史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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フロイス著「日本史」(松田毅一訳、中央公論新社刊)に、十六世紀後半、島原半島にキリスト教が広まって行った経緯が詳細に記されている。

この時期、肥前国を支配した有馬家の家系は次のとおり:
有馬晴純  ―  義貞(兄)  ― 晴信
             ― 大村純忠(弟)  ―  喜前

■布教の始まり

大村純忠(1533-87)の父で有馬領主・有馬晴純(仙巖)は純忠が洗礼を受けたその領内で伴天連が布教してもよいという許可を与えた。晴純の子で純忠の兄・義貞(1521-76)は口之津港を教会に提供するとか領民をキリシタンにしてもよいと肥前国・横瀬浦にいたトルレス師に伝えた。

1563年6月26日、修道士ルイス・デ・アルメイダ(1525-83)は横瀬浦を発ち、島原に赴き義貞から領内の布教の許可を得て、安徳経由口之津に入り布教を開始した。

島原で布教を始めて信者の数が増え始めると、土地の有力者をはじめとする仏教徒たちが反撃の狼煙を上げた。晴純は年老い、賢明ではなはだ思慮深い人物であったが、極めて熱心な偶像崇拝者でありデウスの教えの主立った敵であった。そのうえ、8月16日に肥前国横瀬浦が壊滅し、キリシタンの庇護者・大村純忠はその騒動の中で亡くなったとの噂が立った。9月20日にその知らせが島原に届くと、晴純の威光をかさにきた僧侶たちによってキリシタンは迫害され四散した。

横瀬浦を逃れた第二代布教長コスメ・デ・トルレス(1510-70)師は、豊後に服従している筑後国高瀬(*)経由で島原に赴き、そこに8日間滞在し病気療養した。そして再び高瀬に戻った。このときアルメイダは豊後に向け旅立ち、臼杵で豊後国主・大友宗麟を訪ねてトルレス師の保護を願い出た。宗麟は直ちに高瀬に置いた代官に宛て住居として一軒家を与えるべき事等を指示した書状をアルメイダに与えた。また宗麟は晴純に宛て、司祭らに関して非常に好意的な書状をしたためた。それを読んで晴純は、伴天連が自領に戻るなら自分は非常な喜びだ、とトルレス師に書き送った。
(*)現在の熊本県玉名市高瀬町、島原半島の島原湾を隔てた対岸の菊池川中流沿い

アルメイダは島原に赴き、そこから五里離れたところにいる晴純を訪れた。晴純はアルメイダを歓待し、口之津での布教を許した。トルレス師は小船に乗り込み、高瀬からまっすぐ口之津に赴いた。

ところが、有馬の家臣である伊佐早(いさはや)が突如、殿に反逆した。また、なんら嵐の徴候もなかったにもかかわらず、突如として猛烈な台風が襲いかかった。仏僧たちは、それらの災厄は殿および有馬の国主に対する神と仏の激昂の徴候であるとし、島原殿にそこで説教に従事している伊留満を直ちに追放するようにと忠告した。そこで島原のキリシタンたちは集団で口之津に逃避した。

一時、身を隠していた純忠はその頃すでに敵を制圧し次第に以前の領国を回復しており、義貞のもとに伝言を送って、貴殿の領内でキリシタンたちを寵愛し保護されたい、と勧めかつ切に要請した。義貞は領内にキリシタンは一人もいない、皆仏教徒になってしまったと虚偽の返答をした。

義貞は父晴純が自分の家臣であるかのキリシタンをその領内、それも有馬に近い口之津で受け入れたことを苦々しく思った。晴純は、島原を追われたキリシタンたちの妻女と家族は口之津に止め、男たちはそこから三里手前の志岐の島へ行って、そこで事件が円満に解決するまで五十日間滞在させることとした。

■アルメイダの登場

平戸から伴ってきたルイス・フロイス(1532-97)師をガスパル・ヴィレラ(1525-71)師の後継として堺から都に送り出したアルメイダは1565年5月15 日に堺で乗船し13日を経て豊後に至り、二年ぶりで臼杵に豊後の国王・大友宗麟を訪ねた。そして海路と陸路をとって八日間で島原に着いた。そこで25日か30日前に口之津港からそこに来ていたトルレス師に会った。この町の領主であった義貞はトルレス師を訪ねる気になり、デウスのことについて若干の説明を受けた。アルメイダはそこに到着して15日後に、定航船が始めて来航した福田港に向け旅立った。福田に滞在中、純忠から火急の呼び出しを受け、大村に赴いた。純忠はここ二年間司祭や修道士の誰とも会っていなかったので、アルメイダから説教を聴き、彼が知りたくて望んでいた数々のことを質問した。

