史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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報告書L.A.1、「ロスアラモス入門書」は1943年春にロスアラモス研究所が設立されて最初に発行された技術書である。この本は我々が原爆を設計し、作る仕事をしにこの台地にやって来て、スタートラインにつくために4月初旬私が行った五度の講義を要約したものである。

この入門講義をする間、理論物理学者エド コンドンが書記をしてくれた。彼はノートを取り、その日の午後または翌日午前にそれを書き上げて渡してくれ、それをあれこれ話し合って手を入れた。この講義は要約そのものだったので、その講義録もそうであった。誰もが到着早々で、建物はまだ建設中であった。総ての器具は梱包されたままであった。人々は荷を解き、それを整理する仕事に一日に12から16時間働いた。そんな彼等を呼び戻し、一連の講義に出席させることは容易ではなかった。講義時間は最小限に短縮せねばならなかった。ということは、講義を計画するに当たって説明を切り詰めねばならないから、情報の骨子を作るために何を省くか決めねばならなかった。しかしこうした制約の中で、この入門書は1943年4月時点で我々が原爆の作り方につき、知っている総ての事柄 を集大成したものであった。

その時点で我々が知っている事柄を、どのようにして知るに至ったかを記したものを見たことがない。私はここにこの入門書の講義の背景だけでなく、私自身の履歴をも記述しておくこととした。

私はフィラデルフィアで育ち、フィラデルフィア パブリックスクールに入学した。路上に馬がいた随分昔のことであった。私たちは馬に引かれた氷を運ぶ荷馬車の後部踏台に飛び乗って学校に通ったものだ。セントラルハイは当時としては珍しい学校であった。科学の教師はフランクリン協会に関係があった。科学の教師たちは才能があり、彼らが教える課程はほとんど専科大学なみであった。珍しいことだが、私は高等学校で一般教養課程は取らなかった。私が入ったのはいわゆる工業技術と呼ばれるところで、大工、鍛冶、製図などの学科があり、そこに物理学と数学が含まれていた。水準は恐らく一般教養課程以上であっただろう。

私の叔父はアトランテイックリファイニング社の主任技術者だった。彼が私に工科大学を選ばせたのだ。昔も今も良い工学校であるレハイ大学に入学した(右図参照)。私は機械技術者の道に進んだのは、私の叔父がそうだったからだ。しかしレハイは物理工学という新しい専攻科目を始めたばかりで、その課程は通常の技術課程でやっているよりもっと物理学に焦点を絞っていた。この課程の大きな利点はそれがどんなものかを誰も知らなかったことだ。だからやりたい放題の事が出来る。例えば 、物理学や数学に総ての時間を費やせるのだ。

私は、大不況に見舞われた数年間の始めに当たる1930年にレハイを卒業した。それまで物理学で学位を取ろうと考えていたが、とても幸運に恵まれた。私はウインスコンシン大学で助手の仕事を得たのだ。それは助手の職があった最後の年だった。我々は800ドルの素晴らしい年収を得た。そしてそれをもとに生活した。その生活は実際 、悪くなかった。学生会館では、25セントで夕食を、5セントでハンバーガー又は卵サンドを食べることが出来た。

ジョン ヴァン ヴレックがウインスコンシンでの私の教授であった。そこでの初年に、彼は私に量子力学を学ばせた。その年、誰も学位を取ろうとはしなかった。世の中に職がなかったので、学位は不必要だったから誰も取ろうとはしなかった。翌年同数の学生が来たので 、ヴァンは高等量子力学を教えた。更にその翌年、高等量子力学Ⅱを教えた。ヴァンは善良な良い教師で、傑出した物理学者であった。彼はこの素敵な量子力学だけでなく、異例の数学課程も教えた。それは本当に非常に素晴らしい科学教育であった。

1934年、私は博士号を得た。その時、幾つかの決して多くない職があった。私は地位取得後の仕事として当時のNational Research Councilの評議員になった。私の分野の理論物理では国内に五人いた。そのうちの三人がロバート オッペンハイマーとの仕事を望んでバークレーへ行った。

夏休みで帰郷したとき、私はオッピー(彼のあだ名のオランダ風呼名はオプジェ)に出会った。私はすでに結婚しており、妻シャーロットと私はナッシュの中古コンバーティブル車に乗り、フィラデルフィアに住む我々の家族を尋ねるため、東に向け走った。その頃、ミシガン大学ではアンアルボアで物理学の夏季講座が開かれていた。そこに我々は一ヶ月間留まることにした。そこにオッペンハイマーがおり、私は勿論他の誰もと同様すぐ彼に心を奪われてしまった。我々は少しだけ親しくなった。私の評議員の願書にはプリンストンでユージンウィグナーと働くことになっていたが、私はそれを止めオッペンハイマーと働く決心した。オッピーは、それは良いことだ、National Research Councilと調整しなさいと言った。

