史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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Edward Telller worked at Los Alamos during the Manhattan Project and later was the "father of the hydrogen bomb"

核融合反応現象は20世紀初頭、核物理の理解が進む過程で発見された。それまでは、太陽エネルギーの源は水素核融合であることは分っていたが、その細部は不明なままであった。この研究は1939年、フイジカル レビユー誌に掲載されたハンス ベスの太陽の内部での核融合反応の果たす役割に関する論文で最高潮に達し、これによって彼は1967年、ノーベル賞を受賞した。

2.1核融合兵器の初期研究

核融合反応を応用した兵器の可能性は、核融合の発見までは真剣に考えられて来なかった。世界中の科学者が核分裂が高温を作り出すことを知った直後から、この温度を核分裂の引き金にする着想が芽生えるまでに数年を要した。京都大学の萩原徳太郎が1941年5月、このアイデアを最初に発表した。

(1)発端

その数ヵ月後の1941年9月、原爆の研究に携わっていたエンリコ フエルミがエドワード テラー("血気の男")に、重水素中で核分裂を起こすと重水素が核分裂するだろか、と問いかけた。テラーは検討した結果、それは不可能であると答えこの命題の研究は一時途絶えたが、この会話こそテラーが核融合爆弾に取りつかれる発端になった。

[歴史的脚注:第二次世界大戦中ドイツで、通常の高性能炸薬を用い一点に集中する衝撃波と崩壊する核が限定的な核融合反応を起こすに十分なエネルギーを集中できる、とする考えが起った。このアイデアは多分一点に集中する衝撃波に関するグッダレーの研究、そしてノルウエーのベモルクにあった重水工場を連合国が破壊しようとしたことが契機になったのであろう。ドイツの科学者たちは、核分裂爆弾は今次の戦争の後だと考えていたので、彼らは連合軍が高性能炸薬兵器に重水を応用するのに興味を持っているのだろうと考えた。実際、ドイツは英国の"グランドスラム"爆弾が残したクレーターを調べた。この爆弾はこの大戦で使用された最大の通常型爆弾で、ドイツはその普通でない爆発力が核融合によるものであったかどうか調べたのである。ポーランドの研究家は1960年代と70年代に、一点に集中する衝撃波により核融合中性子が実際に発生することを報じた。理論的にはその可能性は残されているが、この方法で大量のエネルギーを明確に解放した人はまだ誰もいない。]

核融合兵器の可能性研究は、フエルミとテラーの会話から1950年初頭に実際に爆弾が作られるまでは不規則で危うい道を辿ってきた。第二次世界大戦中、核分裂爆弾の物理学が非常によく理解されるに至って、最初の大波が起きた。基本的な理論的探求の後、より良い実験データが必要であることが分り、マンハッタン計画の中にロスアラモスで核融合研究を行う計画が盛り込まれた。理論研究を続けて行くと楽観的になったり、悲観的になったり、そしてまた元に戻ったりが繰り返された。

ドイツ帝国の凋落が明らかになって来ると、この研究の優先度は急速に低下した。一方、テラーはこの問題に没頭するようになったので、ロスアラモスでの彼の本来の責務を果たすことが出来なくなり総ての技術的指導任務を解かれた。最後は、原爆に従事する人たちに干渉させないようにするため、別の研究グループに移された。

1942年7-9月、オッペンハイマーの理論研究グループ(オッペンハイマー、ベス、テラー、ジョン ヴァン ヴレック、フエリックス ブロホ、ロバート サーバー、及びエミル コノピンスキー)はバークレイで原爆設計の原理を研究すると共に、核融合爆弾の可能性についても検討した。メガトン級の核融合爆弾の可能性が高い 、と考えられた。

1943年4月、ロスアラモスでの最初の組織作りの際、ベスがテラーを差置いて理論部門の長に選ばれた。テラーはすぐ、核融合兵器設計(スーパーと名付けられた)という優先度の低い研究部門に推されたが、核分裂兵器の理論的業務の責任ある地位にも留まった。

1944年2月、ロスアラモス管理委員会は重水素核融合研究を再評価し、爆発反応を起こすにはトリチウムが必要だとした。こうして、核融合研究の優先度は更に格下げになった。

