史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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1943年3月、世界が戦争で薄暗く沈んでいたとき、これから始まる新しい秘密兵器の計画に参加しようと、若い科学者たちがニューメキシコ州サンタフェに集まって来た。彼らは公式には、この計画が成功すれば多分戦争が終るだろうとのみ告げられていた。個人的には、彼らが志願した仕事は今後の数年間、鉄条網の向こうで生活し、非常の際にのみ帰宅を許され、博士課程を修了して職業に就くことが遅れることは、先例のない非常に稀なことであった 。彼らは、世界で最初の原爆を考案し、設計し、組立て、そして試験するに他ならない試みにサインしてしまったとささやき合った。この原爆は原子核の中に閉じ込められていた巨大エネルギーを初めて爆発的に開放しようとするものであった。

その他の米国内の数万人の労働者を雇用する秘密施設
テネシー州オークリッジ;
シカゴ大学;
コロンビア川沿いの不毛の地、ワシントン州ハンフォード
ではこの兵器が必要とする数キログラムの新しい金属を苦心して蓄積しつつあった。

新奇な破壊力を持った新兵器を考案し作る仕事に参画することは、今日の限定戦争と核休戦の長い前途からすれば残忍なように見える。戦争は世界を通じて一般的であり、人間が作った死の世界的な流行であった。数十万人の米国人(兄弟やクラスメートや友人たち)が北アフリカと太平洋の島々の前線で彼らの生命を賭けていた。死の鐘の音は既に百万に達していた。ドイツが原爆の開発を進めており、その競争に彼らが先んじていると信じられる理由があり、ナチ国家が核兵器を使って勝利を得るかもしれないと言う危惧が心胆を寒からしめていた。戦後、ウインストン チャーチルが「救いの奇跡」と述べたように、交戦国が震え上がって降伏するくらい破壊力に富んだ新兵器を米国の兵器廠が持っていたら、と誰もが思っただろう。

陸軍は、志願者たちを淡緑褐色の幹部車と乗合自動車に乗せ、ニューメキシコ州の州都から北西のリオグランデ川向うの砂漠地域に運んだ。車列はキャニオンの険しい壁を登る目の回るような、ガードレールのない道路を切り抜けて、世界で最大の死火山の壊れた火口丘から突き出した高い松林台地に入っていった。この台地はロスアラモスと呼ばれ、その名は険しいキャニオンの流れの中で育ち、急流を保護するパンヤの木にちなんで命名された。建設場所は台地の西端にあり、そこに秘密の研究所が建設中で、聖域として売りに出された場所に以前あった小学校の時代から残っていた立派だが隙間のある丸太小屋の周りをトラックやグレーダーが泉のぬかるみを当てもなくうろついていた。

時間の無駄は許されなかった。この丘の上で行われる計画が本当に戦争を終らせたら、その挑戦は人間の歴史の中で評価されるであろう。建設が進行している間(陸軍兵舎を引き伸ばしたような木造の研究所が学校の南側からメインロードを横切って建ち、細長い真空タンクと大きくて重い電磁石が労働に従事する平床のトラックに乗せられ、覆いを掛けられてやってくる)、少なくとも議論だけは始めることが出来た。その議論は、止むことなく取付かれた様に二年半続き、寒い砂漠の夜を昼間に変えた巨大な目のくらむような火の玉で頂点に達した。

ロスアラモスにやって来た数ダースの若い米国人たち(卒業した学生及び最近学位を取得した者)は彼らが教科書で知っている著名な科学者と一緒に仕事ができることを知った:
J.ロバート オッペンハイマーはこの秘密の研究所の所長で、裕福で世界主義者のニューヨーカー。1920年代後半に欧州での研究から帰り、米国で最初の理論物理の学科をカリフオルニア大学バークレイ校に設立した;
エンリコ フエルミはイタリア人ノーベル賞受賞者で、イタリアが生んだ三または四大物理学者の一人; I.I.ラビは米国人ノーベル賞受賞者、小柄でウイットに富んだ人でロスアラモスには顧問としてやって来たが、MITでレーダーの研究に力を注いだ;
エドワード テラーは低音でエキサイトし易いハンガリー人の多才な理論家;
ハンス ベスはナチスドイツの反ユダヤ迫害を逃れた移民。星が輝くもとになる核連鎖反応を解き明かした。
高年齢の人がいたが(オッペンハイマーは38歳)、このグループの平均年齢は24歳に過ぎなかった。