我々は東に向け走り、あちこち尋ねてNRCからもしウィグナーが承知するなら変更しても良いとの返事を貰った。私は今まで会ったことのないウィグナーはヨーロッパにいることを知った。NRCは、プリンストンの誰かに承知してもらいなさいと言ったので、私はプリンストンに車で行った。夏の最中なので、そこには全く誰もいなかった。ある人が我々にエドコンドンがここからほど遠くないニューホープの別荘にいると教えてくれた。我々はそこに車で行き、りんごの木の下に座っているコンドンを見つけた。彼は、「私なら、必ずオッペンハイマーのところへ行き働くだろう。君の思う通りにしなさい」と言った。そこで我々は引き返し、大陸を横切ってバークレーに帰った。目的地の13マイル以内まで来て中古のナッシュが故障してしまった。

我々はどんな仕事もこなした。最初は、主にディラック方程式の研究をした。その一般的な命題が今日、量子電子流体力学と呼ばれている。そこには勿論大勢の学生がおり、とても活き活きとしていた。我々皆お互いに共通の課題を討論した。私は競争しようとする質ではなかったので、仕事全体が如何に競争的であるかを自覚していなかった。ヨーロッパの連中、全世界の連中はすべて同じ課題に取り組んでいたのである。オッペンハイマーと彼の小さなグループはバークレーで、ハイゼンベルグやディラック及びパウリと同じ命題で競い合っていた。その競争は全く平行して行われたのは注目すべきであった。オッペンハイマーのグループは他の人達がやったと同じことをほとんど同時にやった。両者は優れたことをやったが手法が異なっていた。ディラックが発表したとき(例えば、Proceedings of Royal Societyに)、それは全部優雅に記述され、総ての公式が注意深く構成され、すべてが正しかった。オッペンハイマーのスタッフは、フイジカル レビユー上に短い手紙を発表したが、一部でπやそれに相当する因数を抜かしたことがあった。こういった些細なことで正確さを欠いたのである。しかし本質的要素が進展する限り、オッペンハイマーは最初に幾つかの重要な事柄を見出した。彼が見出せなかった幾つかの事柄も二週間後には見出した。物理学の大きな世界の中で、その最先端をこのグループが進みつつあったことは何と注目すべきだろうか。

そして、核物理学の分野である大きな出来事が連続した。チャドウイックが中性子を発見したのはほんの数年前だし、ジョリオが人工放射能を作り出し、エンリコ フエルミが遅い中性子の壮観な発見をした。我々はエルンスト ローレンスと彼の仲間がバークレーのサイクロトロンでやっていた各種核物理実験や、チャーリー ローリッツエンと彼の同僚がパサデナのカルテックで行っていた研究の解釈に巻き込まれて行った。

興奮の中で始まった核物理学はすぐ宇宙物理学に波及し、我々はそちらの研究をした。私はハンス ベスが星の中での熱核燃焼の源となるカーボンサイクルのことで我々を興奮させたことを覚えている。オッペンハイマーは実験物理学者と縁遠かったのであろう。この研究で、たまたまオッピーがカルテックの連中から誤った窒素反応の情報を得た。そのため、このサイクルは我々の間で全然動かなかった。ベスはそのデータを知らなかった。彼はどうすればこの反応がうまく行くかを自分だけで解かねばならず、そして正しい解答を得た。時には知らない方が良いのだ。それが、何故非常に若い人たちが物理学で偉大な発明をするかという理由の一つである。彼らが知らなかったことは、オリジナルなアイデアを得るのに関係ないことなのだ。

1930年代バークレーに滞在中、ロバートの友人とも親しくなった。その時の社会生活は濃密であった。毎春、我々はオッピーに従ってパサデナに行きそこで一学期を過ごし、そこで彼もまた教鞭をとった。その後、我々はサンタフェ北東にあるニューメキシコ州サングレ デ クリストスにある彼の牧場に行き、夏を過ごした。

我々は、素晴らしい時を過ごした。カルテックでは、ミリカンとアンダーソンと一緒に宇宙線の研究をした。オッペンハイマーとスナイダーとは、ブラックホールの研究をした。私の名は論文に載らなかったが、その研究の初期段階で関係していた。