1944年5月、テラーは核分裂研究に彼の干渉するのを避けるため、理論部門から完全に手を引いた。彼は核融合研究の小さな独立したグループの長になった。

(2)スーパーの研究

終戦時、ロスアラモスの殆どの科学者や技術者及び事実上すべての指導者たちは民間の職業につくために離れていった。ある期間はどの種の兵器開発は殆ど進まなかった。離れた人たちの中にテラーもいた。1946年4月、スーパーについての戦時中の進捗を吟味する会議がテラー主催で催された。

その時点での設計は砲撃型ウラン核分裂爆弾の周りを約1立方メートルの液体重水素で包み、全体の組立を重いタンパーの中に入れるというものであった。この反応を起こすには、どれくらいか分からないほど大量のトリチウムが必要であった。必要なトリチウムの量が非常に多ければこの爆弾は実用的でない。一個のトリチウム原子の核融合は一個のPu-239原子(これと生産炉内の中性子と競合する)の核分裂エネルギーの8%を解放するので、重水素と重水素の核融合によるエネルギー騰貴は、スーパーが出番になる前にトリチウムスターター燃料が解放するより十倍以上大きい。その会議の時点では、スーパーは基本的には可能のように思えたが、それを確かめるにはより詳細な計算が必要だと結論付けた。また、その会議にソ連スパイのクラウスフッヘも出席していた。だから、ソ連は米国の核融合に対する関心と楽観性についてよく承知していた。

1946年中頃、テラーは「目覚し時計」と称するアイデアを明らかにした。このアイデアは核融合燃料として、6重水素化リチウムを爆縮型核分裂爆弾のウランタンパーの内側に用いるものであった。このアイデアは核分裂中性子がリチウムからトリチウムを発生させ、核分裂エネルギーが核融合燃料を圧縮・加熱して反応を点火する。それから、核分裂-核融合連鎖反応が核融合燃料とタンパーの間で爆弾が分解するまで進む。

1946年末、テラーは「目覚し時計」のアイデアは見込みがないと考えた。彼の1947年付覚書"熱核爆弾の開発について"の中で、彼は「目覚し時計」の可能性について悲観的だが、スーパーのようなものは可能であり更に研究を要する、と言っている。その頃利用できる計算手段が限定されていたため、彼は二つの研究法を更に進めるのをもう二年遅らせることを提案した。あの時、「目覚し時計」設計に沿って研究を進めていれば、米国は1949年末までにジョー4(下記参照)と同等の装置を実験することが出来たであろう。

終戦に続く四年目にロスアラモス理論部門の規模と人員は戦時の水準より大幅に削減されていたが、その約50%はスーパー研究に従事していた。良い計算機がなかったので、必要とする膨大な数値計算を妨げ、進展を非常に遅らせた。1949年までに冷戦は最高潮に達し、ベルリンの壁が築かれ、共産主義政府は東ヨーロッパ全部を支配下に収めた。そこはテラーのハンガリーの故郷があり、多くの家族が未だ住んでいた。1949年夏、彼は再びロスアラモスに戻りスーパーの開発を開始した。その8月29日、米国情報機関がジョー1(コード名:RDS-1)と呼んでいたソ連最初の原爆が爆発し、米国の核兵器独占は終わった。

この時点までに古典的なスーパー設計に関するより詳細な研究は、これはどう見ても限界であることが分った。多量のトリチウムが必要で、それが産み出してくれる威力に比べて非常に高価につくのと、この設計がうまくいくと言う確信は少しもなかった。しかし、テラーは楽観主義者であり続けた。その数週間の間、ロバートオッペンハイマーは原子力エネルギー委員会の最高諮問会議(GAC)議長として、スーパー研究が加速して行くのに、その欠点が明らかになったことから終始一貫して反対した。

にもかかわらず1950年1月31日トルーマン大統領は、米国は水素爆弾の開発を続けると発表した。その数週間後、テラーは"熱核爆弾の開発について"の72ページの改訂版を発行した。この論文の中でまた彼はスーパーと「目覚し時計」は共に兵器開発用に育って行く候補と見做したが、再びそのどちらかを全規模開発に入るかどうかの決定を下す時期を更に二年遅らせることを提案した。

この時点でこの命題に関するソ連の研究は、彼らが「重ね菓子」と呼ぶ「目覚し時計」概念のサハロフ-ギンスベルグ型に焦点を当てて、進行中であった。1950年3月、現実の「重ね菓子」兵器開発を進めるために、特別な部門が設立された。

