史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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本章では、1945年に造られ爆発した三個の原爆について述べる。これらの装置を説明するのに図を用いるのが有効だが、どのASCIIグラフイックスも不満足である。将来、GIFで図示したいと考えている。

ガゼットとフアットマンとは、基本的に同じだから一緒に論ずる。ガゼットはフアットマンで用いられた爆縮型の実験用供試体である。この爆縮爆弾は、爆発波整形技術が新しいものであることと装置が複雑であるから、実験がぜひ必要であった。

以下のデータは米国製ガゼット/フアットマンをもとにしているが、最初のソ連原爆にも適用できる。その原爆はソ連のコード名でRDS-1(Reaktivnyi Dvigatel Stalina;スターリンのロケットエンジン)と言い、米情報機関はそれをジョー1と命名した。原爆の設計の細部は、ロスアラモスで働いていたスパイからソ連の情報機関に漏れた;この計画の責任者で共産党員の Lavrenti Beria は、最初の原爆は立証済の米設計に出来るだけ似せてコピーしたと言明した。ロスアラモスの鍵になる二人のスパイは、Theodore ("Ted") Hall と Klaus Fuchs であった。Hall は爆縮実験に従事し、その実験作業の或る分野を担当し1944年暮、初期開発段階であったが爆縮の概念に関する情報をソ連に流した最初の人物であった。この爆弾に関する詳細な設計情報は、その開発に鍵となる役割を果たしたFuchsがもたらした。また、レンズ製造に関する重要な情報を David Greenglass から手渡されたが、その殆ど又は全部は Hall と Fuchs からの情報の域を出ないものであった。1990年代初頭、KGB/RFIS当局の発表で"Perseus" というコード名の未確認の科学者スパイの存在を認めたが、その後これは空想の産物であることが分った。

1.1 ガゼット、フアットマン

以下のガゼットの鍵になる情報は、ソ連スパイ活動の結果として間接的に公表された:米国が未だ秘密にしているスパイ行為関連の記録が旧ソ連側から開示された。そして最近、Fuchs とRosenberg の尋問に係わる多くのFBI記録が開示され、そこに両人がFBIの尋問者に渡した設計データが含まれていた。

その基本構造は、同心の鳥の巣状になった一連の球体(詳細は以下の各章で説明する)である。それらは外から内部に向けて、次の各層よりなる(数字は半径):

爆発レンズ系 63cm
プッシャー/中性子吸収殻 23cm
ウランタンパー/反射殻 11.5cm
プルトニウム核 ?4.5cm
ベリリウム中性子発生部(ピット) ?1.0cm


(1) ピット

プルトニウム核は、6.2kgのデルタ相プルトニウム合金である。この質量値はトリニティ実験二日後に、グロ-ヴス将軍から戦争局に宛てた機密情報のリストから除かれた覚書に記されている。彼はこの装置とその実験の結果を説明し、爆発は3.5ポンドのプルトニウムが起したと述べている。この核は直径9.0cmの球で、その中央に中性子発火器用の直径約2.5cmの空洞がある。この核の設計はロバート クリステイの助言により、爆縮の非対称と不安定を最小限にするよう細心の注意が払われた。この空洞内に発火器が挿入できるよう、直径2.5cmの孔とプルトニウム製の栓がある。

プルトニウムはワシントン州ハンフォードの核反応炉で造られた:オークリッジの実験用X-反応炉で造られた約200gのプルトニウムもまた利用されただろう。戦時下の100日間という非常に短い照射期間ではあったが、プルトニウム240を僅か0.9%しか含まない超高品質のプルトニウムであった。

このプルトニウムは3%ガリウム(質量容積では0.8%重量)と合金になり、低密度デルタ相(比重15.9)に安定化されたが、それ以前は非常に高純度であった。デルタ相プルトニウムが、115℃以下で安定な純プルトニウム高密度アルファ相(比重19.2)より有利な点は、アルファ相がもろいのに対しデルタ相は可鍛性があり、デルタ相で安定させておくと冷却時に劇的に収縮して鋳型が、そして高温状態の純プルトニウムが歪むのを避けることができる。更に、安定化することによって、移相膨張しなくなる。製造後、ピットの過熱などによって膨張し歪みが発生すれば、兵器として使い物にならなくしてしまう。

低密度デルタ相は爆弾に使用する場合の不利を相殺するかと思われた。高密度は効率を高め、材料への要求が減ると思われたが、そうではないことが分った。デルタ相に安定化されたプルトニウムは比較的低い圧力(千バールの十倍、即ち大気圧の十倍)でアルファ状態に相転移する。通常の衝撃による圧縮に加えて、爆縮による衝撃波で生ずる数百万バールの圧力がこの転移を引起す。よって、より高密度のアルファ相より、多くの密度の増加と大きな反作用挿入(reactivity insertion)を起こす。