オッペンハイマーの弟子ロバート サーバーは痩せ型の若い理論家で、冷静で内気だが彼に与えられた命題を指揮するのに熱心だった。彼は新しい秘密研究所で一連の講座を始めた。前年夏、サーバーはバークレイで秘密のセミナーを行った。そこで彼が議論しようとするアイデアを見つけ探求していた;オッペンハイマー、ベス、及びテラーは共にオッペンハイマーのバークレイ研究室の会議室で夏のミーテイングを行った仲間である。ロスアラモスでもチョークを持ち黒板を背にして、サーバーは新世界の扉を開ける仕事を続けた。

「この計画の目的は」とこの若い理論家は志望者の顔を見渡しながら話し始めた。「核分裂を起すとして知られる一つ又はそれ以上の元素から、早い中性子連鎖反応によってエネルギーを開放する爆弾を実用兵器として造り出すことである」。それは確信であるばかりでなくニュースであり、聴衆にため息を漏らさせるものであった。どこかほかに秘密の計画に従事したことのある人々も驚き、そして喜んだ。あらかじめ、軍事機密を保護するため彼等は彼等の仕事にすぐに影響を及ぼすことのみ知ることを許された;今や、彼らがロスアラモスで働くために招かれたとき、オッペンハイマーは皆すべてのこと知り得ると約束した。彼らを隔離した鉄条網、戦争の期間中彼等を荒地の真中に閉じ込めた旅行制限もまた、彼等が科学的な言論をすることを自由にした。オッペンハイマーは陸軍に、開かれた討論は科学の活力の源であり、仕事を成し遂げるに唯一の道であると言って納得させた。

ボブ サーバーは全部で五つの講義を行った。薄ら寒く新しい図書館に論争が響き渡った。秘密研究所の副理事で五分刈頭のエドワード コンドンはノートをとり続けた。来る日も来る日もコンドンとサーバーはそのノートを公式、グラフ、及び粗野な絵であふれた24ページの謄写版刷りにまとめ上げた。それは戦争に関する国家の考え方が永久にくつがえる秘密の新しい技術について、その時点では世界中でその人しか知らない事柄のエッセンスであった。この二人の物理学者は、いたずらっぽくこの書物に「ロスアラモス入門書」と命名した。新しい参加者はこの丘に着くとこの書物を与えられたことであろう。そして、毎月彼らがやってくるに従って、この丘の人口は九ヶ月ごとに倍増し、戦争が終った1945年8月までに五千人以上を数えた。

この入門書と1940年代初期のフリッシュ・ペイルス覚書(本書に付録として添付)とは、技術の歴史の中で多分他のどの書物より大きな歴史的輸入貨物を運んでいる。この書物は原爆を造るためのレシピではない。この点においてこの入門書は、ヘンリー デオルフ スミスが1945年に出版した「軍用目的の原子エネルギー」に相当する。この本は日本への原爆投下がアナウンスされた時に米政府が公式に出版したもので、最初の原爆を開発するに必要な物理と技術の努力の成果を入門書と同程度の一般性で記述されている。

広島と長崎で明らかになった決定的な秘密以外は、どんな場合でも原爆にいかなる科学的「秘密」というものはなかった(1)。原爆に直接つながる発見をしたのは、オーストリアの物理学者リセ マイトナー(右図)とドイツの二人の化学者、オットー ハーンとフリッツ ストラウスマン、であった。三年にわたる実験の末、第二次世界大戦がヨーロッパで始まる九ヶ月前、1938年のクリスマスシーズン、にそれは全くの驚きで迎えられた。前年の夏、ユダヤ人の経歴を持つマイトナーはナチドイツを逃れてスエーデンに移った。彼女らが低エネルギー中性子で硝化ウランを照射する実験中に、予期していたラジウムではなくバリウムが生成したのを解釈する研究をしたのが、ベルリンにいたハーンとストラウスマンであった。