トルーマンの決断直後の1950年2月までに、スタニスロウウラムが手計算で以前にスーパーに必要と考えられていた以上の莫大な量のトリチウムでも成功のチャンスはないことを見出した。6月16日、ウラムとコーネリウス エベレットとがより詳細な計算を終わった時、そのような大量のトリチウムを使った設計は不適切に見えた。ウラムとエンリコ フエルミとが更に行った解析は、古典的なスーパーを禁止する棺桶を釘付けにするものであった。ジョン フオン ノイマンが新しく発明したENIACがその年の終わりに大規模な計算を行い、否定的な結果は単にもっと多くの汚物をその墓に打ち込むことになった。1951年初頭まで、どうやって進めればよいか誰にも分からなかったので水爆開発の進展は頓挫した。

2.2最初の核融合兵器の設計と実験

(1)供試体の設計


1951年1月、ウラムは原爆が解放したエネルギーを外付の燃料カプセルの圧縮に使いる「ステージング」というアイデアを発明し、進歩への障害を切り開いた。最初、彼は核分裂爆弾を改良する方法として多量の核分裂材料を第二段に用いるアイデアを開発した。その月末に、彼は強力に圧縮すれば効率の良い大規模な核融合反応が可能であることに気付いた。これを多段階化すれば、事実上無限のサイズの爆弾が作れるようになる。

この鍵になるアイデアはそれだけでは不十分であった。実現可能な設計をする前に、このエネルギーフラックスを用いて効率良く圧縮する機構、そして圧縮された燃料に点火する方法、を開発する必要があった。ウラムのアイデアは、拡張しつつある爆弾コアの中性子フラックスまたは流体力学的衝撃波を圧縮に利用することであった。ウラムと共同研究していたテラーは、2月にこの洞察に凝った工夫を追加した。テラーはこの期間中積極的に関わり、第一段からの熱的輻射フラックスが必要な爆縮力を生成する有望な方法であることを明らかにした。1951年3月9日、ウラムとテラーは共同で、"非炭素原子触媒による爆発 I.流体力学的レンズと輻射鏡"というこれらのアイデアを総括した報告書をまとめた。

この頃からテラーはこの著しい進歩について自分の独占的な手柄を主張し始め、最後はウラムが独創的で重要な寄与をしたことを否定するに至った。

3月にテラーはこの輻射爆縮設計に一つの重要な要素を追加した。核分裂反応を引起すために段階的爆縮を用いるというウラムのアイデアを用いて、テラーは核融合燃料の中央に核分裂物質を置くことを示唆した。一点に集まる衝撃波は中央に達したときこれを超臨界まで圧縮し、核融合反応を点火するためのスパークプラグとしての役割を演じる。厳密には多分このアイデアは不必要で、一点に集まる衝撃波はどのみち中心部で非常に高い温度を発生し、近代の実験室内での慣性束縛核融合実験で行うような核融合を起こさせるに十分であった。

核融合燃料上で連続する圧縮が核分裂スパークプラグを閉じ込めるように働くので、この最終の混合設計概念を「平衡核分裂熱エネルギー」と命名した。1951年4月4日、テラーはこのアイデアを報告書にまとめ上げた。

1951年4月、必要な物理原理が入手できたので、水爆の開発と実験が始まった。今日に至る人類の歴史の中で他のどの計画より、この装置を設計するために大量の計算が必要であった(最近発明されたプログラマブル計算機なら可能)。この時点から、マンハッタン計画がその過程で驚くべき業績を挙げたのと同様、マイク装置爆発までの経過時間は19ヶ月未満であった。1951年4月、核融合反応と原子爆弾との実験がグリーンハウス実験シリーズの一部として、核融合ブーステイング構想の実験を含め既に米国側で準備されていた。特にグリーンハウスジョージ実験はテラー-ウラム構想を、外部質量の核融合燃料を加熱し圧縮する(爆縮ではなく)際の輻射効果の観測を含めて、評価する価値ある機会になった。

(2)実験

核融合反応を兵器に応用する幾つかの知識を得た後、我々はどの設計が「真の」水爆になり得るのか、という基本に関わる問題に立ち至った。私はこの問題を議論しようとはせずそれに替えて、初期の熱核兵器の開発と装備につながった総ての重要な実験を見ていくことにする。これらの実験を年代順に並べた。各実験には、それが兵器開発にどんな意味を持つか簡単な説明を付けた。