NRC評議員は唯の二年で終り、オッピーは私を研究助手にしてくれた。私はNRCから年1,200ドル貰っていた。オッピーはローレンスから、更に400ドルを出してもらえるようにしてくれたのでそれで生活できた。バークレーは家賃も安く、アパートに月40ドル以上払ったことはない。パサデナはもっと安かった。そこでは多くの家が後に小さな庭小屋を持っており、それを月25ドルで借りることが出来た。我々は一台の車に乗るだけの私有物しか持たなかったので、バークレーにアパートを借りておく必要がなかった。我々は持ち物すべてを荷造りしパサデナに持って行き、そして夏の終りに帰ってきてバークレーに新しいアパートを見つけた。

研究するときオッピーは全員を一部屋に集め一度だけ話をし、そして出て行ってしまう。私の仕事は、彼が何をして欲しいか言いたかったことを各人に話すことであった。

すべては心地よく穏やかに過ぎて行ったが、その研究の中にモンキーレンチが投げ込まれた。ウルバナのイリノイ大が真に良い物理学部を設立する資金を得て私はそこの助教授に請われたが、バークレーを離れたくなかったのですぐ断った。その頃丁度、I.I.ラビがバークレーに現れた。ここ数年間、何か重大なことが起る度にいつもラビが現れる。彼は私に話しかけた。へその緒を切れ、独立せよ、と言うのだ。彼はまた、ユダヤ人にとって大学の職を得るのは尋常ではない言い、そんなことは私にとってその時点では起り得ないことであった。後になってオッピーは長い間、私をバークレーに任命しようとしたが成功しなかったことを知った。レイモンド ビルジェは、その学部にユダヤ人が一人おればそれで十分だと言った。こうして、ラビは私にその職を引き受けるよう勧めた。

1938年末、私はウルバナに移った。私はそこにマンハッタン計画に参加する1942年まで四年間を過した。ウルバナとバークレーは学期が異なっていたので、イリノイの 学期が終るとバークレーに戻り、オッピーの牧場で夏の一部を過ごした。その牧場では、物理学ではなく殆どすべて馬に係わり合った。

その頃、多くの興味ある物理学の事象が起っていた。オッピーと私は互いに週ごとに核分裂の論文を書き続けた。ここにオッピーからの手紙がある。その最初の手紙で、1939年1月26日ワシントンでの理論物理に関する会議でニール ボアがその発見を報告した週に、オッピーは原子力と原子爆弾の可能性を気付いていた。その可能性はどの優れた物理学者にとって直ちに明白なことであった。例えば、戦時中どの秘密計画にも携わろうとしなかったモーリス ゴールドハーバー(彼はドイツに親戚がいたからだろう)はそれを聞きつけて、すぐパイル(核反応炉)理論を考案した。フエルミもすぐそれを考案した。ゴールドハーバーはその理論をすっかり完成させ、人々がそれに興味を抱くよう働きかけた。その時点までにある極秘の研究が進んでおり人々は彼の言うことを理解しようとしないか、または関心を抱かないそぶりをしたので彼は心から怒った。

1939年1月末又は2月上旬、私はオッピーから手紙を受け、その夜、ジャーナルクラブで核分裂理論を報告した。それを作成するのに数時間を要した。私は図書館に行き、流体力学の液滴振動理論を調べた。すべて、又は少なくとも基本的な部分については非常に明快であった。

パールハーバー空襲を機に米国は戦争に入ったが、国内の各大学はそれ以前から戦争状態にあった。レーダーと魚雷などを研究する実験物理学者たちは右往左往し、特にレーダー研究の中心になったMIT(マサチューセッツ工科大学)に集中した。パールハーバーの一週間後、私は徴兵されたことを覚えている。1941年12月中旬、オッピーから電話があった。私に話したいことがあって、シカゴで途中下車しウルバナに来ると言うのだ。

私は彼が訪ねて来たときのことを鮮明に覚えている。私達の家は町の端にあった。そこから更に半ブロック行くと、そこには広いとうもろこし畑が地平線まで広がっていた。最初我々がウルバナに転居してきたとき、この小さな町は住みづらかった。一度ラビが訪ねてきて、とうもろこし畑の傍を歩きながら不満を漏らしたら、彼は「もしセザンヌやゴッホがこの風景を描いたら、君も美しいと思うだろうよ。」と言った。