アルメイダが大村を辞して口之津に到着後、そこに8日ないし10日滞在して病床のトルレス師を見舞った。その後、臼杵に教会や司祭館を建てるため豊後に向って旅立った。旅路の初めに海路島原に立ち寄り、この地に8日ほど滞在し毎日引き続いて説教をした。ここに滞在中に島原の殿を訪れ、殿自身の教養について語ったところ殿および家臣は非常に注意深く傾聴した。アルメイダはキリシタンたちの死者を埋葬するための地所が必要な旨殿に申し上げると、殿はさっそく当初くれた野原のすぐ近くにある三つの寄りそった小島を贈与に加えてくれた。

1566年1月15日、アルメイダは口之津から35里ほど離れた五島に向け口之津で乗船した。五島での布教の後、福田を経由して口之津に帰りその地で20日間、全く元気になるまでヴイレラ師のもとにいた。この頃、島原ではもうキリシタンは1300人に達していたので、仏僧たちや、殿の母堂もその親族たちも殿に領内にもう一人のキリシタンを留め置かないよう懇請した。殿はキリシタンたちにデウスの教えを放棄するよう説得せよと指示したが、不成功に終わり彼らは迫害を思い留まった。

平戸の殿はその異常なほどの貪欲さから、ポルトガルの定航船から得られる利益をもっとも熱望していたがことにその船が来航しなくなったのを見ると、大村純忠領の福田港に停泊していたドン・ジュアンの定航船を制圧するために最後の力をふりしぼり最大限の努力で武装船隊を派遣し福田港に奇襲攻撃をかけた。戦闘はポルトガル人と日本人との間で二時間近く続き、平戸側は多数の死傷者を出して敗退した。福田はのちにその奥の長崎湾が恒久の貿易港として選らばれるまで仮の寄港地として使用された。

■天草布教

口之津に向い合う天草は五人の殿に分割され、その一人は志岐という土地の名から志岐殿と称する。この殿は有馬領主・有馬晴純の息子の一人を子供の代りに引き取っているので、トルレス師は家臣たちを聖なる福音の吉報へ招きよせることが適切だと考えた。五島布教から帰ったばかりのアルメイダがこの新たな志岐で布教を始めるために派遣された。1568年にガスパル・ヴイレラ師が志岐に赴いてしばらくそこに居住し、600人が洗礼を受けた。

1569年に至ってトルレス師は天草の五人の殿のうち最も重要な人物である天草鎮尚の所にアルメイダを派遣した。かの殿の主な居宅は河内浦にあった。殿は彼のすべてを聞き入れ、さっそく説教を傾聴し始めた。この地でもポルトガル船を自分たちの港に来させたく願っていることから、一寒村で崎津という港をアルメイダに見せた。アルメイダはもう五ヶ月もその地に滞在していたから、トルレス師のところに行って天草で生じたことを彼に報告することとした。殿の二人の弟と家臣たちはアルメイダが出発したあと反乱を起し、殿は本渡城に追われたが志岐殿の援助を得て、猛烈な勢いでふたたび自領に突入し要地河内浦を奪還し、弟たちを追放した。殿は早速布教事業を続行してもらうため特に名指ししてアルメイダを呼ばせた。この頃、フランシスコ・カプラル(1533-1609)師は日本布教長になっていたが、彼はしばしば天草殿を訪問し、ついに殿は最終的にキリシタンになることを決心するに至った(1570年か71年に受洗)。

カプラル師と同行してオルガンテイーノ師が志岐港に来航したジャンクでやって来た。また支那からの定航船でバルタザール・ロペス師が来た。そして、トルレス師の病状はますます悪化して、1570年10月2日志岐でこの世を去った。

カプラル師は志岐から樺島(*)という島に行き、また福田を訪れた。一行はそこから長崎に行った。純忠はカプラル師がインドから来て長崎におり、そこから大村に来て自分を訪ねようとしていることを聞くと、彼は先んじてカプラル師を訪うこととし自分がいたところから七里の道をたどって最初の訪問をした。ついで彼が戻ると、カプラル師は二人の司祭とアルメイダ修道士、および数人のキリシタンを伴って大村に行き、さっそく純忠およびその地の主だった大身たちを訪問した。殿は、もう聖福音が自領で説かれ始めてから七、八年も経ったことだし、人々はそれを受け入れるにかなりよく準備が出来、キリシタン宗門の道理と真理を教えられており、今はまた日本布教長のカプラルの到着という好機が与えられたので、主だった家臣たちを集めて挨拶をしたのである。
(*)長崎半島南端