グリーンハウス ジョージ

爆発:1951年5月5日0930(現地時間)、エニウェトク環礁のエビレル/ルビー島の200フイート塔上
全威力:225キロトン

ジョージは純粋な原子爆弾の実験で、その威力はそれまでの最高であった。使用された爆縮U-235爆弾は円筒形で、物理学者ジョージ ガモフの設計が基礎になっている。シリンダ機器と呼ばれたこの実験は、ジョージに便乗して熱核反応の点火実験を行った。円筒形の爆縮設計は高性能炸薬層の遮蔽効果なしでピットから直接加熱する核融合実験を可能にし、拡張する爆発ガスによる分裂を避け得る。大きい核分裂コアの周りに置かれた重水素トリチウム混合物を熱フラックスによって点火し、それによる核融合中性子を検出した。この実験で初めて原子爆弾で熱核反応に点火することに成功した。ローズは"Dark Sun"の中で、与えられた燃料の重量はこの実験に必要な量の十二分の一(1オンス未満)と少なかったにもかかわらず、核融合エネルギーの威力は25キロトンであった、という。他の情報源は、この核融合の威力を単に小と評価しただけであった。この実験は高威力熱核兵器の開発に移行できる見通しを与えるものではなく、偶然にも二ヶ月後考案されたテラー-ウラム設計を評価するための有用なデータをもたらすに止まった。

グリーンハウス アイテム

爆発:1951年5月25日0617(現地時間)、エニウェトク環礁エンゲビ/ジャネット島の300フイート塔上
全威力:45.5キロトン

後押し型核融合装置の最初の実験。U-235爆弾コア中に組み込まれた重水素-トリチウム混合物は予想されたブーストなしの威力を100%上回った。この新機軸はその後のすべての戦略核兵器に取り入れられたが、核融合による威力は無視できる程度であり、未だ核分裂で可能な域を出ないものであった。

アイヴィ マイク

爆発:1952年1月11日0714:59.4±0.2秒(現地時間)、エニウエトック環礁のエルゲラブ/フローラ島上
全威力:10.4メガトン

これが、テラー-ウラム形態の最初の実験であった。このマイク装置は核融合燃料として液体重水素を用いた。エルゲラブ島には研究所からの多数の計測装置が配置された。高さ20フイート(より正確には243.625インチ又は6.19メートル)、幅6フイート8インチ、重さ164,000ポンド(取り付けられた診断用計測器を含む)の円筒;また「冷却装置」を含まないで140,000ポンドとも言う(この値はケースだけを指すものと思われる)。これらは屋根のないハンガーのような構造物(88フイート×46フイート、高さ61フイート)内に置かれ、そこで1952年9月から組立が始まった。

マイク装置の構造

マイク装置は両端が丸い大きな鋼製の筒で、一方の端に置かれたTX-5爆縮爆弾が第一段で、数百リッターの液体重水素入りの巨大なステンレス鋼のデュアー瓶(サーモス)が大量の自然ウランプッシャー/タンパーに囲まれて第二段の核融合段階を構成する(ソーセージと呼ぶ)。

溶接された鋼製容器は鉛で内張りされた。数センチ厚のポリエチレンの層が鉛に銅の釘で取り付けられた。このプラスチック層が爆縮時にプラズマ圧を発生する。

ソーセージは三つの隔壁を持つステンレス鋼の瓶よりなる。最内の壁は液体重水素を内蔵する。この壁と中央の壁との間は熱伝導を防ぐため、真空になっている。中央の壁と外側の壁の間ももう一つの真空と、液体窒素で冷却された銅製の熱輻射シールドとである。熱輻射漏洩を更に減らすため、ウランプッシャー(良い熱輻射体にするため、黒紫色に酸化されている)に金箔が内張りされている。

この瓶の対称軸に沿って、圧縮衝撃波が中央に達したとき核融合反応を点火させる「スパークプラグ」として作動するプルトニウム棒が液体重水素の中に支持されている。それは瓶の全長にまたがっているのではなく、両端は同軸支柱で支えられている。このスパークプラグはブーストされた核分裂装置で、中空で数グラムのトリチウム/重水素ガスで満たされている(それは勿論、瓶に液体重水素を注入した際、液化される)。