田舎道を歩きながらオッピーは、グレゴリーブライトが任されブライトが発案し、オッピーが指名されたある計画の話をした。それは、全体計画の中で兵器側を開発することだった。これらの秘密は全く秘密ではなかったが、フエルミがコロンビアでもう一方の計画(核反応炉)の研究をしていることを私は知らなかった。いずれにせよオッピーは、爆弾の開発を引き受けるから私にバークレーに来て一緒にやって欲しいと言った。

私は、実験物理学者ではなく理論物理学者が爆弾の設計でこの計画をリードするのに驚いたが、その時点では問題は主に理論面にあったのだ。我々はそれについて話合い、行くことに決めたがとても多くの人達が戦争に行ってしまったので教育環境は絶望的であった。だから4月末頃に春の学期が終ったらすぐ戻ると約束した。

1942年末、我々はバークレーに帰った。そこは非常に混雑しており、道を行くとリッチモンドに大きな造船所があり、その地域には貸家は一軒もなかった。オッピーとその妻キテイはバークレーの北のケンシントンにあるイーグルヒルに一軒の家を買った。ガレージの上に空いた部屋があったので、そこがシャーロットと私のその年の住処になった。

オッピーはある小さな理論グループを作った。ローレンスはそのヒルを上がったところでウランU238からその同位元素U235を電磁気的に分離する計画を進めていた。それが後にオークリッジで運転に入ったマンハッタン計画の電磁分離装置である。このオッピーが集めた若者たちの一団は半ダースばかりで、磁場内の軌道計算等をしていた。

爆弾の計画を始めるに当って、我々は幾つかの英文の論文を読んだ。その論文が臨界質量、効率、及びその他の疑問に出会うきっかけになった(1)。我々はハンディなしではスタートできなかったから、それらの論文は大きな助けになった。誰かが土台(極めてぞんざいな土台だが)を作りそれがスタートポイントになった。爆弾の設計ではオッピーの前任者のグレゴリーブライトの見積は規模の桁が違うほどであった。その爆弾は必要以上の大きさで、威力は非常に小さかった。秘密主義者だったブライトは彼の見積が何に拠っているか誰にも明かさなかったし、私はその数字を見たこともない。我々が見たただ一つは英国で見積もられたものである。私はそれがどんなものだったか思い出せないが、でたらめなものではなかった。

(1) しかしフリッシュ ピエールの覚書は、1941年夏にMAUDレポートが米国で知られるようになったときほど大評判になってはいない。このピエールの研究を含めて後に発行された論文がある。付録1「フリッシュ ピエールの覚書」参照。

私はローレンスのもとで研究しているグループの作業時間の一部を借受けた。彼等はまだ、ローレンスがやって欲しかったことをやらねばならなかったが(ローレンスが彼らに給料を支払っているのだから)実際は、彼等の時間の三分の二は私のために転用されたと言える。彼等はより 優れた拡散理論(2)を導いてくれた。エルドレッド ネルソンとスタン フランケルが正しい解を得たのだ。私は彼らがその問題を彼ら自らが解いたか、科学文献を十分調べて解を見出したかどうか知らない。そんなことは問題ではなく、彼らがより良い方法をこの計画に持ち込んでより良い見積を得たことがポイントなのだ。私はどのようにして物が爆発するかという疑問を解くために流体力学の研究もした。私は何故、指数的衝撃が未だサーバーショックと呼ばれているのか知らないがその頃、彼等がそう呼んでいたのだ。この主題に関するディラックの論文は、どういうわけか間違っており、我々の方が正しかった。

(2) 臨界質量内での中性子の拡散に関する:この入門書の第10章25ページ参照

夏までに、問題を良く手中に収めることができた。不明確な事項は実験値、断面積、核分裂当りの中性子の数等であった。しかし彼等は失敗と成功との差がとても大きいとは見なさなかった。彼等は爆弾が少し大きくなるか、小さくなるかを知りたがった。私は結果の中で解答が得られたのが十パーセント以内なら幸運だと考えた。そこに、間違いが略同数あった。

シカゴ大学冶金研究所から給料をもらっていたので、表向きはアーサー コンプトンのもとで研究していることになっていた。爆弾設計の業務はコンプトンの職責から分岐していた。フエルミは冶金研究所でパイルを作っていた。私はオッピーと一緒にそこへ行って、パイルがどこまで進んでいるか見た。1942年12月、パイルは初めて臨界に達した。

