史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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長崎港や伊豆大島・波浮港は古い火口跡に海水が流入してできた天然の良港とされる。湾の形や水深が深いことからして口之津も同様の経過で誕生したのではないかと考えられる。

口之津の歴史上著名な出来事は次の二点である:
1. 16世紀後半、ポルトガル船が寄港し、宣教師達が日本各地を往来する玄関口になったこと。 特に天草への伝道の拠点になった。 2. 18世紀後半から、三池炭鉱が産出する石炭を輸出する中継地として繁栄したこと。大勢の男女労働者が三池港から入港した平底船から石炭を背負子に入れ、舷側の高い外洋船に運び上げる作業に従事したので、口之津は空前の賑わいを呈した。大正11年(1922)、石炭産出元の三池内港に大型船舶が入港できるようになったため、口之津は中継港としての役割を失い急速に没落した。

フロイス「日本史」には、この地がキリスト教伝道に重要な役割を果したことが記されている:

1563年6月26日、修道士ルイス・デ・アルメイダ(1525-83)は横瀬浦を発ち、島原に赴き(有馬)義貞から領内の布教の許可を得て、安徳経由口之津に入り布教を開始した。

アルメイダは島原に赴き、そこから五里離れたところにいる(有馬)晴純を訪れた。晴純はアルメイダを歓待し、口之津での布教を許した。トルレス師は小船に乗り込み、高瀬からまっすぐ口之津に赴いた。

義貞は父晴純が自分の家臣であるかのキリシタンをその領内、それも有馬に近い口之津で受け入れたことを苦々しく思った。晴純は、島原を追われたキリシタンたちの妻女と家族は口之津に止め、男たちはそこから三里手前の志岐の島へ行って、そこで事件が円満に解決するまで五十日間滞在させることとした。

平戸から伴ってきたルイス・フロイス(1532-97)師をガスパル・ヴィレラ(1525-71)師の後継として堺から都に送り出したアルメイダは1565年5月15日に堺で乗船し13日を経て豊後に至り、二年ぶりで臼杵に豊後の国王・大友宗麟を訪ねた。そして海路と陸路をとって八日間で島原に着いた。そこで25日か30日前に口之津港からそこに来ていたトルレス師に会った。この町の領主であった義貞はトルレス師を訪ねる気になり、デウスのことについて若干の説明を受けた。

1566年1月15日、アルメイダは口之津から35里ほど離れた五島に向け口之津で乗船した。五島での布教の後、福田を経由して口之津に帰りその地で20日間、全く元気になるまでヴイレラ師のもとにいた。

口之津に向い合う天草は五人の殿に分割され、その一人は志岐という土地の名から志岐殿と称する。この殿は有馬領主・有馬晴純の息子の一人を子供の代りに引き取っているので、トルレス師は家臣たちを聖なる福音の吉報へ招きよせることが適切だと考えた。五島布教から帰ったばかりのアルメイダがこの新たな志岐で布教を始めるために派遣された。1568年にガスパル・ヴイレラ師が志岐に赴いてしばらくそこに居住し、600人が洗礼を受けた。

ガスパル・コエリュ師が純忠の領内でその地のキリシタンたちの世話をしていたときに、義貞は彼のもとに使者を派遣して、非常に重大なことで若干ご相談したいことがあるので、出来るだけ近いうちに口之津に来ていただきたい、と伝達させた。コエリュが口之津に着くと義貞は、「デウスのこと、ならびにその神聖な教えが清純であり真理であることが非常によく判った。そして、もうここまで理解するに至ったので、キリシタンになろうと決心した。自分が口之津に出向き、そこで特に説教を聴聞し、その地においてただ予の家臣数名といっしょに洗礼を受けられるようにして欲しい」といってよこした。こうして義貞は口之津でコエリュ師から洗礼を授けられた。家臣たちは殿がキリシタンになったことを知るやいなや、口之津の司祭のところに直行してキリシタンになった。

1579年、ナポリ国籍のアレシャンドゥロ・ヴァリニャーノが巡察師として来日した。巡察師がマカオから口之津の港に到着すると、有馬殿が司祭を訪ね挨拶に来た。その答礼として師は有馬に赴いた。有馬殿はついには、自分はキリシタンになろうと言うまでになった。だが師は有馬殿の申出に応ずることを、他のより熟した適切な機会まで持ち越すこととした。

この地のキリシタン宗団は三つの管轄区に分割された。第一区は有馬で、そこに日本人の少年のために神学校を作ることに決めた。第二区は有家で、そこに新鮮な庭を有する教会が建てられた。第三区はキリシタンたちが古くから住んでいる口之津の港である。そこの司祭館は司祭たちが各地を巡回する際の宿舎に当てている。

有馬殿には高来への入口の一つである千々石に向き合った小浜と言う城しか残っていなかった。そこから先僅かのところに串山と言う別城があり、そこから加津佐まで二里の距離がある。そこから半里の口の津はマカオへの定航船が入る港の一つである。その先に日野江と呼ばれる有馬の城があるが、そこは有馬殿の居城で、口之津から二里離れている。ここに下地方の神学校がある。有馬の先、約半里のところに有家があり、立派な教会と高来における主要なキリシタン宗団がある。そこから日本の一里近く先に進むと堂崎の城があり、そこで有馬領は他領と接している。その先は有馬殿に叛起した深江城があり、そのため安徳と呼ばれる他の城も強制的に謀叛に加担させられたが、同城は後にふたたび有馬殿の麾下に戻ってきた。深江から一里近く先に島原が続くが、それは有馬に次ぐ有馬領の主要な領地で、そこの城主は有馬殿に反逆した首魁であった。そこから先はかっての有馬領であった三会、多比良、神代、その他の諸城が続いている。
(この後、天正12年(1584)3月沖田畷の戦が始まる)

 和暦  西暦  主な出来事
 貞観11  869  島原沿岸の豪族、海への関心を高め、港町としての性格を現す。この頃、口之津の地名おこる。(有明海の入口にある港{津}なるをもって口之津の地名が起ったと言われる。)
 永禄5  1562  有馬義直、口之津を開港。
 永禄6  1563  ルイス・アルメイダ、島原を経て口之津に来て250人を洗礼する。口之津に教会を建てる。
 永禄10  567  南蛮船、口之津に入港する。
 天正7  1579  巡察使ワリニヤーノ、口之津に来る。口之津教会に於いて全国宣教師大会を開く。
 寛永7  1630  日本最初の洋画家とされる山田右衛門作(与茂作)、油絵を書く。
 寛永14  1637  12月、島原の乱起る。教徒500人が松倉倉屋敷を襲い、庫奉行を殺し、米・鉄砲・弾薬等を奪う。
 寛永15  1638  2月、城内に食料弾薬尽き原城落城。口之津の参戦者全員戦死。
 享保4  1719  唐船、口之津唐人町に来航。
 明治9  1876  口之津港より石炭を積出す。三池→口之津→長崎→上海の経路。
 明治11  1878  5月、長崎税関口之津支庁開設し、口之津より石炭直輸出を始める。
 明治21  1888  この頃から、口之津より「からゆきさん」出る。
 明治39  1906  この年、口之津の石炭輸出最高となる。年90万トンに達し、口之津全盛期となる。
 明治42  1909  三池港完成により、口之津入港船舶激減し、凋落の兆し見え始める。
 大正11  1922  1月、三池内港に大型船舶の入港が可能になったため、口之津入港船舶は全部三池に入港することとなる。
 昭和41  1966  8月、口之津-鬼池フエリー運航開始。