このピットは二個の半球に分けて、多分最初は空洞部を鋳造し、次に一酸化炭素を含むニッケルの雰囲気中でホットプレス成型された。プルトニウムは重大な健康障害を引起すばかりでなく化学的に非常に反応し易い金属だから、各半球はニッケルメッキ(又は銀メッキ;ガゼットの核は銀メッキだったと言う)された。これがガゼットのピットに問題を起した。と言うのは、とり急いでメッキしたため電解液がニッケル膜(又は銀)の下に残り、それが火ぶくれして半球同士ぴったり合わなくなった。注意深く研ぎ、金箔を敷いて必要な平滑面に仕上げた。しかし設計上、半球間に薄い金のパッキン(約0.1mm厚)は必要であった。と言うのは、このパッキンが衝撃波のジェットが半球間を先に通り抜けて点火器が過早発するのを防ぐからである。

(2)中性子点火器

このベリリウム点火器はウルチンまたはスクリューボール設計と呼ばれた。この点火器は固体ボロニウムの球を内蔵するベリリュウム殻の球体で、全重量は7グラム。殻の外径は2cm、厚さは0.6cm、内径は0.8cm。殻の内面に深さ2.1mmの楔形の溝が15本、平行に彫り込まれた。ピットと同様、この殻も二つの半球に分けてニッケルカルボニルの雰囲気内でホットプレス成型された。殻と中央の球の表面は0.1mm厚の金と、ニッケルカルボニルの雰囲気内でデポジットされたニッケル層で覆われた。50キューリーのポロニウム-210(11mg)が殻の内側の溝と中央の球の表面にデポジットされた。金とニッケル層がベリリウムをポロニウムや周囲のプルトニウムが輻射するアルファ線から遮蔽する。ウルチンはピットの直径約2.5cmの中央空洞内のブラケットに装着された。 ウルチンは爆縮の衝撃波がピットの中央に達したとき起動する。衝撃波がこの空洞壁に達した時、壁は蒸発しプルトニウムガスの衝撃波が点火器に衝突して溝を壊し、モンロー効果ジェットを生じてポロニウム殻と内部のベリリウム球を急速に混合する。ポロニウム-210が輻射したアルファ粒子がベリリウム原子に衝突し、束縛から解き放たれた中性子をおそらく5‐10ナノ秒(10-9秒)に1個、周期的に叩き出す。

(3)反射器/タンパー

ピットは重量120kg、外径23cmの自然ウランのタンパーで覆われていた。そのタンパー層の厚みは7cmで、この厚みは中性子を保存する見地から決まった。爆発を慣性で閉じ込めるだけなら、タンパー厚は数センチで十分であった。ウラン反射器(10cm超)を更に厚くすると臨界組立の量を節約できる。しかし、厚くし過ぎても早い指数関数的連鎖反応本来の"time absorption"効果のため威力の増加が見込めない。爆弾の威力の約20%はこのタンパーの早い核分裂による。 ピットとタンパーとが共に副臨界系をなす。爆縮によりもとの2.5倍の密度(多分それより多少少ない)に圧縮されたとき、ピットは略4-5臨界質量となる。使用前はピット内にカドミウム線を用いて、危険をなくしている。

(4)プッシャー/中性子吸収殻

タンパーを取り囲んで厚さ11.5cm、重量120kgのアルミ球がある。プッシャーと呼ぶこの球の主な目的は、テーラー波と呼ばれる炸裂衝撃波の背後で起る急激な圧力低下の影響を減らすことにある。テーラー波は爆縮時に衝撃波が集まれば集まるほど、より急速に圧力低下を起こす。コンポB/アルミの接合面で(密度比1.65/2.71のため)衝撃波が反射され、第二のより高い圧力の衝撃を炸薬側に送り返し、テーラー波を抑圧する。これが、ひいては送出波の圧力を高め、コア中心に到達する圧力を増す。

タンパーの周りにボロンを含む層がある。ボロン自身は製造が難しくもろい非金属で一般にボラルと呼ばれ、鍛造可能なボロン/アルミ合金(代表的な組成はボロン35-50%)の状態で存在する。アルミ球全体をボロンが比較的少量しか含まないボラルにすることも可能であった。タンパー内で突然発生した核分裂中性子を炸薬とアルミ層でボロンによって低速の熱中性子にし、散乱してタンパー/ピット組立に戻るのを防止する。

(5)高性能炸薬レンズシステム

高性能炸薬爆縮システムの層の厚さは47cm、重量は少なくとも2500kg。このシステムは32個の炸薬レンズよりなり 、うち20個は正六角形、12個は正五角形である。このレンズはサッカーボールと同じ配列で組み合わされ(右図)、直径140cmの完全に球形の炸薬組立になる。各レンズは三部分よりなる:二つは高速炸薬 、一つは低速炸薬。最も外側にある高速炸薬はその内面に円錐状の空洞を持ち、その中に低速炸薬の適当に整形された部分が入り込む。内側の高速炸薬はアルミ球に接して配置され、一点に集まる衝撃波を増幅する。レンズは精密鋳造によって作るため、溶解可能な炸薬が使われた。主な炸薬はコンポBで、その組成は60%RDX(非常に高速だが溶解しない炸薬)、39%のTNT(融けやすい良い炸薬)及び1%の蝋。低速の第二の炸薬はバラトールで、TNTといろいろな組成の硝化バリウム(TNTは代表的には25-35%)及び1%の蝋をバインダーとして使用する。硝化バリウムは高密度なのでバラトールの密度は少なくとも2.5になる。