ヴイレラ師がフロイス師と堺で別れて豊後に赴いた後、フロイス師が都の地方にただ一人いるようになって、すでに七年が経過した。かれは堺に五年、都に二年いたのである。カプラル師は日本に来てこの窮状を知ると、彼が志岐から出発しないうちに、その年さっそく、彼がマカオから同行してきたイタリア人のオルガンテイーノ師を都に派遣した。フロイス師とオルガンテイーノ師とはその地において、フロイス師が上長の命令で豊後に戻るまでいっしょに留まっていた。

カプラル師は、大村から口之津や島原のキリシタンを、また同時に、純忠の兄である有馬の国主を訪ねた。そして一行は有馬から豊後の国主を訪ねて旅をした。国主はカプラル師に幾多の敬意と援助を示し、布教の繁栄のために国主に乞うたすべてのことを聞き届けた。

1572年に二人の司祭が渡来した。スティアン・ゴンサルベス師とガスパル・コエリュ(1530-90)師で二人ともポルトガルの出身であった。コエリュ師は賢明かつ高徳の人であったために、さっそくカプラル師により下地方の上長に任命され、後になってからは第三代目の日本布教長、また当地方に置かれた第一代の日本副管区長職に就いた人である。

■伊佐早の反乱

大村領と高来領との間に一人の殿がいて、その家名から伊佐早殿と称している。彼は妹を純忠に嫁がせており、有馬家とは婚姻と近親関係でも結ばれていたが、この下のあらゆる殿のうち、デウスの教えのもっとも残忍で苛酷な敵であった。彼にとっては純忠がキリシタンで、彼の領内に出うすの教えが弘まっていることは極めて気に入らぬことであった。それゆえ彼は、デウスの教えを大村領から追放し、自ら同領の独裁者になろうと決心した。伊佐早はある時、全然予期に反して大村領を襲撃し、純忠の居城から半里のところに陣営を構えた。ほとんどすべての身分の高い人たちは伊佐早と結託し、その味方になっていたので、大村の苦境は尋常でなく、純忠が陥った恐怖と困窮はきわめて多大であった。彼の家臣たちは皆彼を置き去りにして、城中で彼とともにいるのは七人に過ぎなかった。だが、二時間のうちに城内に二十五人が集まり、その数日後、城内にはすでに五百人もがいっしょにいることを認めた。こうして純忠の領地は自由になり、敵から解放された。

伊佐早の謀反があった夜、一般庶民は何が起ったか知らなかったので、純忠は死んでしまい、伊佐早がすでに大村城を占拠しているのだと語っていた。

大村と長崎との間に湾が入りこんでいるので、いかなる事態が生じたか確かなことが分らぬまま、大村方の敗北の噂は長崎まで達して、純忠は死に、全領は奪われたといわれた。長崎の集落はまだ非常に弱勢で、敵の攻撃を防御するための弾薬も必要な装備もなかった。彼らがこのように死の恐怖の中に置かれていたところ、二日目の夜一人の男が命がけで大村の城から脱出し、純忠からの伝言を伝えた。この知らせに意を強くした一同は木の柵を建て、岬を切り開いて防衛を強化した。

長崎の港から二里ほど離れ、港の入口にあたるところに深堀殿という敵が城と俸禄を有している。彼は伊佐早の兄弟であり、また純忠の奥方の兄弟にあたる。この深堀は、兄弟の伊佐早が大村を撃破した時の大成功を見ると大村領である長崎に勧告して、降伏しその地を明け渡せと伝えた。彼らはついに夜半過ぎに、我らの砦のところまで打ち寄せる満潮を利用して、六十艘の船に乗って海上からやって来た。また、多数の人員をもって陸路からも来襲し、城塞の麓に至るまであらゆるものを焼いた。司祭は人々が発進しないよう堅くいいつけたが、キリシタンたちは敵を目撃すると激昂し砦のあちこちから出撃した。敵は討たれ、砦から海路、陸路と逃走するのが望見された。

■有馬義貞

肥後国高来の有馬義貞は、大いに真理を愛好する君候であり、性格は温厚で正義の味方であり、所業は完全で、家臣の間できわめて好かれ、寛大、寛容なことで愛され、歌、すなわち日本の詩歌に造詣が深く、優れた書道家であり、統治においては老練、慎重かつ賢明であった。そして彼は久しい以前から下の地方におけるもっとも賢明な人々の一人であった有馬晴純(仙巖)の嫡出の長男であった。しかも彼は肥後国の大部分を征服したので、同国の身分の高い殿たちは多大の畏敬の念をもって彼を仰ぎ見た。義貞には大勢の兄弟がおり、その二番目の弟は大村領の殿である大村純忠であった。