注(1)勿論、技術及び企業秘密はあった。例えば、U238からU235を効率よく分離できるフイルタの製造法;照射されたウランからプルトニウムを化学的に分離する方法;炸薬レンズを作り成型する方法等。これらの秘密は全く適切に保護し続けねばならない。

マイトナーはこの予期しない結果をクリスマス休暇中考え続け、彼女の甥で若い物理学者のオットー ロバート フリッシュと一緒に西スエーデンのクンガルフ村の友人を訪問したとき、その理由を説明できるメカニズムが浮んで来た。他方、ハーンとストラウスマンは、その実験はウランの原子核を分裂させ、二個以上又は同等でない破片に分解し、そのうちの一つがバリウムであったと推論した。それまでのこの原子核の検証では、いつも入ってきたエネルギーと出て行くエネルギーとの間には明確な関係があることが立証されてきた(低エネルギーの粒子は原子核のごく一部しか切り取らないし、高エネルギーの粒子はそれに比例して多くを切り取る)。この新しく変則な反応を説明するために、マイトナーとフリッシュは原子核を別の形で視覚化することにした。それまで彼等は原子核を堅く、頑丈なものと考えてきた。しかし二年前、デンマーク人の物理学者でフリッシュの師であるニールス ボーアが原子核は水滴の如くぐらぐらし、柔らかいものであるというモデルを提唱していた。マイトナーとフリッシュは、中性子照射は不安定な原子核を撹乱し、その結果分割され二個又はそれ以上の小さい水滴に作り直されるのだということを知った。彼等は、そんな分割とよりコンパクトな再配列で原子核の質量の小さな断片(陽子の質量の約五分の一に等しい)がエネルギーに変換されたと結論した。その結果は前例のない非凡なことであった。最もエネルギー的な科学反応(例えば、酸素で水素を燃やす)は原子あたり約5電子ボルトを放出する。マイトナーが計算し、その後すぐフリッシュが実験して唯の数電子ボルトで運動する中性子がウラン原子に衝突しこれを破壊したとき、一原子あたり約1億7千万電子ボルトを放出することを知った。この新しく発見された反応は、入力に対し出力が少なくとも5桁を上回る物凄い発熱現象であった。それは世界の長い歴史の中で見たこともない新しいエネルギー源であった。

新年始めに、コペンハーゲン(フリッシュはそこのボーア研究所に勤めていた)に戻って彼はストックホルムにいたマイトナーと電話でこの新しい反応にどんな名前を付けるか話し合った;原子核の水滴モデルと生物学から細胞分裂という用語を借りてきて核分裂(Fission)と命名した。

1939年1月初頭、ハーンとストラウスマンは彼等の結果をドイツの化学誌ナチュールヴィッセンシャフテンに発表した。マイトナーとフリッシュは英国誌ネイチャーに手紙を送った。その一年以内に世界中の物理学者がこの新しい反応に関する百以上の論文を発表した。

どの物理学者も、核分裂が新エネルギー源や新兵器に使われるようになることをすぐに悟った。最初ドイツで軍事応用が始まった。1939年4月29日、ライヒ教育相が秘密会議を開き、開発計画を指導すると共にウラン輸出を禁止した。同月、別に日本ではある日本陸軍将軍が軍事応用を指示した。米国では、ハンガリー移民の物理学者レオ ジラード、エドワード テラー及びユージン ウイグナーがドイツの開発についての彼等の関心をフランクリン D.ルーズベルト大統領にアインシュタインから手紙で伝えてもらい、1939年11月11日ルーズベルトはこれを受領した。英国は1939年に最初に精査を始めたが中止し、1940年初頭物理学者のオットー ロバート フリッシュとナチドイツから逃れてバーミンガムに住んでいたルドルフペリルからの覚書によって再び本気になって取組み始めた。ソ連の物理学者イゴール クルチャトフは1939年、核分裂の軍事的重要性の可能性に関する政府の考え方を変えさせた。1941年6月、ドイツの侵攻がソ連の原爆研究を遅らせたが、1943年初頭よりモスクワで控えめな研究計画が始まった。