このマイク装置は保守的な設計であった。外部のケースは、輻射で誘起された内部の圧力を最大限に閉じ込めるために、鋼製で驚くほど厚かった。通常、「厚さ1フイート」と言われるが、その重量からして10インチ位だったらしい。内径は約60インチ。第二段の周りには、熱勾配を最小限にすると共に、ごまかしの解析に頼らなくても成功するように、一本の非常に幅広い輻射溝が造られた。液体重水素の密度が低いのと、熱絶縁の必要上、第二段そのものはとてもかさばった。第二段とケースとの間の幅広い溝と合わせて直径は80インチに上った。この重いケースがマイクの重量の大部分を占めた(約85%)。

TX-5爆縮爆弾は爆縮システムの実験型で、MK-5核分裂爆弾として採用された。これは92点の点火システムを用いた。このシステムは92個の雷管と炸薬レンズで球形爆縮衝撃波を造り出す。このシステムは初期の設計より炸薬の層が薄いが、それで爆縮衝撃波を形成できる。TX-5はいろいろな威力を得るために各種の核分裂ピットが使えるように設計された。TX-5の実験で得られた最高の威力は1951年4月20日のグリーンハウスイージーで、2,700ポンドで47キロトンであった。初期の設計に比べると軽量で、より高温に保持し第一次から熱輻射をより早く逃がすことで輻射爆縮過程を強化した。マイクにイージー形態を用いると、第二次核融合/第一次の威力比率は50/1になる。採用されたMK-5の外径は43.75インチで、TX-5はMK-5爆弾のケースがないだけずっと小さかった。

マイク装置の機能

マイクには三つの燃料が考えられた:液体重水素、重水素化アンモニア(ND3)、及び重水素化リチウム。この実験に液体重水素を選んだ主な理由は二つある:その物理的特性が研究や解析 を行うのにより単純であること、及び純重水素燃料につきこの十年間、広範囲な研究が行われてきたこと。リチウム-6重水素が燃料として望ましいことは知られていたが、1952年11月の目標期日までに十分なリチウム-6を生産できなかった(事実、最初のリチウム濃縮工場の建設はこの実験時に始まったばかりであった)。

液体重水素は次の四つの反応によりエネルギーを発生する:
D + T -> He-4 + n + 17.588 MeV
D + D -> He-3 + n + 3.268 MeV
D + D -> T + p + 4.03 MeV
He-3 + D -> He-4 + p + 18.34 MeV

マイクが成功裡に機能するには、第二段階で反応2及び3を点火するに十分な密度と温度が必要であった。すなわち密度は通常の数百倍、温度は絶対温度数千万度を必要とする(75グラム/立方センチ及び絶対温度三千万度)。

反応1の断面積は反応2及び3を合わせた値より約百倍も大きいので、トリチウムは作られるや否やすぐ燃えてこの反応の初期にエネルギーの大半に寄与する。一方、反応4はその断面積が顕著に寄与するには絶対温度二億度を超える温度が必要である。反応4が主な寄与をするには、十分な温度に達したか否か、及び十分な量のHe-3が造り出されたか否かということが燃焼効率(燃焼した燃料の比率)を決める。

もし、1から3の反応のみが顕著なときは、重水素燃料25%またはそれ以下が燃焼しエネルギー出力はキログラム当り57キロトンとなる。もし、反応4が最大限まで寄与すれば出力はキログラム当り82.4キロトンになる。効率良い燃焼をした場合、最高温度は絶対温度3億五千万度に達する。

マイクの核分裂分は非常に高く、77%であった。従って、全核融合威力は2.4メガトンとなり、これは重水素29.1キロ(172リッター) が効率よく熱核燃焼したか、または41.6キロ(249リッター)が非効率な燃焼をしたか、に対応する。

ウラン465キロで全核分裂威力は7.9メガトンであった。そのうちの約50キロトンを除く総てはウラン第二段タンパーの核融合中性子による高速核分裂によるものであり、3.3倍のブーストであった。

マイクに実際に使用された重水素の量はアイヴィ作戦で用いられた液体重水素の1,000リッター以下であった。事実、余剰のLD2が疑いもなく容器から漏洩していたかあるいはその他の損失が発生していたので 、かなりの量少なかった。