ガスパル・コエリュ師が純忠の領内でその地のキリシタンたちの世話をしていたときに、義貞は彼のもとに使者を派遣して、非常に重大なことで若干ご相談したいことがあるので、出来るだけ近いうちに口之津に来ていただきたい、と伝達させた。コエリュが口之津に着くと義貞は、「デウスのこと、ならびにその神聖な教えが清純であり真理であることが非常によく判った。そして、もうここまで理解するに至ったので、キリシタンになろうと決心した。自分が口之津に出向き、そこで特に説教を聴聞し、その地においてただ予の家臣数名といっしょに洗礼を受けられるようにして欲しい」といってよこした。こうして義貞は口之津でコエリュ師から洗礼を授けられた。家臣たちは殿がキリシタンになったことを知るやいなや、口之津の司祭のところに直行してキリシタンになった。

有馬義貞は、伊佐早に自分の長男・鎮純を与えて、伊佐早がその長男を養子として受入れて伊佐早家を継がせることとする。伊佐早自らは、その長男を有馬殿に与えて有馬家の相続者にすることとなり、そのように数年間、息子の交換が行われていた。しかし鎮純が物心つく年齢に達し成長すると、自分が家臣の一人である伊佐早に養子として受け取られ、自分に奉仕するはずの者が、己が有馬家を相続するというひどく不釣合いで不平等なことに堪えられなくなった。そこで義貞は伊佐早の拘束から免れるようになった後には、その交換を取り消し、鎮純を取り戻し伊佐早の息子を返した。

1576年、義貞がキリシタンになってからまだ八、九ヶ月と経っていないのに膿?を患って重態に陥った。義貞が亡くなると、カプラル師はただちに鎮純に伝言を送り、父君は洗礼を受けてキリシタンなのだから、キリシタン宗門の儀式で葬りたいと切に願った。だが鎮純はこれを断った。鎮純がその時答えたといわれることはすべて偽りであった。

鎮純が領国の統治を継承するようになった後、貴人たちや一般の人たちも異教に立ち戻り始めた。キリシタンたちは迫害を受け、カプラル師は豊後に行き、アルメイダは天草の本渡城に行くことになった。

1577年、イエズス会員14人、すなわち司祭7人、修道士7人が渡来した。ペドゥロ・ラモン師を府内の上長として、修道士たちとともに豊後に派遣した。ゴンザロ・レベロ師も豊後に行った。ディオゴ・ベレイラ修道士は都へ、クリストヴァン・デ・レフアンとグレゴリオ・デ・セスペデス両司祭は大村へ、バルタザール・ロペス・デ・ヴィラ・ヴィソーザ師は口之津へ、バルタザール・ロペス・デ・カストロ・ブランコ師は平戸へ行った。ベルショール・デ・モーラ師は博多に行き、そこにいたベルショール・デ・フィゲレイド師は山口に移ることになった。

フィゲレイド師が陸路豊前の国に行き、小倉から海を渡って下関に行った。下関は山口の町から一日半の旅程である。ここで山口が暴君によって支配されており、布教は不可能であることを知った。フィゲレイド師は山口の門戸がこのように閉ざされていることが判ったので、豊後に行きそこで三年間滞在した。

フロイス師は都地方においてその地の布教を始めてから十四年ほどになった。そしてオルガンティーノ師がすでに事情に通じるようになったので、フロイス師は1577年1月初めに都を後にし、豊後の国に向け旅立った。そこで彼は豊後の国の上長として五年間留まった。

布教が鎮純の家督相続によって壊滅状態になってすでに二年が経過した。竜造寺隆信は戦いにおいて有馬に対し優勢を占めていたので、鎮純は叔父純忠と結びその援助と好意を要請しようとした。彼は大村にいたコエリュ師に「どうか叔父殿が自分に娘を娶らせてくれるよう殿に話をつけていただきたい」と切に請うた。純忠は一たんはこの申出を受けたが、すぐその約束を取り消した。コエリュ師は純忠がその約束を果たさなかったことで自分がどれだけ感情を害しているかを鎮純に判らせ、それで彼を満足させようとした。一方、鎮純は仲介の労をとってくれたコエリュ師に高来に来てくださるよう懇請したが、師は「父君がお亡くなりになったときに殿は何をなされたか。それによって日本の教会は侮辱を蒙ったのは、殿の責任によるものです。ですから私はそちらに行くわけには参りません」と断った。最後にコエリュ師は迎えの船に乗って高来に赴き、鎮純に面会したが鎮純は洗礼を受ける決心はつかなかった。最後に鎮純はその決心をし、家臣の多くは自ら進んでもう一度キリシタンに改宗した。