このレンズ系は非常に高い精度で作られる。炸薬の組成と密度は正確にコントロールされ極端に一様でなければならない。夫々の部品は衝撃波に不規則性を生じないように1mm以下の精度で組み合わせねばならない。レンズ表面を正確に整列させることは、密に合わせるより重要である。すべてを互いにこじんまり合わせるために、テイシュペーパーやスコッチテープが大量に使用された。

レンズからピット本体に至る爆弾の構成品は夫々、正確に爆縮できるように出来るだけ精密に、かつ最高の密度で作られた。

炸裂を出来るだけ最も正確に同期させるため、電気加熱導線よりなるありふれた雷管を用いたが、連続した主及び副炸薬は用いなかった。その代わり、新しく開発された炸裂導線雷管を用いた。この雷管は一本の薄い導線よりなり、強力なコンデンサーから発生する電流のサージにより爆発的に蒸発する。この爆発導線の衝撃波が雷管(PETN)の副炸薬を点火する。コンデンサーの放電、及び爆発導線による衝撃波の発生は±10ナノ秒に同期できる。このシステムの欠点は、32個の雷管全部を同時に爆発させるために、大きな電池、高電圧電源、及び非常に強力なコンデンサーの堆積が必要なことである。このコンデンサーの堆積の引き金を引くのに、スパークギャップスイッチのカスケードを用いた。

全爆発組立は、デュラル(デュラルミン)と呼ぶ強力アルミ合金で出来た殻中にまとめて収納された。この他に多くの殻設計が試され、不採用になった。この殻設計(モデル1561と称する)は機械加工されたデュラル鋳物の5個の部分を赤道帯でボルト結合し 、丸屋根状帽子を先端と後端にボルト結合して完全な球体にした。

爆弾設計の最後は"はねぶた"組立であった。爆弾全体はピット/点火器以外は前もって組み立てられる。完全に組立てるには、先ず丸屋根状帽子と共に炸薬レンズ一個を取り外す。プルトニウム半球の間に点火器を挿入し、ピット組立を40kgのウラン筒に挿入してタンパー内に滑り込ませて完全なコアとする。炸薬レンズを元に戻し、帽子を元の位置にボルト結合する。

最悪の不慮の事態で比較すると、リトルボーイでは重大な安全問題にならなくてもフアットマンにとってはそうではなかった。ウランに取り囲まれたデルタ相コアの臨界質量は7.5kgだが、アルファ相ではただの5.5kgであった。(火事あるいは墜落により)高性能炸薬が炸裂するという事故が起ると、6.2kgのデルタ相コアが壊れて超臨界アルファ相状態になることが考えられる。この爆発で予測される威力は数十トンのオーダー、大まかに言って炸薬自身のエネルギーの十倍、から数百トンまでである。主な危険はガンマ線から来ると考えられ、これは爆風効果が及ぶ地域の外側に広く及ぶ。20トンの爆発は、爆弾から250mの地点で致死量の640レムガンマ輻射を生ずる!

安全上の理由だけでなく、運搬の見地からも爆縮爆弾は組立てた状態で運搬してはならないが、使用時には短時間で組立ねばならない。この過程は、この兵器の複雑さにより少なくとも二日(点検手順を含めて)はかかる。この兵器はX-ユニット電池が劣化するため、組立状態で 数日しか放置できない。

1.2トリニティ(ガゼット実験)

歴史上最初の原子爆発実験は、北緯33度40分31秒、西経106度28分29秒(北緯33.675度、西経106.475度)のニューメキシコ州アラモゴード射爆場で行われた。供試体はガゼットと呼ばれ、実験作戦のコード名はトリニティであった。ガゼットは直径150cmの球で、前述の基本的な炸薬組立とジュラル殻、点火電子装置よりなり、高さ100フイートの鋼鉄の塔の頂上に外付で搭載された。その高度は海面上1,175mであった。

ガゼットの組立は7月11日から始まり、5日を要した。7月13日までにグランドゼロでガゼットの炸薬レンズ、ウラン反射器及びプルトニウムコアの組立が完了した。7月14日、ガゼットは30m実験塔に引き揚げられ、発火器が結線された後、最終実験準備が始まった。7月16日午前5時29分45秒(山岳戦時時刻)、ガゼットは炸裂した。威力は20-22キロトン(最近の見積によれば)で塔は蒸発した。爆弾は地上で炸裂したので、非常に浅いクレーター(主に土壌の圧縮によって造られた:深さ2m、直径80m)が出来ただけであった。このクレーターは周りを、"トリニタイト"(又はアトムサイト)と呼ばれる融合した(溶けた)砂で囲まれていた。ガゼットの威力は、始めは放射化学実験をもとにして18.6キロトンとされた。予測された威力はただの5-10キロトンだったので、多くの実験器具が損傷し、有用な(或いはいろいろな)データが取得できなかった。