実験に先立ち、マイクの威力は1-10メガトンで5メガトンあたりと見積もられていたが、遠隔測定では50-90メガトンあたりとされた。主な不確定性は核融合燃焼の効率とタンパーに捕捉される中性子の効率にあった。核融合効率は高尚で複雑な物理学を必要とし 、たとえ圧縮の程度が既知であったとしても信頼ある計算はできなかった。一方、中性子捕捉の効率はよく理解され、もし条件が予測できたなら計算は可能であった。

この上限見積りはウランの核融合タンパーの質量を洞察する何かをもたらす。おそらく90メガトンという数値は第二段の総ての材料が完全に核融合と核分裂したと仮定して計算されたものであろう。もし1,000リッターの重水素が完全に効率良く燃焼したとすればその威力は13.9メガトンになる。ウランタンパー質量4,475キログラムに対応する核分裂は76.1メガトンと勘定せねばならない。重水素の寄与分を低く見積もるとタンパーの分を高く見積もることになる(重水素1リッターに対するウランの比率は0.82キログラム)。

マイクの爆発でエルゲラブ島は完全に抹殺された。以前は島があった環礁内の水中に幅6,240フイートで深さ164フイートのクレーターを造った。マイクは幅3マイルの火球を造った:このきのこ雲は90秒間に57,000フイートまで上昇し、5分間で135,000フイート(成層圏の上端)に達した。幹の太さは8マイルであった。きのこ雲は最後には幅1、000マイル、幹の太さ30マイルに達した。爆風により8千万トンの土壌を空中に持ち上げた。

TX-16/EC-16

マイク設計がリチウム重水素が実用兵器には向かないことを立証された後、実際に投下可能な兵器に改良されて行った。兵器化された設計はTX-16と呼ばれ、1952年6月に技術開発に入った。その設計は冷却装置を無くし、タンパーの重量を減らし、容器の寸法重量を大幅に減らし、第一段をより軽く威力の小さいものにし、その他の部分の重量を切り詰めた。予測された威力は7メガトンになった。この装置は直径60インチ、全長25フイート、重量30,000ポンドであった。この兵器の設計は離陸前に液体重水素を冷却充填部位に注入し、飛行中の蒸発による損失を補うに十分な量の液体水素を兵器内に貯蔵する。1953年末には爆弾5個分の部品が完成し、キャッスル実験時までに装備された。

1954年3月22日、ジャグヘッドと言うコード名のTX-16装置1個をキャッスルシリーズの一部として実証実験の爆発を行う予定であった。そして1954年5月、EC-16(Emergency Capability)弾道爆弾として採用が予定されていた。3月1日に行われたキャッスルブラボー実験で固体燃料を用いたシュリンプ装置が抜群の成果を挙げたので、1954年4月2日この実験と全EC-16計画は放棄された。

ソ連の実験:ジョー4/RDS-6s

爆発:1953年8月12日、カザフスタンのセミパラチンスクの塔上
全威力:400キロトン

この実験はソ連最初で、核融合反応から多くの威力増強を行ったソ連の実験の最初である。この爆弾(RDS-6sと命名)は、テラー-ウラム形態をとらず、その代わりにアンドレイ サハロフとヴィタリ ギンズベルグが発明した「スロイカ」設計を用いた。スロイカとは層状のロシアの菓子のことでナポレオンに似ており、従って「層状菓子」とも呼ばれた。この設計は最初、米国でエドワード テラー(彼はこれを「目覚し時計」と呼んだ)が発明したが、兵器としての開発には至らなかった。

この設計はサハロフが呼ぶ「第一及び第二のアイデア」の結合より成る。最初のアイデアはサハロフが開発したもので、核融合タンパーとして作用するU-238の最外層を伴った第一次核分裂材料の周りを核融合燃料の層で取り巻く。U-238タンパーは核融合燃料を閉じ込め、核分裂コアからの輻射でドライブされた衝撃波が核融合燃料を効率よく点火点まで圧縮・加熱する。一方で、核融合タンパーの低熱伝導性による熱損失を防ぎ、同時に核融合で発生した中性子による速い核分裂からの追加のエネルギーが得られる。第二のアイデアはギンズベルグの貢献によるもので、リチウム-6重水素(少量のトリチウムを含む)を核融合燃料に用いたことである。これは固体なので爆弾を設計するのに便利な材料であり、リチウム6+中性子反応を通じて核分裂中性子から更にトリチウムを造り出す。このことは、核融合燃料が事実上中性子加速器としての役割を演じ、U-238タンパー内で一対の核分裂→核融合→核分裂連鎖反応を確立する。連続したリチウム-6重水素とウランの層を爆弾の周りに追加配置することによってより大きな爆弾を造ることができる。1953年に実験された装置は多分二層であった。

