史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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天正遣欧少年使節団は、天正10年(1582)正月28日に八年五ヶ月ぶりで長崎に帰着した。その時の模様を「日本史」は次のように語る:

(千々石)ドン・ミゲルは、シナ(マカオ)から日本への航海中、終始病んでいたので、船が長崎に着いた時にも病床にいた。出迎えに行ったドン・プロタジオ(晴信)は、巡察師や(伊東)ドン・マンショ、その他の貴公子たちと最初の挨拶を交わした後は、まっすぐに(千々石)ドン・ミゲルを見舞いに行き、初回には三時間またはそれ以上長く彼の部屋でともに過し、種々のことを語らい、ある程度過分と思われるほどの大いなる愛情を示し、彼も鄭重に応じ、すでに彼が海外で見物したことや教皇ならびにキリスト教界の諸王侯から受けた栄誉と恩恵のことを詳細に報じられていたので、それらを体験した彼がうらやましいと語った。そして教皇聖下ならびに(フエリーぺ国王)陛下が使節一行をどれほどの寛仁さをもって遇せられたかを知ると、ドン・プロタジオは、以前には分らなかったことが今こそ諒解できたと言い、また今承知したことをもっと早く知っておれば、ドン・ミゲルと同年輩である自分の弟ドン・リアンを遣わしたであろうと述べた。

天正遣欧使節の計画はヴァリニャーノが長崎を出発する二、三十日前に発案した。松田毅一氏は「南蛮巡礼」(中央文庫)で、四人の少年使節について次のように述べている:

後に使節の主席になった伊東マンショは、父修理亮祐青は死んでしまい、母の町の上は再婚するという有様で、大分の町をみすぼらしい孤児同様の姿でさまよっていた。それを大分の教会にいたイスパニア人の司祭ラモンがかわいそうに思い、教会に迎え入れて島原半島の有馬にキリシタンの学校が設立され、素性の良い少年を募集していたので、そこへ二年前に派遣した。
有馬鎮純、この人は鎮貴、ついで晴信と名を変えたが、この有馬公と大友純忠とは甥と叔父の関係にあたる。そこでこの二人の名代として、有馬純貴には従兄弟、大村純忠からは甥にあたる千々石ミゲルという少年が選ばれた。彼は純忠の弟千々石直貴の息子であるが、日本名はわかっていない。
この伊東マンショと千々石ミゲルが正式の使節であるが、さらに副使節として二人の同じような年頃の少年が加わった。その一人は原マルチノで、長崎県東彼杵郡波佐見の出身で、大村純忠の義兄弟にあたり、原中務の息子と資料に書かれている。他の一名は中浦ジュリアンといい、ジングロー、またはジンクロと称した人の子供である。
(注)中浦ジュリアンは長崎県西彼杵郡中浦南郷(現在の西海市)の中浦城主甚五郎の子とされる。彼の居館跡に隣接して「中浦ジュリアン記念公園」がある。

使節は帰国後、ヴァリニャーノに伴われて上洛し、聚楽第で関白秀吉に謁見した。その後の運命は次の如くであった:
使節の主席の伊東マンショはイエズス会の修道士となり、島原半島の有馬の神学校で助手として活動し、1612年11月13日にイエズス会の司祭として長崎で世を去った。
千々石ミゲルは、イエズス会に入って天草の学校で勉強を続けていたが、1603年ごろにはイエズス会を脱退したのみならず、教会の迫害者の側に立ったことは間違いないようである。
副使節の原マルチノは、イエズス会の出版事業に貢献し、関が原の合戦のあった1600年には司祭に叙せられたが、1614年に徳川幕府の大追放令が発せられたときにマカオに流され、そこで1629年に死去した。
中浦ジュリアンは、天草の学院で勉強した後にマカオに行き、司祭となって日本に戻り、迫害下に博多や京都、有馬に姿を見せ、1613年以後、博多、高来、肥後、筑前、豊前、などと九州で活動し、1633年10月21日に長崎で穴吊りの刑に処せられて殉教した。殉教のさいに「我こそはローマに赴いたジュリアンである」と絶叫したと伝えられる。