東洋諸地方の巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノはまず数年前に派遣した人たちのほかに、1578年にはより多くの人手を日本に配置することにして、四人の司祭を派遣した。彼らは支那から日本への航海中、尋常ならぬ台風に襲われてほとんど全滅しそうになった。

■ヴァリニャーノの来日

1579年、ナポリ国籍のアレシャンドゥロ・ヴァリニャーノが巡察師として来日した。巡察師がマカオから口之津の港に到着すると、有馬殿が司祭を訪ね挨拶に来た。その答礼として師は有馬に赴いた。有馬殿はついには、自分はキリシタンになろうと言うまでになった。だが師は有馬殿の申出に応ずることを、他のより熟した適切な機会まで持ち越すこととした。

1580年、定航船がイエズス会の五人の司祭を連れて来た。これらの司祭は、日本に司教がいなかったので巡察師ヴァリニャーノが日本に到着してまもなく司祭の位を受けさせるためにマカオに派遣した修道士たちであった。それはフランシスコ・ラグーナ、カリオン、ルイス・デ・アルメイダ、ミゲル・ヴァスおよびアイレス・サンシェスの諸師であった。

鎮純が今やまさに先例を受けに行こうとしていたその同じ日に、幾人かの異教徒の家臣が突如、殿に対して蜂起し、殿が有していたもっとも主要な城の一つが竜造寺に降伏してしまった。それから二、三日経つと、他の三城が殿に対して蜂起して敵に味方した。

筑後の国で、ある強力な武将が竜造寺隆信に対して蜂起したので、隆信はそのため全軍を率いてその地方に向わねばならなくなり、彼が占領した二つの城を鎮純にとり有利な条件で返還せねばならなくなった。こうして有馬殿と竜造寺との和平が成立した。教会から受けた援助がなかったならば、疑いもなく有馬殿が敗北したことは万人が認めるところであった。殿もそれについて表明するところがあり、家臣たちに対して領内から偶像を駆逐すべしと伝達した。かくて巡察師が滞在した三ヶ月の間に、大小合わせて四十を超える神仏の寺社がことごとく破壊された。

この地のキリシタン宗団は三つの管轄区に分割された。第一区は有馬で、そこに日本人の少年のために神学校を作ることに決めた。第二区は有家で、そこに新鮮な庭を有する教会が建てられた。第三区はキリシタンたちが古くから住んでいる口之津の港である。そこの司祭館は司祭たちが各地を巡回する際の宿舎に当てている。

数年前に豊後の国主・大友宗麟に対し挙兵した竜造寺隆信は、肥前、筑後の両国を支配下に置き、さらに豊後の支配下にある他の諸国に足を踏み入れていたが、本年にはまた肥後と呼ばれる国の領主となった。これによって彼の権力は一段と高まり、下の全ての諸侯、とりわけ有馬と大村のキリシタンたちにとって、彼はきわめて恐るべき存在となるに至った。竜造寺は自ら佐賀に出向いた純忠を快く向え、和平を締結せしめた上、彼を自領に帰らせた。

薩摩の国主は竜造寺が豊後に対する野心を遂げた後には、その矛先を自分のほうに転じてくることを恐れ、織田信長の求めに応じて豊後と和平を結ぶ決心をし、竜造寺に対して戦いを始め肥後の国に侵入した。薩摩の連中は、自領にキリシタンがおり教会があればポルトガル船がやってくると思い、巡察師とコエリュ師に国主を訪問するようその機会を与えることとした。

この同じ年に、平戸のキリシタンの主君であり頭目であった籠手田ドン・アントニオが扁桃腺炎によって急激な死に見舞われた。

巡察師はインド帰還の日が近づいたので、堺から豊後に戻ることになった。帰路は往路とは別の道を迂回することとなり、日本の島々の外側を通らねばならぬこともあった一ヶ月を要した。1582年2月8日、巡察師は長崎を発ち支那に向った。

巡察師ヴァリンヤーノが第一次の巡察を終えた1582年(天正10年)2月の状況:

外国人司祭:32人
ヨーロッパ人修道士:32-33人
日本人修道士:20人
計イエズス会員:84-85人
同宿:100人
従僕と看坊:300人
計484-485人