小型のU-235核分裂爆弾が引き金として働く(約40キロトン)。全威力は400キロトンで、このエネルギーの15-20%は核融合によって解放され、90%は直接的又は間接的に核融合反応によるものであった。

この実験の数週間前、セミパラチンスク周辺の地域の人口は希薄なのにも拘らず、数万人の住民に強い放射能降下物の危険があったことが遅まきながら明らかになった。全員が退避するか、空中投下システムを準備するまで実験を延期するかのいずれかであった。後者の場合、少なくとも六ヶ月は必要であった。実験を遅らせないで、迅速な退避が行われた。

注:このことは「層状菓子」は1954年2月に米国がEC-14を事実上採用するまでは使用可能な兵器ではなかったことを意味する。EC-14はリチウム重水素を燃料とするテラー-ウラム設計によるメガトン級爆弾である。以下のキャッスルユニオン実験を参照。

キャッスルブラボー

爆発:1954年3月1日(0645現地時間) ビキニ環礁ナム(NAMU)/チャーリー島から2,950ft沖の珊瑚礁上で 全威力:15メガトン

ブラボー実験で爆発したシュリンプ装置は重水素化リチウムを燃料としたテラー-ウラム形態の最初の実験であった。これがその後のすべての水爆(ソ連の設計を含め)標準の設計になった。シュリンプは 、全長179.5インチ、全幅53.9インチの円筒形で重量23,500ポンドであった。シュリンプに使われたリチウムは、40%Li-6の水準まで濃縮された。この装置の予想威力は唯の6メガトン(範囲4-6メガトン)であったが、Li-7の高速中性子核分裂により予期しない大量のトリチウムができたため、威力を予想値の250%に押し上げ米国が実験した最大の爆弾になった(そして、多くの計測装置が破壊された)。核分裂威力は10メガトンで、核融合威力は33%の5メガトンであった。この爆発によって、環礁内に幅6,000フイート、深さ240フイートのクレーターができた。きのこ雲の頂上は114,000フイートに達した。

ブラボー実験は米国の歴史のなかで最悪の放射能災害をもたらした。天候が望ましくない変化をしたのに続いて実験を遅らせる失敗があったため、予期しない高い威力と相まってロンゲリック、ロンゲラップ、アイリングナエ及びウチリック上のマーシャル諸島は放射性降下物に包まれた。彼らは3月3日に避難したが、64人は175Rの被爆をした。日本の第五福竜丸(五番目の幸福な竜)もまたひどく汚染され、23人の乗組員は300Rの被爆をした(一人は後に余病を併発して死亡)。ビキニ環礁全体はいろいろの程度に汚染され、キャッスル作戦に従事した人たちの多くは結果としてその後過度の放射能に曝された。この実験のあと、キャッスル実験周りの立ち入り禁止区域は570,000平方マイル、直径850マイルの円相当(この面積は地球上の全陸地面積の約1%)に拡大された。

この二段シュリンプ設計はMk-21爆弾の基本に採用された。これを兵器化する作業が、ブラボーが終わって唯の3週間後に始まった。4月中旬までにその軍事特性が決まった。7月1日、装備日程を早めることが承認された。最後の早い核分裂段階は省略された。多くの重量軽減努力の末、設計が確定したように見えた。その予想威力は4メガトンであった(その後の1956年7月11日、レッドウイングナヴァヨでの実験で4.5メガトン、95%核分裂であった)。1955年12月量産を始め、1956年7月に275発を生産して終了した。MK21の重量約15,000ポンド;全長12.5インチ、直径56インチ。1957年6月-11月、MK36に置換された。

