史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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島原半島西岸に沿う国道251号線を、陽春の桜並木を縫って小浜から口之津方面に向け南下する。目指すは十六世紀にキリスト教文化が繁栄した加津佐町。時おり降りかかる驟雨の中、右手に橘湾を見ながら約二十分で加津佐に入る。カーナビの助けを借りて、迷うことなく車を町役場前に乗りつける。この四月からは市町村合併により南島原市加津佐支所となった。その二階を訪れて応対に出た若い女性職員に穴観音への道案内を請う。事前に資料を読み、道中は危険かなと思っていたからだ。その上司が道筋を詳しく説明してくれ、資料も頂いたので、単独で赴く決心がついた。

もと来た道を少し戻り、小さな加津佐漁港を左に見て左折すると正面に緑に覆われた岩戸山(標高96メートル)が見える。その昔、イエズス会の司祭で「日本史」の著者ルイス・フロイスがここを訪れた頃は岩殿山と呼ばれた小島であった。その後、漁港に流入する堀川が運ぶ土砂が堆積して陸続きになった。山腹に補陀山巌吼寺が見える。

案内板に次のように記されている:
岩戸山は、古名を岩殿山と呼び、観音道場のあった霊地です。
観世音の御尊体は僧行基の作であったと伝えられています。
このいわれ深い観音堂はキリシタン騒動のため壊滅してしまいましたが、寛文11年(1671年)肥後国宇土の妙覚禅尼によって復興されました。また岩戸山にある巌吼寺は、山号を補陀山と言い、加賀大乗寺の直末直系の末寺で曹洞宗明峰派に属し本尊は釈迦牟尼仏です。 雲山愚白和尚(大乗寺26世・月舟宗胡和尚の直弟子)が島原の乱後、廃絶していた円通寺の霊地を復興する意味で大智禅師養老の地である岩戸山に巌吼庵を建て今日に至っていますが、昭和17年庵号を改め巌吼寺となりました。
平成6年9月 加津佐町

雲山愚白和尚は、島原の乱で人口が激減し荒廃した島原半島に入植してきた人たちのために仏教を再興させた。天草に赴任した幕府代官・鈴木重成の兄で曹洞宗の僧・正三も、天草にキリシタンに代るべきものとして仏教の扶植に努めた。

駐車場に止めた車から降りカメラをぶら下げて、岩戸山の長い階段を上り始める。途中の山門を過ぎたあたりで急に雨が降り出した。慌てて車に戻りジャンパーをはおり、折畳式の傘を広げて再度階段登りに挑む。上り切ったところで左折し、なおも行くと右手に中央に手すりがある上り勾配のきつい階段が現れる。これを過ぎて突き当りの建物にお邪魔し、お庫裏さんにお目にかかってご挨拶して、穴観音への道筋を伺う。道中危険はないとのご宣託を得て、安心して先ほどの階段を上りにかかる。

上り詰めた正面に岩戸観音が祀ってあった台座が残っており、その右後方から自然石を積んだ階段が先に伸びている。そこに、「穴観音370m」の標識が立つ。石段を上り詰めると切通しに着き、そこから下りに入る。目を南に向けると木の間越に遠く天草下島の北端がけぶって見える。島原湾と東シナ海をつなぐこの天草海峡は生きの良い鯛やヒラメ等漁業の宝庫である。この峠にも「穴観音280m」の標識が立っている。雨も上がったので、傘を折り畳み、ジャンパーのポケットにねじ込む。切通しの先は右に向う急な下り坂で木の間越しに海面が見える。道は再びつづら折りの上り坂になり次第に勾配が上がって海面が直下に見えてくる。