ガゼットが地面に非常に近いところで炸裂したので、局所的な放射性降下物がかなり発生した(グランドゼロでは、放射された中性子による大量の誘起放射能も発生した)。最も強い誘起放射能は、グランドゼロの周り約10mの不規則な円の中にあった。雲は11,000mの上空に達し、風が北東に吹いていたので強い放射性降下物は風下20km先まで降下しなかった。

最高の放射性降下物はグランドゼロから北東20kmで検出された。この地域内のUSハイウエイ380に沿って10マイルにわたり記録された放射能レベルは"総計約50R(レントゲン)"に達した。この地域は"ホットキャニオン"と呼ばれた。キャニオンはビンガムの町の5マイル東、道路のジャンクションの1.1マイル東にあたる。
下記は爆発後の放射能レベルの一覧である:
  15.0 R/Hr 3時間後
  14.0 R/Hr 3時間半後
  6.0 R/Hr 8時間半後
  0.6 R/Hr 36時間半後
この場所での全曝露量は212-230Rであった。
放射性降下物の羽毛の経路に沿って30kmのニューメキシコ州ビンガムまで住民が退避した。そこでは、実験後2及び4時間後に1.5R/hrのガンマ線強度が記録された。ビンガム南方では15 R/hrに達したが、爆発5時間後には0.032 R/hr以下に減少した。ホットキャニオンの0.9マイル東方に大人二人と小児一人のライトリフ家族が住む一軒の家があった。この場所でのレベルは"爆発して3,600時間後に雨が降り0.4 R/hr以下に減少した。蓄積した全分量は57-60Rであった"。また、近隣にはウイルソンという夫婦の家があった。ここの人々は避難しなかった。
放射能(ベータ線)による火傷が、後に実験場の周辺にいた牛から見出された。主な放射性降下物の分布はグラウンドゼロから遠方160km、幅50kmに及んだ。

1.3リトルボーイ

(1)リトルボーイの設計


リトルボーイの設計はガゼット/フアットマンとは全然違う。リトルボーイは砲撃方式を採り最初、核物質にプルトニウムを用いる予定であった。その一方で、ウランを用いた砲撃兵器の開発は多少、目標が定まらないところがあった。このウラン砲の開発に向けた初期設計と実験は、ロスアラモスが動き始めた1943年夏から年末にかけ実施された。この作業は、技術的により重要なプルトニウム砲に注目が向けられたので間もなく中止された。もしプルトニウム砲の開発が成功したら、ウラン砲は必要な砲弾速度が遅くても良いので、開発の意味が無くなるからである。

1944年4月-7月、反応炉で生成されたプルトニウムが非常に高速の中性子を輻射することが分かり、プルトニウム砲を諦め、ウラン砲に真剣な注意が戻ってきた。ウラン砲プログラム(兵器部の0‐1グループ)はA.フランシスビルチが率いていた。彼は仕事の方向付けをするのに、考慮すべき事実の奇妙な組合せに直面した。ウラン砲の開発に取り掛かったにも拘らず 、爆弾に必要なU-235は1945年半ばまで入手できないことが明らかであった。それでもなお、核爆弾の開発をなるたけ早く完成させよという強力な圧力がかかったので、ビルチは研究所のすべての資源をリスキーなプルトニウム爆縮爆弾に振り向けざるを得なかった。更に、そのプルトニウム爆弾の可能性には疑問があったので、ウラン爆弾は絶対に作動させねばならなかった。従って、ウラン爆弾は技術的には比較的易しいプロジェクトだが、それでも細部にわたる特別な注意を必要とした。

到達した設計は非常に保守的なもので、実験で作動性を確かめるまでもなかった。1945年2月、設計が終り(最終型式はモデル1850)、その後は実用化の準備を残すのみとなった。1945年5月初旬、U-235ピット以外の爆弾本体は実用可能な状態にあった。



ピットは高濃縮された64.1kgのウランを格納する。リトルボーイの組立が行われるまでに、オークリッジで89%まで濃縮されたウランが50kg生産され、残りの50%まで濃縮されたウランが14kg手元にあった。これらはすべて爆弾に使用され、平均濃縮度は80%、約2.4臨界質量であった。この値はガゼット/フアットマンで達成した5或いはそれ以上の臨海質量より小さく 、これがリトルボーイの効率が低い主な理由である。これらの値を南アフリカ共和国の砲撃型爆弾の公表されたデータと比較すると面白い。この爆弾は、濃縮ウラン(多分、濃縮度90%以上)55kgと、反射器としては劣るが優れたタンパーである炭化タングステン(タングステン金属と比較して臨界質量が15%少ないが、密度が25%低い)を使用している。

