史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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白鳥橋の東袂で国道1号線を渡り、堀川左岸沿いに南に下る。右手の秋葉神社の前に次の立札がある。

熱田魚市場跡
東海道宮の宿に栄えた魚市場。天正年間(1573~)にはすでに魚問屋があり織田信長の居城清洲に日々魚介類を運んだといわれる。寛永年間(1624~)尾張藩政のもとに、木之免(きのめ)・大瀬戸に四戸ずつ問屋ができ、市場が開設された。以来藩の保護により近海はもとより遠海からも魚介が運び込まれ、毎日取引が行われた。


堀川と、東からやって来た新堀川とが合流するところが七里の渡(熱田区大瀬子町)である。対岸には、小型貨物船が数隻停泊している。 朝日橋から堀川に沿って七里の渡まで、地図上で測ってみると七・四キロあった。七里の渡には次の立札が立っている。

七里の渡
宮(熱田)の宿・神戸の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。 文政九年(1826)オランダ使節に随従して江戸へ参府するドイツ人医師シーボルトと名古屋の本草学(注参照)者・水谷豊文、その門下生・伊藤圭介、大河内存真らと会見し、教えを受けた。後の名古屋の医学・植物学の研究に多大の影響を与えた。


(注)本草学(ほんぞうがく):中国の薬物学で、薬用とする植物、動物、鉱物につき、その形態、産地、効能などを研究するもの。薬用に用いるのは、植物が中心で本草という名称も「草を本とす」ということに由来するという。神農氏がその祖として仮託されるが、古来主として民間でのさまざまな経験が基礎となって発展したもので、梁の陶弘景、唐の陳蔵器らが各時代の整理者として名高く、明にいたって、李時珍によって集大成された。日本では奈良朝以降、遣唐使によって導入され、江戸時代に全盛をきわめた。貝原益軒以後は、中国本草書の翻訳、解釈などにとどまらず、日本に野生する植物・動物などの博物学的な研究に発展し、明治に至って、主に植物学、生薬学に受け継がれた。

尾張の町医者の子・伊藤圭介はその後長崎に遊学し、鳴滝塾(注参照)に学んだ。学業を終えて帰郷するときシーボルトから贈られたツユンベリーの「日本植物誌」を研究して「泰西本草名疏」を著し、リンネの植物体系を初めて日本に紹介した。明治十四年東大教授となり、二十一年我が国最初の博士号を授けられ、三十四年九十九歳で死去した。東京都文京区小石川植物園と縁が深く、明治八年ここに勤務、十三年に担当を命ぜられ、十五年にはここで東京植物学会創立の会合を開いている。
(注)鳴滝塾の跡地(長崎市鳴滝)は保存され、シーボルト記念館が建っている。

■西浜御殿址
公園から道を北北東に取り、二筋目を左に入ったところが西浜御殿址(内田町)である。
西浜御殿は承応三年(1654)三代藩主光友が造営したもので、その規模は東西三十六間(約六十五メートル)、南北三十三間(約五十九メートル)に及び、豪壮なものであったといわれ、維新前まで幕府の高官や公家、大名の客館として使用されていた。
正殿は安政年間(1854~59)成岩(なるわ:半田市)常楽寺に移し、残る諸館も明治六年(1873)売却され跡かたもなくなった。 ちなみに広重らが描いた熱田の浜の浮世絵に見える城郭のような建物は、東浜御殿の一部で、これは初代義直により築かれた。

東浜御殿は、寛永十一年家光の上洛に際しその宿館として海浜を埋め立てて造営した。東西六十三間(約百十五メートル)、南北五十五間(約百メートル)の広さを持ち、海中に独立して一つの橋で陸地と結ばれていた。今の内田橋辺りにあったといわれる。

■蓬莱軒
伏見通に出たところに、「暇つぶし」ではなく、「ひつまぶし」で有名な蓬莱軒本店(陣屋:神戸町、ごうどちょう)がある。昔、熱田神宮(熱田さん)の東門内に神宮店があった。この店は今、南門外に移転している。調理場をのぞくと、蒲焼を包丁で切り刻んでいるので、何をしているのか不思議に思った。帳場の女将に聞いたら、「ひつまぶしを作っています」といわれ、その瞬間「ひつまぶし」を知らないのは自分だけらしいと感じて、「それは何ですか」と重ねて聞きたくなったのを押し止めた。

  蒲焼も、名古屋では白焼きと本焼きの二度焼きだが、東京・長崎では白焼きに蒸焼きと調理法が異なり、それぞれに熱心なフアンが居る。普段、お目にかかることのない鰻の骨の油揚げが酒の肴に良い、という人もいる。