1942年夏のバークレーでの会議はこの理論の全体状況を討議し、原爆が合理的に可能であるかを独自に評価し、すべての事柄がどこまでよく理解できているかを査定した。出席者は、ベス、ヴァン ヴレック、エドワード テラー、フエリックス ブロホ、リチャード トルマン、エミール コノピンスキーであった。それまで我々はこうした会合を催したことはなかったが、それでも敏感な討論を行った。ベスとテラーは原爆を考えてきたし、多分私が持っていた論文に目を通していただろう。我々がやった改善の幾つかを知らなくても、全体像は知っていた。

この夏の討論は核分裂に限定はしてなかった。我々はこの理論を吟味したが誰もがさて全部片付いた、何か面白いことを話し合おうじゃないかと言っているように見えた。エドワード テラーはどの組織にとっても災難を起す人であった。後に、彼はロスアラモスでもシャーロッテを困らせた。と言うのは、彼はある計画(陸軍が我々に与えた利発な若者、特殊工兵分遣隊員、のための学校)を発足させたいと言い、設立されると彼は去りだれかほかの人がその代わりを 勤めねばならなかった。その夏の会議の時点では、エドワードは悪者ではなかった。彼は我々の友人の一人だったが、とっぴなアイデアを沢山持ち出し始めた。エドワードはいつもアイデアで一杯だった。例えば、その一つというのはショックアブソーバーを爆弾の核物質の中に埋め込むというもので、一つの大きな 核がアブソーバーを入れると爆発が圧縮され、その効果が次第に減っていくと核物質をどんどん臨界に持っていく。この入門書が言う自然触媒法のことである。

しかし、テラーがこだわった主な事柄は勿論、熱核兵器(水爆)を開発するアイデアであった。彼の熱核兵器のアイデアは長い間、彼が追い求めてきたものだがいわば古典的スーパーというべきもので、作動しないそして作動し得ない代物だった。それは本質的にTNTに似ており、重水素とトリチウムの混合物の中を爆発の衝撃波が通り過ぎていくというもので、それでは作動するわけがない。しかしエドワードはこの課題を1942年夏の会議に上げ、全員がこれに興味を示した。彼は毎朝、有望なアイデアと共にある議題を持ち出し、それがまともなものでないことをベスが徹夜で証明した。彼らは核爆弾の開発は私が統制でき、そこに何の心配はないと暗黙のうちに考え ていたのである。

その会議は非常に面白く、そして勿論いろいろな事柄がすべて取り上げられた。例えば不透明体とは、どのようにして光が高温の重水素/トリチウム混合ガスを通って逃げ出せるか、ということである。エドワードは最初、それは楽な仕事だと思った。ベスは彼のいつもの役割を演じながら、それを粉々に打ち砕いた。エドワードは、どれほどガスが熱せられていても解放されると思われるエネルギーを心の中に描いていた。ベスが輻射を考えるべきだと指摘するまでは、誰もがエドワードの考えは立派だと考えていた。黒体輻射と平衡状態でなければならない。その輻射は絶対温度の4乗で増加し熱を直ちに流し出し、すべてのものを冷却する。あなたは何かを感じ始めそしてその結果、正解はすべてが電磁輻射になるのだ。エドワードはそうは考えなかった。ベスはそのエネルギーが急速に流れ出すメカニズムを考え(我々はそれを逆コンプトン効果と呼んだ)それがエドワードの計算が誤りであることを証明し、彼の理論は再び顧みられることはなかった。

エドワードは大気に点火するというかの有名な議題を持ち出した。ベスはエドワードのやり方にくさり、数字を添えてそれが起り得ないことを示した。それは答えねばならないが、どうにかしなければならないものではなく、唯の数時間の議題でしかなかった。オッピーはアーサー コンプトンとの電話の会話の中でそのことを話すという大失策をしてしまった。コンプトンはこれを黙って見過ごしてしまうような人ではなかった。それが書類になってワシントンへ行った。そのあとすぐ誰かの目に止まり、質問が下りてきてこの問題は更に尾を引くことになった。

