史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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島原から海岸沿いに南下すると海側に見えてくる台地が原城址である。

江戸時代に入ると、キリスト教禁制の制札が全国に掲げられキリシタンは追いつめられて行った。この頃幕府は諸大名の力を抑えるために、諸藩に本来より多い石高を設定したため、最終的には農民に重い負担がかかった。そして年貢を完納できない農民に対してしばしば見せしめにひどい刑罰が加えた。有名な「蓑踊り」とは、年貢を納められなかった百姓を蓑(みの)でしばりあげ、生きたまま火を付けるというものである。熱さのあまりもだえる様が踊っているように見えるということでこの名前が付いた。

1634年から1637年までひどい凶作が続いたがそれでも島原藩は例年通り年貢を取り立てる。餓死者が相次ぎ、農民たちは困窮極り遂に島原の乱が起った。天草でも農民は困窮し、これにキリシタン大名・小西行長の遺臣達が謀って天草の乱を起した。唐津藩富岡城代・三宅籐兵衛は本渡で一揆勢との合戦で戦死する。両叛徒は島原湾に浮かぶ小島・湯島で談合し、共に原城址にこもることに決した。ここに籠城した老若男女約3万7千人。幕府・各藩の包囲軍12万人は、寛永14年(1638)2月陥落させた。籠城した者老若男女はことごとく討ち取られ、その首一万は城下に晒された。首魁・天草四郎らは長崎で晒された。それらの首を有馬、天草と長崎の三ヶ所に分けて葬り、首塚または千人塚と呼んだ。長崎の千人塚は今日の駅前通に面する白いコンクリート造りの天理教会辺りにあった。

原城址は島原湾沿いの南北に長い台地上にあり、今は樹木の少ない干乾びた大地が広がっているのみである。開戦初頭、幕府からの征討使・板倉重昌が池尻口で戦死する。今は車が楽に通過できるくらい緩い坂だが、当時は攀じ登るのも困難な絶壁だった。本丸は台地南方の小高いところにあり、ここで最後の攻防戦が行われた。その北側が谷になっており、この最も安全と思われる地域に大勢の非戦闘員の老人や女子供達が雑居していた。こうして幕閣を揺るがした反乱は鎮定され、鎖国令を経てキリシタンにとっては過酷極まりない江戸時代が続く。