長崎県の多良岳から流れ下る本明川は南から東に向きを変えて諌早市内を貫流し、諫早湾に注いでいる。この川でとれた鰻を料理する店が市内に数軒ある。昭和三十二年(1957)の集中豪雨による本明川の氾濫で、行方不明者九百九十二人という大きな被害を受けたばかりか、川が荒れ天然鰻は激減した。諫早湾干拓は、更に状況を悪化させているのではないだろうか。ここでは、小さな素焼きの土器の底に高温のお湯を入れ、中の鰻を程よく蒸したところでそのまま食膳に供される。客はやけどしないよう気を配りながら、蓋を取って出来上がったばかりの蒲焼を賞味する。

蓬莱軒の横で陸橋を渡り、道を東南東に取ると、大津通に出る。すぐ左手が伝馬町交差点である。伊勢湾台風の時、海水がここまで上がってきた。
ここでまた陸橋を渡り、一号線と平行して南一筋目を行く。現代の東海道は、陸橋を頻繁に渡らねばならない。

■裁断橋
そのうちに、裁断橋(熱田区伝馬2)があった辺りにさしかかる
。 裁断橋は、宮の宿に東を流れる精進川の東海道筋にかかっていて現在の姥堂の東側にあった。天正十八年(1590)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原に陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。 三十三回忌に当り、再び架け替えを志したがそれも果たさずに亡くなり、養子が母の遺志をついで元和八年(1622)に完成させた。この橋を有名にしているのは、その擬宝珠に彫られている銘文である。仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を渡る旅人に多くの感銘を与えた。同時に、かな文の表現力の細やかさにも感心させられる。現在は裁断橋も更に縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。
その銘文を次に掲げておく:
てんしゃう十八年二月十八日にをたはらへの御ちんほりをきん助と申十八になりたる子をたゝせてより又ふためとも見さるかなしさのあまりにいまこのはしをかける成はゝの身にはらくるいともなりそくしんしやうふつし給え いつかんせいしゅんと後のよの又のちまで此かきつけを見る人は念仏申給へや卅三年のくやう也
現代語に直すと:
天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す十八になりたる子を立たせてより、又二目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架けるなり。
母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え。
逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此の書付を見る人は念仏申し給へや。卅三年の供養なり。


■徳川家康幼時幽居地
裁断橋より二つ南の筋に徳川家康幼時幽居地がある。
松平竹千代が人質として駿府に向う途中、渥美湾を船で横切って田原に上陸したとき、領主戸田康光にあざむかれ尾張の織田氏のもとに送られてしまった。義元は信秀の長子信広(信長の兄)の守る安祥城(安城市)を下し、人質の竹千代と信広を交換し、竹千代は二年半ぶりで岡崎に戻った。それもわずか半月ほどのことで、こんどは駿府へ今川氏の人質として行かねばならなかった。 古渡城(10.「千本松原とその周辺」参照)にいた織田信秀は、羽城の加藤図書助順盛に竹千代をかくまうよう依頼した。羽城は川・堀・海に囲まれた輪曲であり、幽閉には格好の場所であったろう。いまは人家になっており、塀の内側から突き出た立札に次のように書かれている。
松平竹千代、後の徳川家康が天文十六年(1547)八月、六歳のとき、織田信秀のために人質となって、この地熱田の豪族加藤図書助順盛の屋敷に幽閉された。またこのあと、那古野城内天王坊にも幽せられたといわれる。天文十八年十一月、竹千代八歳のとき岡崎に帰った。

■熱田神宮
最後に、熱田神宮に戻る。全国的に著名な神社であるから多言を要しないと思うので、要点だけ記しておく。
熱田神宮(熱田区神宮)は、
 熱田神宮の祭神:熱田大神
 相殿神:天照大神・素盞鳴尊(すさのおのみこと)
 日本武尊(やまとたけるのみこと)
 宮簀媛命(みやずひめのみこと:日本武尊の妻)
 建稲種命(たけいなだねのみこと)
を祀っている。
第十二代景行天皇の御子日本武尊が、伊吹山に住む山神の毒気に触れ、急いで都に帰る途中、伊勢国能褒野(のぼの:三重県亀山市)で亡くなった。
九世紀に編纂された「熱田太神宮縁起」では、日本武尊の死後、氷上の里で草薙剣を守ってきた宮簀媛命が、身の衰えを憂え、神剣を奉るべき社地を熱田の地に求め、社を鎮座したのが熱田神宮の始まりであるとする一貫した叙述がなされている。

熱田さんの東南にある曹洞宗補陀山円通寺は尾張氏が熱田神宮内に神宮寺として建立し、弘仁年間(810~24)弘法大師が自刻の十一面観音像を安置し、円通寺と命名したといわれる。通称秋葉山という。

本章の記述には、日下英之著「熱田歴史散歩」(風媒社)他を参考にしました。