修道院:長崎、大村、有馬、有家、平戸、天草(河内浦)、臼杵、府内、野津、由布、都、安土、高槻、若江
神学校:安土、有馬
学 院:府内
修練院:臼杵

キリシタンの数:約15万人
下の地方:11.5万人(大村7万以上、有馬2万、平戸4千、五島4百、志岐1千、博多1千)
豊後地方:1万
5畿内:2.5万
長崎、茂木両港はイエズス会の支配下にあった

■加津佐

口之津から半里足らずの加津佐には、むき出しの岩石の小島があって、打ち寄せる荒波が怒涛となって絶えず岩肌に激突している。その小島の頂上に達する前に、海に向って一つの洞窟がある。この場所は、つねに日本中でも著名な霊場として知られ、各地からの巡礼者でにぎわった。その祠は人の近づきがたいところにあって、そこに到達することはきわめて恐ろしい業であった。狭くて急なその坂道は、海に面していて危険きわまりなく、幾つかの藪、または茨の中を通らねばならず、その道を一歩踏み外すならば、岩山を奈落の底というべき海辺に群がる鋭い藪の上に転落することになる。途中からは、どのように手を尽くしても洞窟の入口まで進むことができないように見える。

往古、仏僧たちはその岩山に手の平ほどの幅の狭い道を刻みこんだ。さらに岩に鉄輪を鋲で打ちこみ、これらの鉄輪から幾つかの鉄の鎖がぶら下がっていて洞窟に行こうとする人はその鎖を握りしめながら進むほかなかった。

副管区長コエリュ師は口之津にいた時に、有馬から退去した仏僧たちは、彼らの寺院にあった仏像の安全をはかって、それらを彼のもっとも安全な場所である小島に隠匿しているに違いないという考えをしばしば抱いた。そこで我らはそれらの偶像を破壊したいという望みに駆られて某日、食事の後その洞窟に向った。はたして副管区長が考え疑っていたとおりのものが事実そこで発見された。それらは全て木製で、燃やすのにはうってつけの材料であったから、暫時にしてことごとくが焼滅してしまった。

下の地方におけるもっとも主要なキリシタンの一人は天草諸島の領主である。その領主はドン・ミゲルと称し、すでに年老いているがイエズス会の心からの友である。彼は本年重い病を患い、死期が近づいたことを感ずると、いつも離れずにいてもらっていたアルメイダ師から霊的に大いに助けてもらいつつ、霊魂を主なるデウスに帰し奉った。

副管区長コエリュ師は薩摩の国が次第に強大さを増していくのを見て、イエズス会員が同国に入り込むことを強く希望した。薩摩の実力者たちは山川港をキリシタンの港とし、毎年ポルトガルの定航船が来航するようにと目論んだのである。アルメイダ師はつねに病弱の身であり、日本で耐えてきた幾多の労苦のためにひどく衰弱していたが、大きい満足と熱意と喜悦をもってこの使命を引き受け、薩摩の国主から快く迎えられ歓待された。しかし国主は身内からのすさましいばかりの圧力には打ち勝つことができないので、アルメイダ師に対して退去するように伝えざるを得なかった。このように事態が進み、アルメイダ師は副管区長コエリュがいる高来に帰らざるを得なくなった。

■アルメイダの死

アルメイダ師は、日本でイエズス会に入って三十年になる。彼は殆ど六十歳になっており主なるデウスが当地方においてもっとも挙用し給うた人物の一人であった。のちに学院になった豊後の修道院の設立は実に彼に負うものであった。彼は入会するに際して携えており、イエズス会に喜捨した金子と彼の手腕によって司祭、修道士、および司祭館や修道院を扶養してきた。豊後において我らの修道院のそばに病院を作った。彼はそこにある薬局を設け、支那から多くの材料や薬品を取り寄せ、どんな病人でもそこでアルメイダ師の恩情に預かることが出来た。新しいキリシタン宗団が生まれるための事業とか、初めての布教地を真っ先に見つけるのは彼であった。彼は病気の間、激しく絶え間のない苦痛を味わった。そして主なるデウスは、ついに彼を栄光の御国に憩わせたもうた。

大村のキリシタン宗団の大敵である竜造寺隆信は大村純忠の息子で、当時十七歳の嗣子である喜前を呼び、彼が出向くと自分が死ぬまで彼を人質として厳重な監視下に置いた。

大村から八、九里離れたところに後藤山というところの領主は隆信の三男で家信といい、兄弟の中ではもっとも優れた才能と明晰な判断力の持ち主であった。彼はキリスト教に帰依することを強く望んだが、父隆信の強い反対に会って挫折した。