リトルボーイのU-235は、砲弾と標的の二つの部分よりなる:
砲弾:リング状のU-235を積重ねて直径10cm、長さ16cmの円筒状にしたもので、全質量の40%(25.6kg)を占める。リング6枚は一枚の炭化タングステンの円板と鋼鉄製バックプレートで裏打ちされ、0.16cm厚の鋼鉄缶に入れて完全な砲弾となる。
標的:直径16cm、長さ16cmの中空円筒型、重量38.4kg、タンパー組立内に収納。この標的は二個の分かれたリングとして製造され、爆弾内に別々に挿入される。

重量64kgのU-235は球にしただけで、無反射の状態でも超臨界になることに注意。砲弾は全部89%濃縮ウランで作られ、最も核分裂しやすい物質をコアの中心に置くことは効率の良い爆弾の設計の基本原理である。砲弾はボロンの弾底板内に包まれ、これが中性子を吸収し危険な事態が起こるのを防ぐ。標的にもまたボロン製の安全プラグがある。砲弾が標的に到達するとボロンの弾底板が抜け落ち、プラグは頭部のくぼみ中に射入される。

リトルボーイ用のタンパー組立は、厚い炭化タングステンタンパー/反射材とそれを取り巻く直径約60cmの鋼鉄鍛造タンパーよりなる。炭化タングステン/鋼鉄タンパーを合わせた重量は2,300kg。U-238が卓越したタンパーであり反射材だが、これに代えて炭化タングステンと鋼鉄を用いたのは、U-238は突然核分裂を起こす性質があるからだ。U-238はU-235より100倍も突然の核分裂を起こしやすく、タンパー(200kg)として用いるに十分大きな砲は一秒間に3,400個の中性子を発生するので、この値は砲撃型としては大きすぎる。

鋼鉄鍛造物の中に穴をあけ、炭化タンパーを挿入する。標的は数本のリングとなって挿入する。標的の入口はネジ溝が彫られ砲身をその中にねじ込んで強く固定する(さもないと砲弾の発射時、砲身が後退し標的/タンパーから砲身を引き離してしまう)。

砲弾中の核分裂物質が標的に到達するまでに約0.5ミリ秒かかるが、リトルボーイのための反応挿入時間は1.35ミリ秒であるだけで、砲弾が目標に達する前に危険な状態になることが分った。ウラン/鋼鉄組立は、衝突した時砲弾リングが拡張して砲弾を止め、保持する「盲目の標的」として設計された。たとえ中性子イニシエータが作動しなくても、爆弾は瞬間に自発的核分裂を起こして爆発しただろう。オッペンハイマーは、1945年3月15日にやっとイニシエータを取付ける決定を下した。結局、テニアンに出荷されたABNERイニシエータは16個のバッチ中4個がリトルボーイに用いられた。これらは標的組立の前端に放射状に取付けられた。

(2)リトルボーイの投下

砲身は内径7.6cm対空砲用で、直径16.5cm、長さ183cm。リトルボーイの砲弾に対応するため内径10.2cmまでボーリングされた。その重量は約450kg、砲尾ブロックの重量34kg。通常の野砲用無煙火薬であるコルダイトを推進薬として使用し、砲弾の速度を毎秒300mに加速する。

標的に打ち込まれた砲弾が衝突して崩壊する可能性を減らすため、嵌め合いを意図的に非常にきつくした。核物質を一体化するには、砲弾を砲尾に押込み約300,000ニュートン(70,000ポンド)の力で前方に押し出す必要であった。硬い表面に衝突させるには、おそらく加速度は500Gを必要としたであろう。

リトルボーイの兵器設計は恐ろしく危険なものであった。いったん推進薬を詰めたら、もしそれに点火すると核爆発を起こす。この理由から、"デューク"パーソンズが兵器係として搭乗し、墜落したり発火したりする場合に備えて離陸後、砲身内にコルダイト爆薬を詰めることになった。推進薬が詰められていなくても、墜落(あるいは過失による落下)によって砲弾が標的内に突入して不発(数キロトン)から完全な爆発に至る何等かの事故を引起す可能性がある。もしリトルボーイが水中に落ちるとそこは危険地帯になる。三個の臨界に近い質量を隔てているのは空気だけだから、この爆弾内に流入した水が変調装置として働き、臨界状態にさせるだろう。高威力爆発は起こらなくても、急速な溶解または炸薬の不完全燃焼及び放射性物質の激しい拡散が結果として生ずるかもしれない。

この兵器は長さ126インチ、直径28インチ、重量8900lbであった。リトルボーイはフアットマンと同じ空中破裂雷管システム(後述)を用いた。この設計を用いた武器のうち、実際に使用されたのはこれが始めてである。他にただ5個のリトルボーイが作られたが、それ以外は米国兵器庫に入ることはなかった。これまで、臨戦態勢の武器に組立てるに必要なコンポーネントの完全な一セットさえ追加調達されなかったようだ。

