通り(国道19号線)である。名古屋城から熱田神宮南の高架橋まで約七キロをつなぐ交通の大動脈である。
金山のJRと名鉄が併走する路線上にかけられた陸橋上から見ると、ここで二つの台地が南北に分断されていることが良く分かる。 すぐ左手には、高層の金山南ビルが建ち、高額なライセンス料を支払って誘致したボストン美術館とホテルとが入っている。 陸橋を南に渡ってすぐの金山新橋交差点が、熱田の宿から北上してきた美濃路と佐屋路の分岐点に当る。交差点の南西角に佐屋路の標石(しるべいし:写真)として有名な道標が立っており、次のように記されている。

南面: 南 左 さや海道
つしま海道
西面: 西 右
左 宮海道
なごや海道
東面: 東 右 木曽・なごや海道
海道とは、交通上主要な陸路、諸地方に通ずる公道をいう。陸路に海の字を用いるのは不合理なためか、東海道を除いては街道と書くようになった。 美濃路はそのまま北上して名古屋、清洲など七宿を経て中山道垂井宿に至る。佐屋路は左折して、堀川を渡り岩塚、万場、神盛(かもり)、佐屋の四宿を経て、佐屋湊から佐屋川を下って桑名に至る。
佐屋・桑名間は「三里の渡し」といわれ、東海道宮・桑名間の「七里の渡し」より海路でなく、河川を利用するのでより安全であった。

二つの台地の西側を流れる堀川は、名古屋城下と熱田の海を結ぶ運河として生まれた。名古屋城の西の「辰の口」から広井・日置・古渡と下って熱田の西で海に注いだ。この堀川の開削には徳川家康の命で慶長十五年、福島正則が普請奉行として工事に当った。堀川は貨客運送に利用され、客を乗せた舟は名古屋城近くの朝日橋までのぼって来た。

朝日橋の上に「堀川堀留跡の碑」がある:
堀川は慶長十五年(1611)城下と熱田の浜を結ぶ輸送路として福島正則により開削されたと伝えられている。当時は名古屋城近くのこの地で堀留になっていたが天明四年(1784)に行われた大幸川の付け替え、明治七年(1877)の黒川冶愿による黒川の開削、更に昭和初期の改修を経て現在の姿になった。朝日橋は天明五年(1785)に初めて架橋され昭和初期まで橋の下には苔むした石積みの段差工があった。その水音から「ザーザー橋」と呼ばれたり、お堀の水の落し口近くにあったことから「辰の口橋」、あるいは橋の上を歩いたときの音から「ドンドン橋」と呼ばれ、人々に親しまれていた。
かって、巾下御門に通じるこの地には多くの船が行き交い、今の州崎橋付近に至る渡船が始まる万延元年(1860)頃には、名古屋の交通の中心でもあった。また満ちてくる潮に乗って鰹や鰯がこの付近までさかのぼってきたと伝えられている。


堀川の上流は黒川(堀川)である。地図で辿ってみると、黒川は庄内川から水分橋付近で取水され三階橋の東側で矢田川をくぐり、北区内を南西に下り、名城公園北側を迂回し名古屋城の西を南下して堀川につながる。現在は取水されていない。
朝日橋から、幅下橋・小塩橋・景雲橋・五条橋・中橋・桜橋・天馬橋・錦橋・納屋橋・天王崎橋・新州崎橋と市内中心部を下る。車では数多くの信号待ちを繰り返すが、堀川を船で行けば短時間に通行できるだろう。

洲崎神社
新洲崎橋の東袂に鎮座する洲崎神社(中区栄1-31)の由緒は次のとおりである。
当神社は昔広井天王牛頭(ごず)天王社と呼ばれ西南海に面し、その洲崎に鎮座ということから社名となった。
名古屋城築城以前は栄一丁目全域が境内地であり堀川西八角堂前に広井天王御手洗の石柱があった。
宝永六年(1709)藩主徳川綱誠卿より神輿が奉納され、享保十六年(1731)名古屋の繁栄を願う藩主徳川宗春の命により川祭が盛大になり、堀川には桟敷をかけ当時の城下二代祭として非常な賑わいで明治初年まで続けられた。


洲崎神社の堀川端に天王崎港があったほか、次の史跡の地でもある。
広井城跡:天文年中迄城主中村氏、以後社家が広井城を支配
三霊神社遺跡 :徳川慶勝建立
御船方役屋敷跡:享保年間舟屋敷を建てる
堀川初開削の地:慶長十五年此の地にて祈願祭をし、開削す

尾張藩の水軍の司令官であった千賀氏の屋敷、すなわち御舟方屋敷がこの堀川左岸にあった。その配下の水主(かこ:水夫)百二十三人が付近の両岸に住み着いていたことから、水主町という名が残った。軍船の多くは堀川下流、現在の熱田区白鳥庭園の前身である白鳥貯木場に当時あった御船蔵に係留されていた。

現在の堀川は水の流れがなく、市の中心部では以前ほどではないにしても、お世辞にもきれいとは言いがたい。上流から送水して浄化テストを行ったが、汚水が伊勢湾に流れ出て、漁業共同組合から苦情が出て中止になった。

日置神社
新洲崎橋から洲崎橋、岩井橋と下ってきて、次の日置橋の東袂に日置神社(中区松原1-3)がある。
「延喜式」神名帳に愛智郡日置神社とあり、祭神は天太王命、中世に品陀和気命を合祀し、更に明治になって隣接神明社の天照皇太神を合祀した。日置の地名、社名は日置郡のあったことから起った。姓氏録に「日置郡は天櫛玉命の男天櫛耳命の後」とある。櫛玉は太王の美称。日置部は暦を司った。
永禄三年(1560)五月織田信長が桶狭間の戦いに出陣するとき、戦勝を祈願したと伝えられる由緒ある古社である。