リチャードトルマンはとても重要な別のアイデアを持っていた。それはその当時は重要だとはっきり認識されていなかった。ある日、トルマンが私のところへやってきて爆縮(高性能炸薬の爆発で核材料の断片を集めて臨界質量にする)の話をした。我々はそれをその夏討議し、そのテーマに関する覚書を作った。我々は固体の材料を圧縮し、固体金属を押しつぶして密度を増すアイデアを持ち合わせてはいなかった。我々は殻を爆縮して、その形状を殻から固体の球に変えることによって臨界質量にすることを考えた。それが主要なアイデアであった。我々が書いた覚書は戦後失われてしまったがトルマンの書いた二つの覚書は残っている。そして1943年3月の会議メモはコンプトンとブッシュがオッピーにこの方法を推進するよう提言したことを記している。従って、孤独の天才セスネッダーマイヤーが独力で爆縮にたどり着いたという話は、すべて場当たりを狙った映画の筋である。彼が爆縮の事を聞いたのは、入門書の講義のときであった。高性能炸薬のリングにより複数の断片が合体するさまを示した入門書の図(59ページ参照)は爆縮のイメージである。ネッダーマイヤーはそれを彼自身で考え出したのではない。リチャード トルマンがこのアイデアを持ち込んだのである。

グローヴス将軍は陸軍工兵隊の准将で、マンハッタン計画の指導者だった。10月、彼がバークレーにやって来た。彼と会ったのはこの時が最初だった。私がオッピーと事務所にいたとき、彼が一人の大佐(多分ケン ニコルス)を連れて入って来た。グローヴスは入ってくるや、軍服の上着のボタンを外して脱ぎ、それをニコルスに手渡し「これを持って行って乾燥掃除機にかけ、きれいにしてくれ」と命じた。大佐を使い走りの少年のように扱う、これがグロー ヴスのやり方だった。

夏の会議後、グループのメンバーは二つか三つのグループに分れた。オッピーと私はシカゴへ行きベスとテラーに会い、打合せを重ね、良い協議ができた。ロバートは更に旅行を続けた。彼は総ての実験プロジェクトを監督していた。私はジョン マンレーがそれらの管理を引き継いだと思う。オッピーはその人々に、起っていることをほんの少ししか話さなかったが、語りかけ、モラルを高揚させ続けねばならなかった。ロスアラモスに向けて計画が始まった。そしてそれは彼から多くの時間を取り上げた。私は理論を仕事とする理論グループを統括した。やるべきことはいつも沢山あった。

最後に物事が本当にまとまり、移動するときが来た。それは1943年3月のことであった。オッペンハイマーは我々より数日早くニューメキシコに向け出発した。我々は過去何年間に総てのものを車に積み込んでパサデナに下り牧場に向かったときと同様、バークレーから66号線を横切ってドライブして行った。ロスアラモスはその当時予期していた通りある種の混乱状態にあった。建物は整っていなかったので、陸軍は谷間の中にある二つの観光牧場を借り上げてくれた。私は陸軍が研究所のために譲り受けた古い牧場学校の寄宿舎に住んだ。この建物はビッグハウスと呼ばれ、その後取り壊された。そこに巨大な丸太小屋があった。小屋の中に大きな浴室があった。シャーロットはそこでシャワーを使い、子供が誤って頭を突っ込んで非常に困らせた。学校の馬たちはまだその辺りにいた。ボブ ウィルソンはプリンストンで安く雇った若者たちを集めて、乗馬させた。シャーロッテと私も馬に乗り野を疾駆した。ウィルソンの子供たちは右や左に落馬した。埃が舞った。そこは荒野で西部そのものであった。

組織立ったものは何もなかった。オッピーは陸軍が台地全部の木々を切り倒そうとするのを止めさせようとものすごい闘争をし、それにかなり成功した。技術棟が完成近くになったが、周辺の柵はまだだった。建設現場に駐在する西米混血の警備員達が居ただけで、彼等の殆どは英語が話せなかった。そこには安全保障と言えるものは何もなく、担当は中尉一人だけだった。ロスアラモスは公式には政府と契約したカリフオルニア大学の管理下にあったので、オッピーはカリフオルニア大に通行証に使える文具を手紙で要求した。それを内ポッケットに貼り付けて仕事をしたが、最初の午後の終りにはもう薄汚れてしまった。私はジョニー ウイリアムズがローズ ベスを夜遅くサンタフェから案内してきた夜のことを覚えている。彼等は門番小屋に来てジョニーの通行証を見せたが、守衛は読めなかった。守衛は真の紳士なのか、車内に女性が乗っているのを見ても許可を与えようとはしなかったのだ。

3月末までに、陸軍は人々が転居できる幾つかの建物を完成させた。我々は複式家屋に入り、ウイルソンはその片側に入居した。人々が到着しつつあった。オッピーは陸軍と調整して、何かにつけ干渉させないようにした。そこで大勢の外部からやって来た人達と会議を催した。その場は人々が今やっていることをより詳しく話すために設けられた。そして、そこに私(そしてこの入門書)が登場したのである。(終)