■竜造寺隆信

隆信は既に二年前に、純忠の嫡子喜前を人質として接収していたが、さらに他の息子を人質として送り届けるよう命じ、三人の息子を須古城の手許に置いた。さらに隆信は純忠に夫人および家族を伴い、大村城から退去するよう命じた。純忠が追放され、その居城を去ったあと、息子の喜前を非道かつ悪辣な家来をつけて大村城に入れ、キリシタン弾圧を始めた。

隆信は大村領内にキリシタン宗団をことごとく掌中に収めたあと、有馬鎮貴を根絶し彼が閉じ込められている僅かな地からも彼を放逐し、自らは肥前の国の絶対君主になろうとした。薩摩勢が鎮貴になした最大の援助といえば、高来に向け進出していた約千五百人あまりの薩摩兵が千々石城を攻撃したことであった。同城の初代の指揮官で城主であったのは、巡察師ヴァリニヤーノがヨーロッパに連れて行った四人の少年の一人である千々石ミゲルの父親であった。薩摩と有馬の兵は城を攻め落としたあと引き揚げてしまった。

薩摩の国主の第二の弟で島津中務家久と呼ばれる人が、有馬救援を指揮することになった。有馬殿には高来への入口の一つである千々石に向き合った小浜と言う城しか残っていなかった。そこから先僅かのところに串山と言う別城があり、そこから加津佐まで二里の距離がある。そこから半里の口の津はマカオへの定航船が入る港の一つである。その先に日野江と呼ばれる有馬の城があるが、そこは有馬殿の居城で、口之津から二里離れている。ここに下地方の神学校がある。有馬の先、約半里のところに有家があり、立派な教会と高来における主要なキリシタン宗団がある。そこから日本の一里近く先に進むと堂崎の城があり、そこで有馬領は他領と接している。その先は有馬殿に叛起した深江城があり、そのため安徳と呼ばれる他の城も強制的に謀叛に加担させられたが、同城は後にふたたび有馬殿の麾下に戻ってきた。深江から一里近く先に島原が続くが、それは有馬に次ぐ有馬領の主要な領地で、そこの城主は有馬殿に反逆した首魁であった。そこから先はかっての有馬領であった三会、多比良、神代、その他の諸城が続いている。

中務は有家の町に到着し、そこの修道院と教会の近くに投宿した。

■沖田畷の戦

有馬の軍勢は安徳城に向け出発した。中務は当時既に四千人近くに達していた薩摩の兵を、有馬殿は千人前後の兵を率いて島原の周囲に布陣した。有馬殿が有馬、およびその他有馬領の各地から、それらの土地にいるだけすべての兵を率いて行ったので、どこもかしこも婦女子と幾人かの老人が見受けられるだけで防備については空白状態になった。

我らの味方の陣営には有馬の軍勢を合わせて六千三百人を超すほどの兵士がいたであろう。隆信は一万二千人の戦闘員を率いていた。彼は三人の息子たちを伴っていた。嫡男政家、城原殿、後藤の領主家信である。純忠の息子喜前も従軍していた。軍勢の正面には千挺近い鉄砲隊を伴ったが、その鉄砲は大筒に似た大型の鉄砲で運搬に苦労するものであった。その後に千五百の塗金の槍が続き、その後を長刀と大筒の火縄銃の隊列、および弓矢を携えた列が進んだ。さらに小型ではあったが二門の大砲、すぐそれに続いて、最初の隊列のように他の鉄砲隊が進んだ。それらは全部で三千ないし四千に達するであろうと言われた。その後に続くのは、他の槍の隊列、その他といった具合であった。

隆信勢は三列をつくって布陣した。その一つは山に沿って前進し、他は通常の道を通り、いま一つは海岸に沿って進んだ。中務は急遽、二門の大砲を船積するように命じた。また、敵が戦の最中に島原城から出て味方の背後を突くことがないようにと、千人の兵を島原城の正面に布陣させた。

そうこうする間に、隆信の軍勢が攻め寄せてきた。戦闘は四月二十四日の朝、金曜日八時に開始され、正午過ぎまで継続した。鉄砲隊による最初のいっせい射撃が終ると、槍による激闘が一時間にわたって行われた。隆信の軍勢は槍の間からも鉄砲を放って戦局をきわめて有利に展開し、あまっさえその兵力は味方の軍勢とは比較にならぬほど多大であったので、彼らは我らの味方を一挙に押し切って、矢来の中に閉じ込めてしまった。