「穴観音80M」の標識を過ぎると急峻な崖の上を行く細道の海側に錆びた鉄の鎖が張ってあり、危険な雰囲気を感ずる。やがて上りの細道が行き止まり、岩交じりの土くれをよじ登って左に曲がる急な難所にさしかかる。岩に打ちこまれ、コンクリートで固められた鉄の取っ手があるが左手でこれを支えても次の右手をどこに懸けて体を持ち上げるかが問題だ。あたり一面滑りやすい笹の枯葉で覆われている。もし体を支え切れなければ滑り落ちて眼下の海に転落してしまうだろう。やっと踏ん切りをつけて、恐る恐る体を持ち上げ最後は腹ばいになって左手のやや平坦な道に夢中で這い進んだ。後を振り返って帰りはどうやって通り抜ければよいか心配が頭をよぎった。そこに座り込んだまま記念にと、この危険な難所の写真を撮る。冷や汗が顔面を伝う。

気を取り直してさらに上がって行くとすぐ巨大な洞窟に行き着いた。内部は土壁の大きなドームになっており、小さなお堂の中に観音さんがお立ちになり周囲を十数体のお地蔵さんが取り囲んでいる。目的の穴観音である。十六世紀にフロイス等がここにやって来て、キリシタンの目に触れぬよう避難していた数多くの仏像を壊したり、焼いたり、持ち帰ったりした現場だ。洞窟の入口から外を見ると青空を背景に、天草灘の素晴らしい景観が広がる。

1587年、秀吉がキリスト教を禁止するまでは、この地方では仏教徒がキリシタンに虐げられる弱い立場にあった。フロイスは「日本史」に次のように記している:
副管区長(コエリュ)師は口之津にいた時に、有馬から退去した仏僧たちは、彼らの僧院にあった仏像の安全をはかって、それらを、かのもっとも安全な場所である小島に隠匿しているに違いないという考えをしばしば抱いた。そこで我らは、それらの偶像を破壊したいという望みに駆られて、某日、食事の後、その洞窟に向った。副菅区長の司祭と二人の修道士、それに私と司祭館にいる数人の若者たちであった。鎖がある場所の近くまで来た時に、我らは長い棒と板を上の方で探させ、それによってたいして危険を冒すことなく洞窟の入口までとおって行くことができた。司祭たちがその場所に着くに先立って二人の修道士が洞窟の中に入った。彼らは若者であったから、洞窟の中にいったい何があるかを容易に見たい気持に駆られたからで、他の日本人たちも彼らと一緒に中に入った。はたして副管区長が考え疑っていたとおりのものが事実そこで発見された。祠は、仏僧たちが各地の寺院からもたらしてそこに隠匿していた種々の仏像でほとんどいっぱいになっていた。いずれも不思議な形をしていたものばかりであったが、実に丹念、かつ絶妙に造られていて、この種のものではそれ以上のものは考えられないほどであった。我らは少しずつそれらを取り出していき、大きい仏像だけが残った。それらは分断しなければ、そのまま入口から外に出すことができなかった。だが彼らは仕事を早めるためにそれらに火をつけた。礼拝所や祭壇も同様にした。それらはすべて木製で、燃やすにはうってつけの材料であったから、暫時にしてことごとくが焼滅してしまった。
(松田毅一訳「日本史」中公文庫、第二部三十六章)

キリシタン研究家の松田毅一氏もこの地を訪れ、次のように記している:
さて、フロイスより383年の後、その足跡を訪ねて私は岩戸山へ征伐ならぬ巡礼の杖をひいた。 現在、岩戸山にある巌吼寺は、島原の乱以後の慶安四(1651)年の建立であり、岩戸観音は、三百年前に建てられたものだが、このあたりは、往昔、僧院の諸建築が併び立っていたのである。鬱蒼たる樹林や藪の急坂を攀じ登ると、峨々たる岩盤に出る、断崖に沿って、なるほど、小道があり、岩に足をかけるための穴がいくつも点々と彫り込まれている。片手でぐらつく鉄棒の鎖を持ち、片手を崖に託し、岩の重みに足をかけて攀じ登るのだ。 この岩の重み、それこそ我が待望久しい南蛮バテレン・フロイスの足跡ではないか! 対岸には二江、志岐、富岡あたりの天草下島を指呼の間に望む。岩盤の足をかける窪みは、僧行基の開くところともいうから、じつに一千年来の巡礼の足跡の集積にしろ、人工的に造られたものにしろ、一筋道なればフロイスの足跡には違いない。私は一歩一歩感慨を噛みしめて岩を攀じ登った。眼下をながめると、断崖絶壁、小心者はおびえ、遊山の客は天下の絶景と讃えるであろう。そこに天草灘の波濤が飛散っている。フロイスがこれを「目がくらむ思い」と記したところよりすれば、彼はやはり誇張癖の持ち主というべきか、あるいはかなり臆病な性格であったというべきであろうか。
(松田毅一「南蛮巡礼」中公文庫、P133-134)