1941年暮、米国は英国の協力で数百万ドルの全面的な計画に拡大した。その委任を受けて、マンハッタン計画は最初の人工核反応を達成した。フエルミの有名な黒鉛と自然ウランの「パイル」とし知られているものを、シカゴ大学校内のスタッグ球場のスタンド下にあったダブルススカッシュコートで組立てた。キログラム単位の新しい人工元素であるプルトニウムと稀少で核分裂可能なウラン(同位元素U235)を製造する工場の建設が始まった。1945年までに、その額と価値において現在の米自動車工業の投資に匹敵するものであった。日本の努力は研究所の域を出ないものであった。ドイツの計画は1942年に、より切迫した前途の見込みのある軍事研究に優先権を奪われた。

ロスアラモスの人達は仕事をせかされた。速い中性子核分裂に関する物理学を更に学ぶ必要があったし、特に多くの核の断面積は実験でしか確認できなかった。各種形態でのウランとプルトニウムの臨界質量を決め、丘を吹き飛ばすことなく研究所内で速い中性子連鎖反応の研究を促進せねばならなかった。ウランとプルトニウムの冶金学的特性は殆ど未知であったので習得しなければならなかった。ある種の手段が見出さなければならなかった。核物質は断片の状態で不活性のまま爆弾の中に置かれているが、これらの断片が一体になったとき爆弾の連鎖反応開始の合図となる中性子を炸裂させねばならない。丘の連中は誰も炸薬については何も知らなかったが、仕事が終る前には炸薬を精密測定器として取扱う新技術を発明し、高性能炸薬を単なる金属のブロックの如く二万個余りの精密な形に機械加工した。放射能薬はもう一つの容易ならぬ関心事であった;人間の身体全体に与える放射能の影響は殆ど不明であった。全長10フイート、重量1万ポンドに達する兵器を、それに応じて弾倉を改修して搭載し、その乗員を訓練できる大型爆撃機を見出さねばならなかった。臨界質量にする機構が砲かそれ以外のものであろうと、その爆弾は大気中を落下する形状で適当に装甲された飛翔体でなければならない。その爆弾を目標上空の事前に設定された高度で爆発させる信頼性の高いセンサーを必要とした。

ロスアラモスはこれらすべての活動の中心にいて、一個又はそれ以上の核燃料(ウラン又はプルトニウム)の臨界質量を目標まで安全に運び、必要とする精密な瞬間に確実にそれらを合体させることが出来る兵器を設計する課題に取り組んでいた。U235についていうと、この問題を解くのは簡単であった。日本に用いるため最終的に太平洋に引渡された二つの兵器のうちの一つ(リトルボーイと呼ばれた)は、高度に濃縮された50キログラムのU235を合体させた。これら三つの臨界質量は小型砲の砲口周りに固定された一個のリングと、砲尾に挿入された「砲弾」とに分けられた。砲弾の後にはコルダイトが入った袋があり、適当な時刻にこれが発火すると超臨界状態が発生する。ロスアラモスはリトルボーイの設計を十分保守的に考えて、立証実験なしでこの兵器を引渡すことにした;リトルボーイはこういった考えのものの一つであった。

