史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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堀川の左岸を松重橋・山王橋・古渡橋を経てJRと名鉄線の下を通り、那古野台地から熱田台地に入る。

住吉神社
尾頭橋の次、住吉橋の東袂の高台に航海安全・水運守護の神・住吉神社(熱田区新尾頭1-9)が鎮座する。享保年間(1716~36)の創建で、堀川を上り下りする舟の守護神として大坂住吉大社から勧請された。 堀川は伊勢湾に通じているから、もし伊勢湾の水位が数メートル上がったらここでも同じだけ上がる筈である。そうなると、西側の土地は一面海に没し、住吉神社の崖下まで波が打ち寄せることになる。古代ではこんな状景が展開しており、付近一帯は船津があって漁業で賑わっていたであろう。後背地の高蔵遺跡で貝塚が発見されたのも、それを如実に裏付ける。 ここは西に海を臨む点では大阪住吉大社と同じで、どちらも昔はすぐ西に海が迫っていた。それが、地盤上昇や干拓により、海岸線が大阪の場合は西方に、名古屋の場合は南方に遠ざかってしまった。 境内の石造りの灯篭に住吉大社と彫ってあるが、堀川に水運が途絶えてしまった今、さびれてしまったのも無理はない。

高座結御子神社
瓶屋橋を過ぎて旗屋橋まで来て伏見通に戻り、西高蔵交差点を東に渡ると樹齢八百年の木々に囲まれて高座結御子(たかくらむすびみこ)神社(熱田区高蔵町9-9)が鎮座する。この神社の栞(しおり)に次のように書いてあった。
高座結御子神社の祭神・高倉下命(たかくらじのみこと)は饒速日命(にぎはやひのみこと)の御子で、神武天皇東征に際し、韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ:石上神社に祀る)を献上され、大きな功績があった。熱田神宮の御祭神が尾張をはじめ東海一円の国土安穏、民生加護につとめられて大きな功績を残されているように、高倉下命も尾張の祖神として、特にこの高蔵一帯の地の鎮守神、産土神として現在に至っている。当神社の鎮座年代は不明だが、熱田神宮が景行天皇の御世に既に鎮座されているので、その時代か或いは少し遅れて天武天皇の御世ともいわれている。

高蔵遺跡
高座結御子神社の周りは高蔵公園になっており、広大な高蔵遺跡(熱田区高蔵町)の中心にあたる。
高蔵遺跡は、明治四十年(1907)大津町線(注参照)拡張工事のとき発見された弥生時代の遺跡である。この遺跡は、名古屋市の市街地の中心部を南北に延びる熱田台地の東の周辺部にあり、大津町線をはさんで北は沢上町から、南は外土井町、高蔵町、夜寒町にまたがり、十ケ所以上の小貝塚、遺物包含層を含んでいる。ここから、円窓付き土器や丹彩のパレス式土器を含む弥生時代前期以降の土器多数のほか、石器や馬の歯、足の骨等が出土している。
(注)大津町線とは、今の大津通のことである


夜寒里跡
名古屋市立旗屋小学校(熱田区夜寒町10)北側に、夜寒里跡の碑がある。夜寒里はその昔閑静で眺望の良い別荘地とされた。
尾張の歌枕の一つ「夜寒里」の所在地については諸説ある。「尾張雑志」の春敲門の北、森の辺りとか、本宮の森の北とか、各々の説未だ詳らかならず、とあり、また、延宝六年(1678)の「厚覧草(あつみぐさ)」と元禄十二年(1699)の「熱田旧記」には大宮の北、高蔵の南とあり、現在の夜寒町あたりをさしている。 なお、夜寒の地名をとった「夜寒焼」は辻鉦二郎が明治十二年(1879)ごろ、現在の中区金山二丁目に窯を築き、もっぱら茶器類を焼成したものである。

