史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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「島原城」は寛永元年(1624)から7年の歳月をかけて、森岳という小山に築城された。ここを訪れた時、島原城を取り囲む堀に沿って植えられた桜の木は満開だった。
フロイス「日本史」には、島原半島でのキリスト教の布教は島原から始まったと記されている:
大村純忠の父で有馬領主・有馬晴純(仙巖)は純忠が洗礼を受けたその領内で伴天連が布教してもよいという許可を与えた。晴純の子で純忠の兄・義貞は口之津港を教会に提供するとか領民をキリシタンにしてもよいと肥前国・横瀬浦にいたトルレス師に伝えた。 1563年6月26日、修道士ルイス・デ・アルメイダ(1525-83)は横瀬浦を発ち、島原に赴き義貞から領内の布教の許可を得て、安徳経由口之津に入り布教を開始した。

義貞の子・晴信の時代に入ってからも、キリシタンは土着の仏教徒との闘争を重ねながら、口之津から天草五島へと教勢を伸ばして行く。口之津の西隣の町・加津佐では仏教徒が小島の洞穴に隠匿した多数の仏像を、勝ち誇ったフロイスらが焼き払うなどの暴挙を行った。この頃、有馬氏は南に島津(薩摩)、北に竜造寺(肥前)と二つの強敵に挟撃されるという未曾有の危機に陥った。天正12年(1584)3月24日竜造寺隆信は1万2千人の軍勢を率いて島原半島東岸を南下し、有馬の前衛・森岳城を下し、本拠・日野江城を攻略しようとした。そして先ず島原北方2キロの沖田畷で僅か6千3百人の島津・有馬連合軍と激突した。隆信は不覚にも討たれ、絶対優勢にあった竜造寺勢は敗退し、有馬氏とその庇護を受けていたキリシタン達はかろうじて命脈を保った。その短い安寧の時代は1587年、秀吉が九州を平定し博多でキリスト教禁止を宣言するまで続く。

島原城内に、長崎平和祈念像の作者で有名な彫刻家・北村西望の記念館があり、「喜ぶ少女」像や「平和祈念像」の等身大木型模型と原型模型が並べて展示してある。生れ故郷の有馬町に西望公園がある。長崎市丸山には西望さんがひいきにした料亭青柳がある。