最初のウラン235砲弾の部品は1945年6月15日、ロスアラモスで完成した。リトルボーイ用ウラン235砲弾の鋳物は1945年7月3日に完成した。リトルボーイ爆弾の構成単位はウラン235砲弾と共にサンフランシスコに送られた。これらは7月16日、サンフランシスコの米海軍ハンタースポイント造船所でUSSインデイアナポリス(CA-35)に積載され、マリアナ諸島のテニアン島へ向け出航した。7月24日、リトルボーイ用の最後の構成品、ウラン235目標挿入物、が完成し翌日試験された。7月2日、インデイアナポリスはリトルボーイ爆弾の構成品とウラン235砲弾をテニアンに揚陸した。同日、目標組立は三部品に分解されて、三機のC-54輸送機に搭載されアルバカーキのカークランド航空基地から離陸し7月28日、テニアンに着いた。

爆弾L11が戦闘用として選ばれ7月31日、U-235砲弾と目標が4個の点火器と共に組み込まれ、リトルボ-イはその翌日使用可能になった。台風の接近により、8月1日に広島を攻撃する計画は天候が回復するまで延期された。8月5日、テイベッツはパイロットのロバート ルイスの反対を押し切って、B-29 No.82を彼の母親にちなんでエノラゲイと命名した。リトルボーイはその日その機に搭載された。

1945年8月6日 -
0000 最終ブリーフイング、目標は広島。操縦士テイベッツ、副操縦士ルイス。
0245 エノラゲイ離陸開始。
0730 爆弾アーミング。
0850 エノラゲイは高度31,000ft、広島東方で四国を越えた。爆撃条件は良、照準点は容易に目視可、反撃に遭遇せず。
0916:02(広島時間8:16:02)、リトルボーイは照準点相生橋から550ft離れた地点の上空1,900±50ftで爆発、威力12-18キロトン(この値はこの兵器の設計に計測実験が行われていないので一部不確定)。すべての入手できる証拠を用い1987年に終った6年間の研究の結果、威力は15キロトン(±20%)であったとされた。

リトルボーイの威力は投下前の予測では13.4キロトンで、爆発高度は1,850ftに設定されていた。この実爆発高度は15キロトンという威力値を用いると、爆風圧が約12psiとなるに最適値であった(その高度は、12psiまたはそれ以上の過圧になる地域を最も多くした)。ある都市に爆風圧で損害を与えるには5psiで十分であるから、爆発高度が2,700ftならより大きな損害を与えたであろう。威力の予測が不明確なことと、高いところで爆発すると効果が急激に低下することから、威力が小さい場合を考慮して爆発高度を控えめに低く設定した。1,900ftでの爆発は5キロトンに対し最適であった。この爆発高度は日本上空の重要な放射性降下物を避けるのには十分であった。

1.4フアットマン

爆縮爆弾(モデル1561)の実用形態は、基本的にはガゼットを鋼鉄製の卵形装甲の中に収めたものである。二個の鋼鉄製半楕円体は、その前後殻内に配置されたXユニット、電池、及び起爆・点火装置と共に、ジュラルミン製炸薬組立の赤道上の帯にボルト結合される。実戦での使用の際には、フアットマンは殆ど最初から組立てなければならず、時間のかかる作業を必要とした。フアットマンの組立はこれまでのどの武器の野外準備作業より複雑であった(そして、今もそうかもしれない)。

リトルボーイと同様、フアットマンは「Archie」と呼ぶ四個のレーダー装置により起爆され、そのアンテナは爆弾頭部に取り付けられた。もとは戦闘機後方警戒システムとして開発されたこのユニットは、爆弾の地上からの高さを測定し、前以って計算された高度(1,850ft±100ft)で爆発するようにセットされた。気圧スイッチはフ ェールセーフとして作動し、爆弾が7,000ft以下に落下するまで、爆発しないようにする。

フアットマンは直径60インチ、長さ12フィート、重さ10,300ポンド。フアットマンのプルトニウムコアとそのイニシエータは、C-54輸送機に積み込まれ1945年7月26日、カートランド空軍基地を離陸し、7月28日にテニアンに到着した。また7月28日、3機の特別に改装されたB-29が、それぞれ外殻に入れられた3個のフアットマン爆弾組立(ユニットF-31とF-32を含む)を積んでカートランド基地を離陸した。8月2日、各航空機はテニアンに到着し、これが最初のフアットマンユニットになった。この時、爆撃日は8月11日、目標は小倉とされた。訓練(非核)爆弾の組立がすぐ始まり、最初の完全な爆弾(フアットマンユニットF33)は8月5日に準備が完了した。8月7日に、11日周辺の5日間は悪天候が予測されたため、爆撃日付は8月10日に、そして8月9日に変更された。これが爆弾の組立日程を相当圧縮したので、組立途中で多くの点検手順を省略せねばならなかった。8月8日早朝、プルトニウムコアが装着されたフアットマン組立F31が完成した。22時にフアットマンはB-29「ボックスカー」に搭載された。