しかし、プルトニウムはウランより高度の放射性を持つため、砲撃機構によって効率よくプルトニウムを爆発させることは砲技術の限界に迫るものであるということが始めから明らかであった。他の簡単な方法は提案されず、1944年夏までロスアラモスではプルトニウム砲の作業が進められていた。その時、反応炉から生成された最初のPU239がオークリッジから到着した。イタリアの物理学者エミリオ セグレがこの反応炉で造られたプルトニウムの核特性を測定して、その自然分裂率が許容出来ないくらい高いことを見出した;それは多量の分離できないPU240の混合物で汚染されていた。セグレの測定結果は毎秒3,000フイートの砲口速度が得られたにしてもこのプルトニウムは過早発し、砲弾と目標リングが高熱炸裂を起して一体になる前に溶解してしまうことを示していた。

この問題が発覚して、ロスアラモスは危機に陥った。マンハッタン計画は膨大な規模の分離工場を建設中であったが、U238からU235を分離するのは非常に難しい物理行程を必要とするので、米国は1945年夏までに蓄積できる分裂可能なウラン同位元素は僅か爆弾一個分であった。米政府が二十億ドル以上を投資し、戦時の他のどの計画より高い優先権を与えた秘密兵器計画が、プルトニウムなしでせいぜい唯一個の爆弾を得ただけで終るのである。そして、一個の爆弾がその破壊力がどんなに大きくとも、戦争に決定的な差を生むとは考えられなかった。

このプルトニウム危機の中でオッペンハイマーは彼の同僚及び上司と協議して、臨界質量に達する全く新しい技術を開発することとした。デビッド ホーキンスが著したロスアラモス技術史は、爆縮(この新しい技術はこう呼ばれた)は「唯一の真の望み(その時点での)、そして一般の証拠からして非常に良い技術ではなかった」(2)と記している。

(2)David Hawkins, Manhattan District History, Project Υ, The Los Alamos Project, V.Ⅰ(Los Alamos
Scientific Laboratory, 1947), 82.
連鎖反応により十分な質量が集まったとき大量の核分裂材料が臨界に達して爆発が始まる。厚い防護物(「タンパー」と呼ぶ)に囲まれた5kgのPU239の固体の球は集合した途端、炸裂するであろう。中空の殻に整形して突き固められた同じ5kgは安全で臨界未満である。1944年秋から冬を過ぎ、1945年の春に入って丘の男女は中空のプルトニウムの殻を、炸薬を用いて急速に固体の球に押し潰す方法を見つけるために昼夜働いた。理論学者は黒板を計算で一杯にした;爆発音が峡谷から鳴り響いた。デジタル計算機のない時代には形状を変えると、手計算で適切な時間内に答を出すことは難しく、試験は噴流や破片によって引起される厄介な炸裂波の交叉によって台無しにされた。設計がより保守的になるに従って殻はより厚く、より小さくなって行った。

優れたハンガリーの数学者のジョン フオン ノイマンは、顧問としてロスアラモスを時々訪問し決定的な成功に寄与した。フオン ノイマンは高性能炸薬のブロックを込み入った球形に組立て、炸薬レンズを構成するという設計を行った。複数の発火点から拡散する球形の衝撃波を、核物質のコアに向けて収斂する一様な衝撃波に変換するのである。エドワード テラーは更なる成功に寄与した。固体の金属でさえ顕著に圧縮するに十分な圧力を加える知識を提供した。爆縮に係わる科学者達が理解するに至ったのは、薄壁で出来た殻をもんで固体の球にする代りに、壁の厚い固体に近い球状のプルトニウムを押し潰して密度を高くし、原子間の距離を狭くして臨界未満から超臨界にするのである。 ロスアラモスでこの仕事に携わっていた物理学者ルイス W.アルバレは「爆縮の直接的で明確な利点は、高速の衝撃波の圧力の下で核分裂材料が迅速に『集合』するので、過早発を起 さないことだ」と言う。(3)

(3) Luis W. Alvarez, Alvarez(Basic Books, 1987), 131. アルバレ自身は更に明確な発明に寄与した。それはプルトニウムコアを取り巻く高性能炸薬の殻を表面上に等間隔に置かれた32点から同時に炸裂させる方法である。この32点は、二十面体の20個の三角形面が十二面体の12個の五角形面で織り合わされる、その各々の面の中央にあたる。核兵器の高性能炸薬の殻はサッカーボールのように、五角形と六角形が交互になった表面形状であった。アルバレは、高圧キャパシターの放電により各炸薬ブロックに埋め込まれた導火線を爆発させた。