断夫山古墳
再び伏見通に戻り、南下すると右手に断夫山古墳が見えてくる。この辺り一帯が、熱田球場などスポーツ施設がある熱田神宮公園である。
断夫山古墳(熱田区旗屋町10)は東海地方最大の前方後円墳で、全長百五十一メートル、前方部の幅百十六メートル、後円部の直径八十メートル、前方部の高さ十六・二メートル、後円部の高さ十三メートルの規模を誇る。前方部と後円部の間のくびれ部に「造り出し」と呼ぶ小丘部が西側にある。後円部は三段築成であったと思われ、一段目に須恵質と土師質の円筒埴輪を巡らしていた。 この古墳は六世紀初め、尾張南部に勢力をもった尾張氏の首長と考えられている。昭和六十二年七月、国の史跡に指定された。

白鳥古墳
断夫山古墳の南側の道を西側に降りて、堀川端に出る。南に下り、三百メートルほど行くと、右手の民家の間から高台に古墳らしいものが、目に入る。上がってみると、白鳥古墳(熱田区白鳥町1-2)であった。
白鳥古墳(白鳥御陵)は六世紀初め頃の築造と推定され、全長約七十四メートルの前方後円墳であるが、前方部と後円部の東部分が削り取られて原形が損なわれている。古くからこの古墳は、日本武尊の御陵との説があり、日本武尊が白鳥となって熱田の宮に飛び来り、降り立った地であることから白鳥御陵と名付けられたといわれる。

更に、堀川端を下る。この辺りになると、川幅を増し係留された材木の上をかもめが羽を休めている姿が見られ、海に近いことが感じられる。
川上には、近くに対岸の白鳥庭園に渡ることができるアーチ形の白い御陵橋、その三百七十メートル先に名古屋国際会議場や白鳥公園に通ずる斜長橋・熱田記念橋が、そしてずっと遠くに地上二百四十五メートルの白色のJRセントラルタワーズが見える(写真)。地図上で直距離は五・二キロであった。

白鳥御材木場・御船蔵跡
白鳥庭園・白鳥公園は白鳥御材木場・御船蔵跡である。ウッデイランド名古屋の太夫堀脇に次の碑が立っている。
この地は慶長十五年(1610)尾張藩(大納言義直卿)において、名古屋城築城にあたり当時の御普請惣奉行であった福島左衛門太夫正則によって城下船入れとし、熱田沖より名古屋城に通ずる運河として堀川が掘られ、別に材木置場船置場として大池が掘られた。
この大池はすなわち貯木場の起因であり、中水門より西に湾入する唯一の堀であって今なお太夫堀と呼称されている。
白鳥御材木奉行が設置されたのが元和元年木曽山が尾張領となったときであり、寛永六年ごろより伐出が始まり貯木場を設け木材の処理が行われるようになった。
御船蔵についてはその管理は船奉行に属し、櫻島より南全面であって名古屋丸・大阪丸などいずれも龍頭鶏頭の名船が繋ぎ置かれたところである。その後は明治維新の廃藩置県によって愛知県に引き継がれ、のちに内務省地理局・農商務省山林局・宮内賞御料局・同帝室林野局など幾多の変遷に会い、昭和二十二年の林制統一によって国有移管となり現在は熱田営林署において管理されている。またこの記念碑の上部は旧光星稲荷社に使用されていた石であり、台石は名古屋城築城に使用するための運搬途中の土台石であり堀川より引き揚げられたものである。
昭和四十二年四月二十三日
熱田営林署


白鳥庭園は平成三年にオープンした中部地方の地形をモチーフした日本庭園である。市内随一の規模(三・七ヘクタール)で池泉廻遊庭園。清羽亭は本格的数奇屋建築。

熱田祈念橋の下手で堀川を浚渫している光景に出会った。はしけに乗せたショベルカーが川底から真っ黒な汚泥を掻き揚げて、別のはしけに移すたびに異臭が漂ってくる。平成十二年二月、堀川に迷い込んだ一頭のシャチもこの汚泥には閉口したであろう。

