史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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桜満開の島原城前の姫松屋で島原名物・具雑煮を食べたあと、251号線を雲仙に向け出発する。西側に眉山の全景が見える。寛政4年(1792)大地震によって眉山南面が突如崩壊し、大量の土砂が有明海に向け崩れ落ち、対岸の肥後に津波となって押し寄せ多大に被害を与えた。仰ぎ見る山の南面の輪郭が何となく不自然なのは、その災害の傷跡を今に残しているからであろう。また、沖に散在する九十九島もその崩れ落ちた土砂で出来た。

自然の惨害は繰り返す。平成2年眉山の西側に位置する普賢岳から噴煙が上がり、翌年5月に初めての土石流が水無川流域に発生した。長崎空港に向かう航空機はこの噴煙を避けた航路を取らざるを得なくなった。その後、大火砕流が頻発し、被害が拡大した。平成7年2月溶岩ドームの成長が停止したので、大規模な復興活動が始まった。

黄色の溶岩ドームが生々しい普賢岳の頂上や山麓に作られた幾つかの防災ダムを眺めながら、57号線を雲仙岳に向かう。ジグザグの山道を登って行くと雲仙ゴルフ場前に出る。長崎県営だったこのゴルフ場はこの度、雲仙ゴルフ場株式会社として生まれ変わりリニューアルオープンした。フエアウエイのボールを掠め取るカラスは今も健在で、私も被害に遭った一人だ。先ほど仰ぎ見た普賢岳の頂上がすぐそこに見え、その降灰の中でプレーした昔が懐かしく思い出される。

大正2年(1913)8月14日、正式にオープンした9ホールの雲仙ゴルフ場は日本最初の大衆向けゴルフコースとなった。これより数年前にオープンしていた「神戸ゴルフクラブ」始め、横谷と根岸にも各々ゴルフ場があるにはあったのだが、いずれも神戸、横浜に住む外国人が自分達専用のために作ったものであった。これらとは対照的に雲仙ゴルフ場は、ゴルフそのものが日本人にはまだ馴染みの浅い時代であったにも拘らず、県営公園内につくられ、当初から地方自治体によって運営された。(ブライアン・バークガフニ「花と霜」長崎文献社)

長崎在住の外国人が昔、長崎の東、直線距離で約40キロにある山岳避暑地・雲仙へ行くには、先ず人力車で市内から近くの茂木港へ、橘湾を横切って小浜まではランチ、下船後避暑地までの長い上り道は駕篭または馬を利用した。(同上)

江戸時代初期、農民だけでなくキリシタンに対する追求も厳しく、島原では改宗を拒否した信者を雲仙の熱湯をかける虐殺がおこなわれた。雲仙地獄に次の碑が建立されている:
キリシタン殉教碑
キリシタンが厳しい弾圧を受けていたころ、幕府は改宗を迫る手段として、温泉の熱湯をかけるというひどい仕打ちを行っていました。寛永4年(1627)からの7年間にこの地方で殉教して行った者は33名といわれています。この地獄を見下ろす丘の上に建っている十字架は、今なお殉教の信者をたたえています。
環境省・長崎県