1945年8月9日-
* 3時47分、ボックスカーが、テニアンから最初の目標・小倉兵器廠に向け離陸した。パイロットはチャールズ スウィーニー。離陸後すぐ、彼は燃料システムが燃料600ガロンを予備タンクから汲み上げられないことに気付く。

* 10時44分、ボックスカーは小倉に到着したが、目標がもやに覆われ照準点が見えない。攻撃機と戦闘機が出現し、目標を捜すのを止めよと航空機に強要した。スウィーニーは第2目標の長崎に向った。

* 長崎に到着した時、ボックスカーにはこの都市上空をほんのワンパスだけして、沖縄に緊急着陸するだけの燃料しか残っていなかった。長崎は雲に覆われていたが、ある雲間から意図した照準点から数マイル離れた地点が見えた。

* 11時02分(長崎時間)、フアットマンは都市周辺付近の高度1650±33ft(503m)で爆発し、その威力は22±2キロトンであった。爆心地は山に囲まれていたため、航空機は5回の衝撃波を受けた(初期のショック、および4つの反射波)。フアットマンは無人エリア付近に落ちたが、最終の被爆者数は70,000人を越えた。また爆心地は長崎の主要な軍隊目標である三菱兵器製造工場付近であり、それは完全に破壊されたことが判明した。1987年の再評価の結果、威力は21キロトンであった。リトルボーイおよびフアットマンの威力の極端な見積り範囲は(リトルボーイには低く、フアットマンには高く)、比率でいうと約2対1であった。1987年の最もよい推定数字は、フアットマンはリトルボーイより約40%大きかったとした(そして、ことによると15%小さい)。約21キロトン位だと、フアットマンの最適な爆発 高度は約3,100ftであった。実際の爆発高度は、15psiの過圧に最適であった。この高度なら放射性物質が日本中にばら撒かれないようにするのに十分低かった。

1.5その他の爆弾

(1)核物質の生産


8月20日までに日本に第三の原爆を落す準備が進んでいた。そのフアットマン組立は既にテニアン島に到着しており、8月13日には米国でコアが準備されていた。これをテニアンに送り、一個の実戦用爆弾を仕上げるのに一週間を要した。

1945年中頃までには、原爆の生産は科学的研究ではなく工場技術の問題になっていた。科学的研究は継続されていたが、それは爆弾設計の改良に向けられていた。

ハンフオードでの三つの反応炉(B及びDは1944年12月に、Fは1945年2月に量産開始)は熱出力750メガワットで、理論的には毎月19.4キロ(炉当り6.5キロ)のプルトニウムを生産でき、これは3個以上のフアットマンに十分な量であった。月毎又は一年毎の生産数量は1945年と1946年について公表されていないが、1947年度迄(1947年6月30日)に493キロのプルトニウムを生産した。各反応炉が運転を始めた最初の月を除くと平均プルトニウム生産高は、1946年始めにそれぞれの炉が出力を落としたか、又は断続的に閉鎖したにしても反応炉当り5.6キロである。

濃縮ウランの生産は、三つの異なった濃縮過程が相互に結合し合っていたので、全体を知ることは難しい。Y-12カルトロン工場もまた1945年初頭に最大出力に達したが、この工場が変換する兵器等級ウラン生産量は供給される原料の濃縮度に依存した。当初は、自然ウランを原料として生産した兵器等級ウランは月6キロ程度であった。次に、S-50熱拡散工場が0.89%濃縮ウランを、K-25ガス拡散工場が1.1%濃縮ウランを供給し始めた。こうして確立された生産過程は次のようになった:熱拡散(0.89%へ)→ガス拡散(1.1%へ)→アルファカルトロン(20%へ)→ベータカルトロン→(89%まで)。これら三つの工場のうちK-25工場がこれまで最大の分離容量を有し、1945年中に順次生産ラインに入ってくると他の工場の重要性は減って行った。K-25に20%濃縮が出来るに十分なステージが付加されると、アルファカルトロンは戦時下でも閉鎖されることになった。

1945年8月日本が降伏した後、S-50は閉鎖された;9月にアルファカルトロンが続いた。K-25が8月15日に完成したので、この閉鎖は起こるべくして起った。この時点で、兵器級ウランを生産できないガス拡散で計画された"トップ工場"はキャンセルされベータカルトロンに向けられた。K-25の拡張工場はK-27と呼ばれ 、大量に20%濃縮するために建設されて1946年2月1日までに完全操業に入った。10月にU-235の生産量は月32キロになった。