誓願寺
堀川を離れて伏見通の旗屋交差点に戻る。ここから少し南に下った右手にある誓願寺(熱田区白鳥2-10)が源頼朝の出生地であるといわれる。
この地は平安時代末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったところで、藤原季範の娘由良御前は、源義朝の正室となり、身ごもって久安三年(1147)熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれる。 享禄二年(1529)別邸跡に、妙光尼日秀、世にいう善光上人により誓願寺が建てられた。妙光山と号し、西山浄土宗の寺で、本尊は木造阿弥陀如来坐像である。

再度堀川端に戻り、白鳥橋の東袂で国道一号線を渡る。この橋は上流の朝日橋から数えて二十五番目にあたる。この辺りは古地図によると御船蔵に対面して中州があり、中島と呼ばれていた。大正五年ごろの地図では両側に橋が架けられている。そして、いつの日にか東側の流路が埋め立てられてしまった。

白鳥橋を西に渡ると、千年船方(熱田区千年1)に入る。この地は、もと「船方新田」といわれ、延宝三年(1675)熱田の船手奉行・横井作左衛門が熱田新田の東で御船蔵の南にあった数十町歩の土地を下付せられ、船役人の自力をもって堤を築き開発した。今日の堀川右岸と百五十四号線に挟まれた地域である。

波限(なぎさ)神社
白鳥橋を渡り左に折れて百五十四号線を南南西に進み、愛知時計電機正門前を過ぎ船方南交差点を渡ると愛知機械工業(旧愛知航空機)がある。その北側に波限神社(熱田区1番2-44)が鎮座する。
當神社は慶長十五年加藤肥後守清正公ガ名古屋城築城ニ当リ運搬船ノ度々遭難セルヲ憂エ堀川河口ニアリシ小島ニ一宇ヲ建立シ日向国鵜戸神宮ノ御霊代ヲ祀リ御尊名ノ彦波限ニ因ナミ波限神社ト御命名シ海運守護ヲ祈願シ深ク信仰セリ 由来村民ノ崇敬厚ク全村頗ル祐福ニシテ平和デ幸福ナ生活ヲ営メリ是シ偏ニ神社ノ御守護ノ賜デアリ海上交通安全 安産 縁結ビノ神トシテ遠方ヨリノ参拝者多数アレリ
小島ハ現在ノ千年船方ニシテ御社ハ白鳥橋ノ旧渡船場南方三百米ノ堀川河畔ニアリシガ昭和十四年十月愛知時計ノ発展拡張ニ伴イ現在地ニ御遷座サレタリ
然ルニ昭和二十年三月十九日ノ空襲ニヨリ本殿拝殿等御立派ナ建造物ヲ全部烏有ニ帰シタリ
以後時ヲ経テ昭和四十九年十二月漸ク復興再建シ宮司ト責任役員ノ両名御本宮ノ鵜戸神宮ニ参宮シ御分霊ヲ御受シ昭和五十年二月一日御遷座祭ヲ斎行セリ。


波限神社が鵜戸(うど)神宮からお受けしたのは、神武天皇の父君の御分霊で、その系譜は霧島神宮の由緒書きによると、次のとおりである。
天祖・天照大神(伊勢神宮)
天忍・穂耳尊(英彦山神宮)
天孫・瓊々杵尊(ににぎのみこと:霧島神宮)
彦火火出見尊(ひこほほでのみこと:鹿児島神宮)
鵜や草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと:鵜戸神宮)
神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと、神武天皇:宮崎神宮)

ここでいう空襲とは、三月十二日(9.「キリシタン処刑地跡・栄国寺」参照)に続く二回目の名古屋市街地への夜間低高度焼夷弾爆撃のことで、B-29三百十機が出撃し二時四分から二時間四十分にわたって爆撃を加えた。

大正十二年(1923)以来、千年船方の地は航空機を始めとする兵器生産の一大拠点として急速に発展した。昭和二十年(1945)六月九日、B-29の奇襲を受けて壊滅し、白昼の惨劇の舞台になった。この悲しむべき事件については、次集(第四集「熱田・豊川空襲」)で詳しく紹介したい。