帰りの難所は砕ける波を眼下に、私はお尻を少しずつ滑らせながら慎重に下り、無事細道に降り立った。車に辿り着くと早速、役場の親切な課長さんに電話を入れ、無事目的を果たしたことを報告した。

この事件が起きたのは、遣欧少年使節が長崎を出発した1582年(天正10)のことであった。後年、徳川家康が禁教令を出し、1637年(寛永14)に島原の乱が起る。こうして仏教徒が逆にキリシタンを迫害する世の中に移って行く。加津佐町編「加津佐(ふるさと史跡めぐり)」は、島原の乱後、キリシタンの残党狩りはいよいよ厳しくなり、人の容易に行けない岩戸山の洞穴に隠れたキリシタンどもが役人に捕われるという話 を紹介している。

過去にも戦国時代の宣教師達の足跡を探訪したことがある。
河内三箇(さんこ)から岡山に至る半里足らずの道がある。三箇には三箇マンショの教会が、岡山には結城氏が建てた教会がありフロイス司祭など宣教師達がこの間をしばしば行き交ったと伝えられる。距離は実測してみると3.4キロあるのだが、半里 =2キロでは差が大きい。訳者の松田毅一氏は原書の「日本史」所載の里程1レグアを1里と訳されたからである。今日の単位の辞典によれば1レグアは5.57キロとなっているから、半里は2.8キロと実測値に近い。
この道は河内街道と呼ばれ、一直線に北上し途中、左側に楠正行の墓所がある。
次は、四条畷神社から飯盛山頂に至るつづら折れの山道である。この道を修道士アルメイダが駕篭に揺られて飯盛城に滞在するヴィレラ神父を尋ねた。私は鬱蒼とした木々に覆われたこの急峻な山道を左に右に向きを変えつつ下りながら、はるばる九州から上洛して間もないアルメイダが駕篭の中で心細い思いをしたのではないか、とはるか昔を思いやった 。

加津佐町キリシタン史:
加津佐町編「加津佐(ふるさと史跡めぐり)」より抜粋
西 紀 年 号 事 項

1549

天文18

(ザビエル鹿児島に上陸)

1567

永禄10

初めてポルトガル船三隻が口之津に入港した。

1579

天正7

アレキサンドロ・ワリニヤノが口之津で宣教師会議を開く

1582

天正10

遣欧少年使節が長崎を出航した(1月)。

切支丹が岩戸観音を焼討した。

1585

天正13

宣教師ルイス・フロイスが日欧文化比較論を加津佐で書き始めた。

1590

天正18

セミナリオ・コレジオ加津佐に移る。

遣欧少年使節が帰朝した(7月)。

ワリニヤノが加津佐で全国宗教会議を開く。

ワリニヤノが活版印刷機、金属活字等を加津佐コレジオに設備。

加津佐コレジヨで「サントスの御作業のうち抜書」出版(10月)。

1612

慶長17

(徳川家康が禁教令を出した)

1613

慶長18

加津佐須崎に「るいす」の墓が建てられた。

1620

元和6

加津佐生まれの伝道士マチャス有馬で殉教。

1637

寛永14

島原の乱が起った。

1638

寛永15

原城陥る(2月)。

1642

寛永19

島原半島住民に関する奉書を幕府に提出(四国小豆島より口之津高橋家移住)

1652

承応元

巌吼寺開創。

1671

寛文11

岩戸観音造立。