1945年7月16日午前5時30分 、ニューメキシコ州の砂漠でプルトニウム核の爆縮機構の実験が行われた。これはTNT18,600トン相当の威力で爆発し、地球上最初の実物大の核爆発であった。I.I.ラビはそれを10マイル離れたベースキャンプから観察した:
我々は早朝、張りつめてそこに伏せていると東方に数条の黄金色の陽光を見た。でも、隣人は非常に薄暗く見えた。その10秒間は今まで経験したことがない最長の10秒間であった。突然 、巨大な閃光、自分が今まで見たことのない、あるいは誰も見たことがない非常に明るい光が走った。それは視界を破り、突然襲い、人を押し分けて突き進んだ。それは目で見る以上の光景であった。それは脳裏に永遠に焼きつけられた。それは約二秒間で終ったが 、そのまま留まってもらいたいと願った。それが終って弱まり、我々は爆弾のあった場所を見つめた。そこには巨大な火の玉がぐんぐん大きくなり、その度にごろごろと轟いた。火の玉は黄色い閃光から深紅色と緑色の中 、空中に立ち上った。それは嚇かすようであった。それはこちらに向ってくるようであった。新しいものが今、産まれつつある。新しい支配力、人類が自然から獲得した新しい知性であった。(4)

(4) I. I. Rabi, Science: the Center of Culture (World, 1970), 138.

実験当時、リトルボーイはサンフランシスコで重巡インディアナポリスに船積中であった。続いて、フアットマンと名付けられた爆縮爆弾用の高性能炸薬組立3個が直ちに空輸された。

戦争の最後の数ヶ月間、この恐るべき新兵器を使用すべきか否か論争が生じた。使用しないより使用する方が良いという理屈が考え出された。ドイツは降伏し、米国は日本を侵攻する準備中であった。ハリー S.トルーマン大統領の顧問たちは、この侵攻で米国人数万人と日本人数十万人の生命が犠牲になると予想した。もし彼らが決戦に踏み切るなら、この新兵器がこの損失の機先を制することになるだろう。ソ連はまだ日本に開戦を宣言していなかったが、8月15日に参戦すると約束した。もし原爆が日本をその最終期限前に降伏させていれば、ドイツのように分割せずに済む。ドイツはソ連と西欧諸国に分割されてしまった。そして、ソ連は戦後の冒険を思い止まるだろうと米国の指導者たちは予想した。

日本は降伏について話合いをしたいとソ連に申し入れたが、連合国側は無条件降伏を要求した。戦後、「我々は恐ろしい決心をしなくてはならなかった」とトルーマンの国務長官ジェームズ ビルネスは書き残した。「我々は日本のソ連に対する平和交渉の要請を、原爆を使わないで日本が無条件降伏するという証左として信頼を置くことが出来なかった。事実、スターリンは我々のもとに来た最後のメッセージに 、『無条件降伏を受け入れよと言うなら、日本は最後まで戦うだろう』と言明した。この状況下では、交渉に同意することは間違った希望を産むだけであった。」 (5)

(5) James Byrnes, Speaking Frankly (Harper & Bros., 1947), 262.

原爆は裏予算の基金から20億ドル以上を費やして作られた。マンハッタン計画の長レスリー R.グローブス准将は関係者と共に、原爆を使うことがこの計画の正当性を米議会に容認してもらえると信じた。

また、ある人は、どんな恐怖が未来を支配するか世界に立証するために原爆を使用するのに賛成した。「我々のただひとつの望みは」と、エドワード テラーはレオ ジラードに、ジラードが彼に送った異議申立書に署名しない方を選んだ理由を説明して言った。「我々の結果を人々の前に事実として示すことだ。そうすれば次の戦争は取り返しのつかないことになると誰もが悟るのに役立つだろう。この目的のためには実際に戦争で使用することが最良なのだ。」 (6)

(6) ET to LS, July 2, 1945. Manhattan Engineer District Records (Record Group 77), National Archives,
Washington, D.C., MED 201, Leo Szilard.