11月と12月に追加のベータトラックが稼動し、すべてのベータトラックのダウンタイムの比率が下がったので生産量が更に増加した。1945年10月と1946年6月の間、これらの改良によってオークリッジで生産高が117%増となり、U-235の生産量は月69キロに達した。

(2)混合コア兵器

たとえ戦争が続いていても、リトルボーイ型の爆弾をもう使うことはあり得なかった。リトルボーイは非常に非効率で、多量の臨界質量を必要とする。もしU-235がフアットマン型爆弾に使われたら、効率は一桁上がったであろう。臨界質量(15キロ)が少なくなるだけ多くの爆弾が作れる。1945年7月19日(トリニテイ実験直後)、オッペンハイマーはグロ-ヴス将軍にリトルボーイからU-235を持ってきて、ウラン/プルトニウム混合コアに再加工すると、より多くの爆縮爆弾が作れると進言した(リトルボーイのピットから4個の爆縮爆弾が作れる)。グローヴスは実用時期が遅れることを理由に断った。

戦争が終わったとき、ロスアラモスでは改良混合コア兵器の開発に全力をあげていた。それは二つの新機軸を組み合わせたものである:U-235とPu-239の混合ピットと、コアの空中浮揚である。コアの空中浮上は爆縮されたタンパーが空気の間隙を通って加速してピットに打撃を加え、内部と外部に同時に伝播する衝撃波を作ってより早い一様の圧縮をする。

この混合ピットは核燃料を別々に使用する場合に比べて幾つかの利点がある:
■単一の設計を両方の入手可能な兵器材料を用いた爆弾に使用できる。
プルトニウムと共にU-235を用いると、プルトニウムの量それに中性子バックグラウンドを減らすことができ、その一方でU-235単独の場合より小さな臨界質量で済む。 浮揚ピット設計はより大きな圧縮密度を達成した。これによって、同じ威力で核融合材料を25%少なくできるか、同じ量で威力を倍増できた。

1945年にスチムソン長官に報告された生産見積りは、第二のプルトニウム爆弾は8月24日までに用意でき、9月中には三個が、そして月毎に増えて12月には7個又はそれ以上の爆弾が入手できるとした。戦争末期に用意された爆弾設計の改良は、プルトニウム5キロまたはウラン12キロで夫々の爆弾に対応できるようにすることであった。これらの改良は明らかにこの見積に取り入れられていた。これらの改良が用いられると仮定して、10月での数量は月当り爆弾6個までが可能であった。月当りプルトニウムとHEUの生産数の最大値(各19.4キロ及び69キロ)を考えると、月当り10個近い爆弾の生産が可能であった。

1945年8月15日に戦争が終わったとき優先度が突然変化したので、戦時の開発及び生産日程は続かなかった。浮揚ピット/混合コア爆弾は直ちに休止させられた。この爆弾は1940年代終わりまでは米国兵器廠に入ることはなかった。イニシエータの生産を1945年7月水準の十倍に増やす計画は放棄された。

       核分裂材料の生産はその年の終わりにS-51とアルファカルトロンが閉鎖された以降も減産しなかったが、ハンフオードからのプルトニウムの出荷は差し止められ、濃縮された硝化プルトニウムはそこに蓄積されたままになった。

1946年初頭、K-25とK-27とは兵器級のウランを直接生産するために再構築されたが、非常に高価なY-12ベータトラックは1946年末まで操業を続けた。それまでに、Y-12は兵器級ウランをおよそ1,000キロ分離した。この点からガス拡散では、濃縮ウランは兵器級に高度に濃縮されたウランの生産が1964年に中止されるまでは、プルトニウム生産をしのいで米国の兵器級核分裂材料の大黒柱であった。

ハンフオードの反応炉は予期しない中性子照射損傷(ウイグナー効果)が蓄積し、1946年に停止するか又は小出力で運転された。もし戦争が続いていたら、両装置ともコストとリスクを背負ってフル生産を押し続けたであろう。

これらの優先度変化の影響は戦後の備蓄に見られる。ロスアラモスは1945年11月、フアットマンを60個(完全なフアットマンを組立てるための非核構成品のこと)を所有していたが1946年7月には、米兵器廠は唯の9個のフアットマン型爆弾と、この爆弾用の唯の7個の点火器を備蓄するに過ぎなかった。1947年7月、爆弾は13個に増加した。その核分裂材料は多分、100個の爆弾相当分を備蓄していたものと思われる。

General Charles C.Sweeney (Ret.)
2004年7月15日、ボストンの病院で死去(享年84歳)。1945年8月9日、スウィーニー陸軍少佐はB-29爆撃機「ボックスカー」を操縦して、長崎原爆投下作戦を指揮した。同月6日の広島原爆投下でも、原爆を投下した「エノラゲイ」とともに「ザグレートアーティスツ」を操縦して爆風測定に参加するなど、広島、長崎の両作戦に直接関わった。
戦後は原爆投下を擁護する発言を講演などで繰り返し、著書では原爆投下こそが戦争を終結させたとする持論を展開した。