キャッスルロメオ

爆発:1954年3月27日0630:00.4(現地時間) ブラボー実験場所付近のビキニ環礁
全威力:11メガトン

ルントⅠ装置(キャッスルシリーズの二回目)は、今までとは別の二段固体燃料設計であった。この装置は長さ224.9インチ、直径61.4インチ、重量39,600ポンド。ルントの燃料は、リチウム6濃縮が高価なことを考慮し自然リチウム重水素を用いた。この装置はブラボーより大きな余裕をもって予想威力を超えた。予想された1.5-7メガトンの範囲を4メガトンも超過したのである。このことはブラボーに比べて、リチウム7の比率が高かったことと一致する。核分裂威力は7メガトンで、核融合比率は36%であった。

ルントⅠとルントⅡ(下記のキャッスルヤンキーを参照)は、それぞれEC-17とEC-24爆弾の設計供試体であった。この二つの水爆は非常に良く似ている(外見は同一、内部形態は類似、初段が異なる)。これらは予想威力が15-20メガトンと米国が造った兵器の中で最も強力で、米国が装備した中で最も大きく最も重い爆弾であった。全長24フイート8インチ、直径61.4インチ、重量41,400-42,000ポンド(うち30,000ポンドは3.5インチの鋼製ケース)。

これらの兵器の仕事に着手したのは少なくとも1953年2月で、1953年10月には開発に進んでいた。EC-17とEC-24とは米兵器廠に入った水爆の二番目と三番目であった。EC-17とEC-24は1954年4月から9月に備蓄された(EC-17は5個、EC-24は10個)。11月にはこれらの爆弾は持ち去られ安全性を改良するために改修され、落下速度を緩くするためにドラッグシュートを取り付け、1954年11月にMK17Mod0及びMK24Mod0として任務に戻った。これらの兵器はその後二度の改修を経て、1954年10月から1955年11月の間の生産により貯蔵量MK17 200個、MK24 105個に達した。MK24は1956年9-10月に退役;MK17は1956年11月と1957年11月の間に退役した。

キャッスルユニオン

爆発:1954年3月26日(0610:00.7現地時間)ユロチ(YUROCHI)島沖のビキニ環礁内のはしけ上
全威力:6.9メガトン

これがブラボーシリーズ四度目の実験であった(三回目のコーン実験は核融合段階が点火せず、失敗した)。これはEC-14目覚し時計爆弾の最初の試験であった(テラーの初期の目覚し時計概念とは無関係)。この爆弾は米国の兵器庫に入った最初の水爆で、どこも装備したことのない最初のテラー-ウラム爆弾であった。これは95%濃縮リチウム6を用いた固体燃料二段装置であった。これもまた予想した威力3-4メガトン(1-6メガトン範囲)を上回った。供試体は全長151インチ、直径61.4インチ、重量27,700キロであった。

TX-14目覚し時計は1952年8月に技術開発に入り、9月中旬に調達が認められた(マイク実験の約6週間前)。最初のEC-14は、その設計を実験する二ヶ月前の1954年2月に生産された。設計は単純だが安全面に関しては非常に貧弱であった。計5個が展開されたが、その数の少なさは当時、Li-6が払底していたためであろう。安全性は後付けで改良されただろうが、その高価格が退役を早めたのであろう。これらは11月、EC-17の展開と共に兵器廠から取り除かれた。MK14(その最後の展開名称)は直径61.4インチ、全長18フイート6インチ、重量28,954ポンド。ドラグシュート付で重量は29,851ポンドに増加。

キャッスルヤンキー

爆発:1954年5月5日(現地時間0610:00.1)、ビキニ環礁のユニオンクレーターのはしけ上
全威力:13.5メガトン

ルントⅡはルントⅠと主に第一段の設計において異なっている。ルントⅡ用の燃料もまた自然の重水素化リチウムであった。これもまた予想威力を上回り、最も考えられる威力の6-10メガトンの範囲を8メガトン超過した。この実験から得られた兵器についてはキャッスルユニオン参照。この装置は全長225インチ、直径61インチ、重量39,600ポンド。核分裂威力は7メガトンで核融合の48%。

ソ連の実験番号19

  実験:1955年11月22日(共通名なし)
全威力:1.6メガトン

テラー-ウラム/サハロフの第三のアイデアによる爆弾。重水素化リチウム燃料カプセルを爆発させるために輻射爆縮を用いた。この爆弾は世界で最初の空中投下核融合爆弾であった。この実験の後、ソ連は輻射爆縮爆弾を彼らの戦略的兵器廠の基礎にした。侵略地の地下で爆発させ、反射してきた衝撃が予想もしない間接被害を与え、三人が死亡した。