戦争大臣ヘンリー スチムソンは、日本が降伏すると十分信用できるデモンストレーションを考案するように、という嫌な任務を科学委員団に押し付けた。この委員団(ベル科学賞受賞者エルンスト ローレンス、アーサー コンプトン、及びエンリコ フエルミ、そして物知りで知的で道徳的に信頼の置けるロスアラモス所長ロバート オッペンハイマー)は6月の週末を挟んで必死の努力をした挙句、「我々は戦争を終らせそうな如何なる技術的デモを提案できない。我々は軍用に向け得る、意にかなった代替手段を持たない。」と結論した。(7)

(7) Manhattan Engineer District Records, op. cit., MED 76.

最後は陸軍が決定を下した。4月から日本に対し大量破壊の恐怖である系統的な焼夷爆撃を行ってきたが、質的な段階的拡大は望めなかった。日本の諸都市の上を低空で飛行するB-29飛行機隊は恐ろしいファイアーストームを起こす日本の薄い木と紙で出来た家屋に6ポンド焼夷弾を数千発投下してきた;戦争の終りまでにこの焼夷爆撃作戦で68都市を焦土にし、数十万人の市民を死に追いやった(8)。 広島と長崎のみ、陸空軍がそれを爆撃しないよう指示していたので、原爆用に無傷のまま残された。

(8) 第二次世界大戦中に米陸空軍は日本に150キロトンの通常爆弾を投下した。

原爆は1945年8月6日広島、1945年8月9日長崎上空で炸裂し、戦争終結を決定的にした。8月15日、天皇は国民に対するラジオ放送で、「我々が『降伏した』のは、新型で最も残酷な爆弾によるものである」 (9)と言って武器を置くように求めた。

(9) Herbert Feis, The Atomic Bomb and the End of World WarⅡ(Princeton University Press, 1966), 248. に引用されている。

たった二個の爆弾が、人口が集中した二つの都会を破壊したことで、科学が真に無尽蔵のエネルギー源を掘り当てたということを世界に衝撃的に知らしめた(10)。 以前、ネイル ボーアはこの変化の重要性を一言でこう述べた:「我々は、戦争では解決できない全く新しい境遇に居る」。(11) その後の40年間、この新しい現実に適応しようと苦心しながら、国際政治はどんどん危険な複線上を進んで行った。1949年8月、原爆の所有者は自分達だけだと思っていた米国の過信は、ソ連の初の原爆実験によって崩れ去った。両国は原爆、次に水爆(両国は水爆の作り方を1951年と1953年に夫々習得した)の備蓄を始めた。それらをいかにも現実に使用する兵器であるかのごとく。同時に両国首脳は、この恐るべき備蓄が増えて行けばいくほど、この安価で持ち運びできしかもぞっとするほど破壊的な兵器に対抗できる防御策がないことを知り始めた。

(10) 最初の原爆の全開発史については、拙著のThe Making of the Atomic Bomb (Simon and Schuster, 1987)を参照されたい。

(11) J. Rud Nielsen, Memories of Niels Bohr,・Physics Today (June 1963), 30. に引用されている。

米ソ首脳は、それぞれの脆弱性を国際的に是認しようとせず、互いにいやいやながら不可避なことには屈服し両国間の直接衝突を抑制する道を選んだ。国家安全保障特別補佐官マックジョージ バウンデイは1969年に遡って「生身の政治指導者は現実の世界の中で、自国の町に水爆が落ちることになるような決心は破滅的な失策である、ととうに認識していたであろう」と書き留めている。

(12)「To Cap the Volcano,」 Foreign Affairs (Oct. 1969), 10.