一方、海上から砲撃する二門の砲は敵をさんざんに痛めつけた。かの海岸の戦列の端の一隊は、それら二門の砲によって甚大な損害を被り、列を乱し出し、その一部は退却し遁走し始め、他の一部は中央から進んできた部隊に合流した。

敵はふたたび我らの味方の柵塁を攻撃して来た。薩摩勢はこれに応戦したものの、すでにいくぶん疲労しており、彼我の戦力は極度にちぐはぐであった。隆信勢は、多数の鉄砲を有していたが弓の数は少なく、長槍と短い太刀を持っていたのに反し、薩摩勢は鉄砲の数は少なかったが多くの弓を持ち、短い槍と非常に長い太刀を備えていた。敵はつねに新たな戦力をもって攻撃し、次第にその数を増し、すでに三度にわたって味方勢をその柵の中に閉じ込めた。

中務が一武将に命じて兵士達に訓辞せしめた言葉がまだ終わりもしないうちに、全員はあたかも初陣の功を競り合うもののように敵を求めて出て行った。薩摩勢の異教徒たちは、有馬鎮貴の家臣であるキリシタンたちにこう言った。「御身らは、御身らが仰ぐゼズス、マリアの名を唱えて突進されよ。拙者らは我らの戦の神なる八幡大菩薩の名を呼び求めるであろう」と。隆信はその将兵たちに向かって愉快げにこう言っていた。「恐れることはない。我が方には、はるかに多くの兵と資材と弾薬があることなれば、勝利は確実だ」と。

そして戦闘が開始された。それは熾烈を極め、両軍とも槍を構える暇もなく手当たり次第に刀で相手の槍を切り払った。薩摩勢は、敵の槍など眼中にないかのように、その真っ只中に身を投じ、鉄砲も弾を込める間がないので射つのをやめてしまった。薩摩勢は鉄砲の代りに、その得意とし、熟練し、また情け容赦せぬ弓矢の業を大いに役立たせて、少なからず敵を悩ませた。

時に薩摩勢の中には、たまたま戦闘の現場から離れていた幾人かの兵がいたが、彼らはしばらく歩くうち、隆信が座乗していた駕篭の前方に現れた。肩で隆信を担いでいた連中は、敵が激しく槍で突いて来るので隆信を放置し始めた。隆信は立ち上がると、自分を名指す声を聞いた。川上左京殿という薩摩の若く勇敢な武将が隆信に襲いかかり、彼を槍で刺した。隆信はいとも不快な思いをしつつ、しかも両手を合わせてその槍を受けた。彼の首は、ただちに彼を槍で刺したのと同じ人の手で斬りおとされた。

一方、敵は我らの味方の砲撃に恐れをなして、列を乱して後退し、隆信がすでに戦死したとの報せを陣中で耳にすると、彼らの上には大いなる恐怖が襲いかかり、聖なる正義の鞭をその背に受けるべく背走し始めた。戦場で命を失った者の相当数は、拾得された戦利品の紋章が示しているように身分の高い人たちであった。行く先道中で見受けられた負傷者の数は甚大で、彼らはその痛みの激しさと致命的な傷のためにいたるところで死んでいった。

薩摩勢の戦死者は二百五十人内外で、有馬のキリシタンからは十五、ないし二十人の死者が出ただけであった。その他同じく相当数の負傷者が出た。下の諸国を、隆信の名により震撼せしめていたかの暴君の不運な末路は以上のようであった。彼の首級は、その後まもなく、槍先に突き刺されたまま、島原の柵塁のそばに曝され、その後、薩摩の国主に見せるため、土産物として薩摩に持って行かれた。

隆信を討ち取ったという吉報は有馬城にもたらされ、人々は熱狂した。その他、高来の全土においても、かの暴君隆信がことに脅迫していた長崎でも見受けられた。高来の二つの鍵をなす千石城は、それから二日後に城が明け渡され、そこに立て籠もっていた隆信の兵士達は遁走した。島原の城主は、さっそく薩摩勢と協議を始め、城を明け渡した。最強、かつ不落を誇っていた深江城の連中はことごとく逃亡した。大野城は、高来の管轄地の最終端にあり、その城主は貧しかった。隆信がそこを通らねばならなくなり、しかもその城を隠れ家、倉庫、食料庫とした。不運な隆信が死んでしまったので、城主はただちに投降し、敵が城に蓄えておいた軍需品はすべて鎮貴が受けることとなった。

大村純忠の息子喜前は波多の地に赴き、そこで二年近く抑留されていた。彼はその後大村に戻されて今に至っている。(以上)