両超大国は核戦争のリスクを犯すことはせず、戦争の規模を制限するか又は代理戦争をしてきた:朝鮮半島、インドネシア、台湾海峡、1956年のスエズ、ピッグス湾、キューバミサイル危機、1973年の中東戦争、グレナダ、ニカラグア、アフガニスタン、そしてペルシャ湾。米国又はソ連がこの程度の紛争に保つために核のエスカレーションの脅威を多少あからさまに利用したということをある文書が証明(13)している。一般に対してはこのレトリックは戦争好きで怒りっぽく見えるが、軍事的にその対応は評価された。 戦闘は言葉よりものを言い、それによって救われる人々は皆喜ぶであろう。

(13) Richard K. Betts, Nuclear Blackmail and Nuclear Balance (Washington: the Brooking Institution, 1987) 参照。

核戦争は自殺行為である、すなわち1945年以降独立国はいやいやながら、しかし自発的に自国の独立性を主張するのを制限してきた。戦争は独立性の究極の主張である。この世界の核兵器所有国は、彼等の戦争を制限することは彼等の勝利を制限し、そしてベトナムでの敗北という事実にもかかわらず、少なくとも全面戦争で争うのを諦めてきた。科学は、世界がどのようにして動くか検証する職務を担いながら、それがあまりにも破壊的なために戦争をだいなしにする結果になった。こうして、世界戦争はそのものが歴史上のものとなり、普遍的でなく、制限された規模での破壊行為に変わって行った。

核エネルギーを開放する方法の発見とその戦争兵器への応用は行き詰まり、停戦の時代を迎えた。人類の不安と資源の浪費に対する対価は確かに恐るべきものだが、それが代替手段よりもっと恐るべきものだと誰が言えるだろうか?その停戦期間、その長い平和の時代(14)、に壁を廻らしラジオやテレビ電波を妨害したにもかかわらず、通信(これも科学の贈り物)は益々開かれ、世界中の人々が異なった形態の政府の下で暮らしている他の人々の政治及び経済状況と自分たちとを比較できるようになった。不満足な市民は変化を進め、軍備競争の重荷は超大国でさえ破産の憂き目に会い、そして最後にミハイル ゴルバチョフの指導力を得て1989年の革命により変革がやって来た。

(14) John Lewis Gaddis, The Long Peace (Oxford University Press, 1987) 参照。

核分裂と核融合の発見と応用によって、科学は世界中で行われている制度的暴力に最も影響する変革(明白に、政治の変革を含む)をもたらした。この「ロスアラモス入門書」はその変革の歴史的記念碑である。

この「入門書」は戦後長い間、極秘文書とされてきた。この本は、ロスアラモスで働き、その後教鞭をとるために国立単科大学や総合大学に帰った多くの科学者の学生の間で伝説になった。1965年、この本は秘密制限を全面的に解除された。そして、この本に載っている情報が他の文献の中に公に役立つようになったので、その開示は至極適切な措置であった。その文献とは特に広く読まれている「核兵器の効力」(15)である。この本はロスアラモス科学研究所で作成され、1950年9月に米原子力委員会と国防省から最初に出版され、その後連続して編集されつつ発展して来た(16)。1965年以降、この「入門書」は専門大学の軍備縮小課程に、もとの謄写版刷りをコピーして一般に使用され始めたが(私が「原爆の製造」を執筆中、一冊の色あせたこの本をMITにいたKosta Tsipis から入手した)、今まで注釈されることも出版されることもなかった。カリフオルニア大出版局は、特にロバート サーバー氏の注釈を加えてこの本を公刊することとした。同氏はコロンビア大の物理学名誉教授で、この本のもとになった講義の執筆者である。こうしてこの本が我々の時代の決定的な歴史的文書のひとつとして、学生や一般市民等読者に広く読まれるようになった。(終)

(15) もとの書名は、The Effect of Atomic Weapons.

(16) Samuel Glasstone, ed., The Effects of Nuclear Weapons, various editions, 1950- (Washington: U.S. Government Printing Office).